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2巻
2-2
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「それはこっちのセリフだ……ホストがこんなところで何をしているんだか」
「堅いことを言うな。陳情に見せかけた利益追求の話ばかりを聞いてると、頭がおかしくなるというものだ」
そう言ってお手上げとばかりに両手を上げながら肩を竦めた王は、不意に表情を引き締めるとリュシオンに問いかけた。
「賊に襲われたそうだな」
「ああ。雑魚だが」
事も無げに答える息子に「ふむ」とうなずき、国王は話を続ける。
「捕らえた者が、どこまで情報を持っているかだな。たいしたものは出てこないだろうが、最悪依頼主だけでもわかればいい」
「人がせっかく囮になったんだ。死なせるようなヘマはやめてくれ」
「もちろんだ。それにしても……」
息子の生意気な言い草に苦笑した父王は、ふと言葉を止めて彼の肩に手を置いた。
「無茶はするな。おまえが思うより、多くの人間がおまえのことを心配していると知れ」
リュシオンはその言葉に束の間呆けた後、慌てて顔を背けた。
「わかってる」
小さく発せられたものの、はっきりと耳に入ってきた言葉に国王は頬を緩ませた。
「ならいいが……このことを知ったら、可愛らしいどこぞの姫が、間違いなく心配するからなぁ」
ニヤニヤと余計なことを付け足した父に、リュシオンは心底うんざりした視線を向ける。
「誰のことだか」
リュシオンは脳裏に一人の少女を思い浮かべつつもそう嘯く。だがそう言った彼の表情は先ほどまでとは打って変わり、目に見えて柔らかくなっていた。
息子の様子にニヤつきながらも、王は彼と同じく幼い姫へと思いを馳せた。
(リュシオンにとっての『救い』であり、『癒し』か……)
「ククッ……まぁいい。それよりキーラに何か言ったのか?」
父の口から出た継母の名に再び顔を顰めつつ、リュシオンは無言で先の言葉を促す。
「そう睨むな。あれがぷりぷりと怒っていたのでな。どうせまたぶつかったのだろうと思っただけだ」
「わかってるなら訊く必要などないだろうに。……それからあの人の不機嫌の原因は、俺だけじゃなく父上にも十分あると思うが?」
「まぁいいさ。不機嫌なだけなら可愛いものだ。そう、不機嫌程度ならな……」
表情を消した国王をリュシオンは無言で見つめる。そんな息子の視線に気づいたのか、王はニッと悪戯っぽく笑ってみせた。
「もうすぐ豊穣祭がある。しかも今年は大祭だ。色々と楽しみではないか?」
「また何か企んでるのか……」
呆れたような息子の言葉に一頻り豪快な笑い声をあげると、彼は片目を瞑って告げた。
「人聞きの悪いことを言うな。俺は俺の役割を果たしているだけだ」
「役割?」
「ああ。『後見人』としての、な」
胸を張る国王に、リュシオンは内心頭を抱える思いだった。そして近い内に面倒ごとに巻き込まれるであろう、国王の『被後見人』へと思いを馳せた。
†
今なお続く宴のざわめきが微かに聞こえてくる、王宮の奥まった一室。部屋の入口近くで一組の男女がきつく抱き合っていた。
「王妃陛下は気分が優れなかったのではないか?」
男は腕の中の女に笑顔を見せると、勿体ぶった口調で語りかけた。
「そうよ。忌々しいリュシオンのせいで……」
「なるほど、不機嫌の理由はやはりあの王子というわけか」
納得したとばかりに男はうなずきながら、王妃――キーラの肩を抱いてソファへと座らせる。そして自分は近くにあったコンソールテーブルへと向かうと、そこに置かれたボトルから果実酒を二つの杯に移した。彼は両手に杯を持ったままキーラの横に腰掛けると、片方を彼女へと差し出し、二人は互いに杯を軽く触れ合わせると、同時にそれを呷った。
「気分は落ち着いたか?」
「少しだけ、ね」
笑みもなく答えたキーラをニヤリと笑って見つめた後、男は口を開いた。
「そういえば、興味深い噂を聞いた」
「噂?」
彼女の興味を引けたのを察し、彼は得意げに話し始める。
「王子のことだ。どうやら最近リヒトルーチェの娘と懇意にしているらしい」
「リヒトルーチェ公爵の?」
「そうだ。確か末の娘……ルーナレシアといったか」
「なんですって? リヒトルーチェの小娘といえば、陛下が後見している娘じゃないの」
眦を上げて睨むキーラの肩を軽く叩き、男は殊更優しい声で彼女を宥める。
「まぁ落ち着け。だが面白いと思わないか?」
「何が……」
「どんな貴族令嬢からの誘惑も冷たく振り払っていた王子が、まだ幼い公爵家の娘には気を許しているらしい」
「それは本当に確かなの?」
数多の娘が将来の王妃という地位を狙い、リュシオンに近づこうと躍起になっている。だがそんな思惑などお構いなしに、当の本人は近づく娘たちを氷の眼差しでもって撃退してきたのだ。
だからこそ彼が気を許す娘の存在など、キーラには信じられないものだった。
「本当だ。王子宮に頻繁に招かれているようだし、庭で仲良く話しているのを見た者も多い」
「仲良く?」
「ああ。信じられないことに、その時の王子は機嫌良く微笑んでいたらしいぞ」
「ありえないわ。でもよりによってリヒトルーチェ公爵家の娘だなんて……。もしかして陛下がその娘の後見人になったのは、リュシオンの妃にするための足固めだったんじゃないかしら」
キーラは眉間に皺を寄せて不安を口にした。
もしも次期国王の妃にリヒトルーチェ公爵の娘が選ばれることになれば、王家と公爵家の絆はさらに盤石なものとなるだろう。婚姻により国王が公然と公爵家の後ろ盾を得られれば、王に不満を持つ者は太刀打ちなどできなくなる。それは造反を企む者たちにとって回避したい事態だ。
「その娘、邪魔ね」
そそのかすように彼女の口からつぶやかれた言葉に、男はニヤリと口を歪めた。
「そうだな。なぁ、たとえば噂の令嬢が害されたらどうなると思う?」
耳元で囁かれた言葉に、キーラは一瞬目を見開き、次いで楽しそうに笑い出した。
「面白いことになるわ。そう、とても面白いことに……」
男は彼女の肩を引き寄せると、喉の奥で笑いながら彼女を煽った。
「上手くいけば、王子だけではなく、公爵にも一泡吹かせられるな」
「ええ。考えるだけでも、なんて楽しいのかしら」
「怖い女だ」
そう漏らす相手の頬に手を置くと、キーラはじっと彼の目を見つめた。
「ねぇ、わたくしのために邪魔者を消してくれるでしょう?」
彼女の言葉を聞くと、男はニヤリと笑う。
「そうだな……だが、まぁ待て」
「待て? 嫌だと言うの?」
逃げ腰とも取れる男の言葉に、キーラはキッと彼を睨みつけた。だがそんな態度にも慌てることなく男は宥めるように彼女へ顔を寄せた。
「話は最後まで聞くものだ。俺が言いたいのは、まだ手を出す時じゃないということだ」
「どういうこと?」
「馬鹿な輩がつい先ほど王子へ安易に手を出した。暗殺者を雇ってな。しかも間抜けなことに失敗したらしい……今頃依頼主はさぞ戦々恐々としていることだろう。そういうわけで、しばらくは大っぴらに動くのは避けなければならなくなった」
黙って耳を傾けていたキーラは、男の説明を聞いて不満そうに声を荒らげた。
「だから何もしないというの? そんなの嫌よ!」
「わかってる。黙って見ているとは誰も言っていないだろう? 要するに俺たちが直接手を出さなければいいのさ」
男の意図がやっと理解できたのか、キーラはゆるゆると口角を上げた。
「そうね。わたくしたちの手を煩わすまでもないわ」
「ああ。俺たちは愚かで哀れな人形を、後ろで操っていればいい」
「そしていざとなれば、糸を切って生贄に人形を差し出せばいいというわけね」
「そういうことだ」
うなずいた男の耳に顔を寄せると、キーラはかすれた声で耳打ちした。
「ねぇ、貴方はそんな愚かな人形に心当たりがあるかしら?」
「いなくはないが、今は動きにくいな。そっちはどうだ?」
「素敵に踊ってくれそうな人形がいるわ。愚かで可愛らしい人形が……。今回は彼女に舞台を用意してあげましょうよ」
酷薄な笑みを浮かべ、キーラは真っ赤に染められた爪で男の頬をなぞる。
「そうだな。あとは俺たちがどう上手く操るか……か」
男は薄ら笑いで答えると、近づいてきた赤い唇に自分のそれを押し付けた。
†
クレセニア王宮の北端には、妃の宮と呼ばれる建物がある。
それは歴代の王妃のために建てられた宮殿で、現在はクレセニア国王妃キーラが、その娘ネイディアと共に暮らしていた。
妃の宮の最奥、王妃の部屋とは正反対の方角にネイディア王女の部屋がある。白とスモークピンクでまとめられた室内には、部屋の主と共に従姉であるネグロ侯爵令嬢マヌエラの姿があった。
「まだですの?」
急かすようなマヌエラの声に、ネイディアは困惑に眉を寄せてテーブル上の盤を見た。
黒い巻き毛に紅茶色の瞳をした王女は、髪は橙色、瞳は薄茶色と色彩こそ違うものの、よく似た面差しの従姉を不安そうに見上げた。
「じゃあ、ここ」
ネイディアが盤上に駒を置くと、それを見たマヌエラは勝ち誇った笑みを浮かべて自分の駒を置いた。
「あっ……」
「わたくしの勝ちですわね」
「負けちゃった」
小さな声でネイディアがつぶやくと、マヌエラは横柄な態度でうなずきつつ、とってつけたような慰めの言葉を口にした。
「惜しかったですわね。最後に焦らなければ、もう少しなんとかなったと思いますわ」
「……うん」
自分が焦らせたことを棚上げしたマヌエラの言葉に、けれどネイディアは素直にうなずく。その時彼女の部屋のドアが、ノックもなく開け放たれた。
入ってきたのは夜会の盛装と言ってもおかしくないような、豪奢で煌びやかなドレスを纏った女性――クレセニア王妃であり、ネイディアの母であるキーラだった。
「王妃様っ!」
「お母様……」
嬉しそうにキーラを見るマヌエラとは対照的に、ネイディアは戸惑った様子で小さく母を呼んだ。
「来ていたのね、マヌエラ」
「はい」
キーラはチラリと娘を見た後、無言で視線を逸らし、姪であるマヌエラへと話しかけた。
「お兄様はお元気?」
「元気ですわ。王妃様にくれぐれもよろしくと言付かっております」
キーラは鷹揚にうなずくと、気だるげにカウチに腰を下ろした。そしてテーブルの上に置かれた盤を見ると気まぐれに問いかけた。
「ゲームをしていたのね……。で、どちらが勝ったのかしら?」
「わたくしですわ、王妃様」
自慢げにマヌエラが答えると、彼女は冷たい視線を娘に向けながら苛々と捲くし立てた。
「そう。……まったくこの子は誰に似たのかしら? 頭も悪いし、愚図。おまけに身体まで弱いときてる。小さい頃から利発な子だと言われてきたわたくしとは大違いだわ」
蔑む母の言葉に、ネイディアは黙って顔を俯かせる。マヌエラはキーラの言葉にうなずきはしなかったが、かといって従姉を庇う素振りも見せなかった。
「まぁいいわ。マヌエラ、お茶を手配して」
「はい、ただ今」
キーラの言葉にマヌエラはすぐさま返事をすると、メイドを呼ぶために呼び鈴を鳴らした。ほどなくしてやってきたメイドたちは、そこに王妃の姿を確認すると、マヌエラに急かされるまま大慌てでお茶の用意を調えた。
キーラとマヌエラが、優雅にお茶を楽しみながら雑談に花を咲かせる横で、ネイディアは静かにそれを眺めている。知らぬ者がその光景を見たのならば、間違いなくマヌエラを王女と思い込んだだろう。
「そういえば、もうすぐ豊穣祭ね……」
何気なく口にしたキーラの言葉に、マヌエラは思い出したと言わんばかりに勢い込んで訴えた。
「それですわ! 王妃様、聞いてくださいっ!!」
「一体なんなの?」
マヌエラの態度に眉を顰めながら、キーラはカップに口をつけ、片手を緩く左右に振って彼女を促した。
「国王陛下のことですわ。豊穣祭のためにと、臣下の娘に御自ら衣装を贈られるとか!」
「臣下の娘……?」
ピクリと眉を上げたキーラに、マヌエラは怯みながらも告げた。
「リヒトルーチェ公爵令嬢ですわ」
「陛下が後見されている娘ね……」
「そ、そうですけれど、後見人になられたとはいえ、陛下がそこまでなさる必要はありませんわ」
少しばかり勢いをそがれながらも、マヌエラは必死に言い募る。キーラは続く彼女の訴えに反応を示すことなく、一つの言葉に気をとられ、視線を空に彷徨わせていた。
「公爵家の娘、ね」
やがてキーラがポツリと零すと、マヌエラは口を尖らせて不満を顕わにした。
「陛下はリヒトルーチェ公爵家をお目に掛けすぎですわ。件の令嬢もそれを笠に着てやりたい放題だなんて! しかも王女であるネイディア様を差し置いて、陛下がご自分で衣装を選ばれるとか。どうせそれもあの方が我儘をおっしゃったのですわ!!」
マヌエラの言い分を黙って聞いていたキーラは静かにうなずく。たいして愛着のない娘だが、他人の娘が自分の娘より優遇されるというのは、彼女のプライドを著しく傷つけるものだった。
「本当に……。国王に物を強請るなど、なんと図々しい……忌々しい娘だこと」
「えっ?」
小さくつぶやかれたキーラの言葉は、二人の少女の耳には届かなかった。聞き返すマヌエラを無視し、彼女は苛立たしげにティーカップを皿へ置いた。
「このままだと、いずれ公爵家の末娘が王太子妃ということになるわね。陛下のみならずリュシオンもその娘を気に入っているようだし」
「そんなっ」
言い放たれた言葉に動揺し、マヌエラは大きな声をあげた。平静を失った彼女を、キーラは一瞥する。
「家柄も問題ない、国王にも王子にも気に入られているとなれば……」
「嫌っ」
考えたくない未来を示唆され、マヌエラは首を振って不安を振り払った。
「国王陛下にまで媚を売るような方は、リュシオン殿下には相応しくありませんわ!」
マヌエラが怒りを込めて叫ぶと、キーラはそれまでの苛立たしげな表情を一変させ、にこりと微笑んだ。
「そうね。……本当はわたくし、リュシオンの伴侶には貴女を陛下に推薦しようと思っていたのよ」
「わ、わたくしを?」
「そう。貴女ならば、リュシオンと年も近い。家柄だって問題ないわ……それにあの子を慕ってくれているようだし」
「王妃様!」
感激する姪に、彼女は優しく続けた。
「リュシオンは今でこそ国内有数の魔法使いと言われている。それでもまだ魔力を暴走させて恐れられていた過去を忘れていない者も多いのよ。そんな彼を慕ってくれるなんて、貴女は本当に優しい子ね」
「王妃様、昔のことは存じ上げませんが、わたくし、リュシオン殿下の魔力を恐れたりいたしませんわ。だってあんなに素敵な方ですもの……」
リュシオンの姿を思い浮かべているのか、うっとりと夢想しているらしいマヌエラに、キーラは冷たい眼差しを向けた。
(馬鹿な子。あれの外見に囚われ、本質をわかっていない。……恐れたりしない? あれが魔法を使うところを見たこともないくせに。本当に愚かな娘)
心の中でマヌエラを嘲りつつも、キーラは微笑みを浮かべて優しく彼女の手を取った。
「ええ、わかっているわ。可愛い姪のことですもの。わたくしとてその想い、叶えてやりたいと思うのよ」
「王妃様……」
うっとりと自分を見つめるマヌエラに、キーラはわざとらしくため息をついた。
「……けれど相手はリヒトルーチェ公爵令嬢。彼女を押し退けてまで貴女をと推す者は少ないかもしれないわね」
「なんとかならないのですか」
公爵と侯爵。どちらも大貴族とはいえ、その階級差は埋められない。さらにその歴史の古さなどをかんがみれば、両家には歴然とした差がある。
「そうね、正直難しいのは否めないわ。リヒトルーチェ公爵は陛下のお気に入り、そして懐刀。しかも公爵家を味方につけておこうとするのなら、王家にとってその縁談はまたとないもの」
淡々と事実を述べるキーラに、マヌエラは唇を震わせて俯いた。
「このまま公爵令嬢がつつがなく成人するならば、貴女がリュシオンの伴侶となるのは難しいわね」
独り言のようにつぶやかれた彼女の言葉は、けれどマヌエラの中に棘のようにしっかりと突き刺さった。
(あの子が……あの子がいなければ……)
「マヌエラ?」
心配そうにマヌエラを覗き込むネイディアにも応えず、彼女は昏い思考に支配されていく。
「貴女とリュシオンのことは、お兄様にも知らせておくわ。ネグロ侯爵家としても、公爵の力がさらに増すなど歓迎できないことですもの。……そう、わたくしたちは貴女の味方よ」
「王妃様……」
澱のように、マヌエラの心の底に溜まっていくキーラの言葉。彼女は父であるネグロ侯爵を思い浮かべた。
父にとってリヒトルーチェ公爵はまさに目の上の瘤。若い頃は学問や武芸における優秀さを憎み、爵位を継いでからは、国政での立場やその財力に尽きぬ妬みを抱いていた。
王妃の兄という立場を手に入れてなお、その胸中は変わらない。むしろ差が縮まったことでより多くの嫉妬を抱えることになった。そこへ王子の伴侶がよりによってリヒトルーチェ公爵の娘となればどうなるだろう。
(お父様は、わたくしの味方をしてくれる!)
マヌエラは、自ら導きだした答えに満足すると、キーラへ向けて満面の笑みを浮かべた。
「リヒトルーチェ公爵令嬢が王太子妃になるとは限りませんわ」
「ほう?」
「だって公爵家ともなれば、身に迫る危険も多いですもの。幼い彼女が無事に成人できるとは限らないと思いませんか?」
消えかけていた自信を復活させたマヌエラは、瞳に強い意志を覗かせて王妃に問いかけた。
「確かに貴族は何かと狙われるもの。それも敵の多い公爵の娘ともなれば、ね」
「ええ。何が起こるかわかりませんわ。物騒な世の中ですもの……」
クスクスと笑うマヌエラに、キーラは面白そうに眉を上げた。
「そうね。物騒な世の中だわ」
笑い合う二人を、ネイディアは一人、不安げに見つめていた――
第二章 豊穣祭の花姫
まだ神々の息吹が、大陸のあちこちに満ち溢れていた時代。
神々のもたらす豊穣を当たり前のこととして享受し、人々はその恵みに感謝することを忘れていった。しかし、そんな人間たちの栄華は、長く続くことはなかった。
傲慢になった人間たちに神々は怒り、大陸は未曾有の大災害に襲われたのだ。
日照りが続いて大地は枯れ、かと思えば他方では河川が氾濫する。歩くのもままならないほどの強風が吹き荒ぶところがあるかと思えば、また一方では火の山が灰を降らせた。
災害により人の営みは崩壊し、飢える者が大陸に溢れた。そうして初めて人々は神々の恵みに感謝することを思い出した。しかし時すでに遅く……
自分勝手な人間への神々の怒りは大きく、人間はその前で余りにも無力だった。
そんな中、自らの子とも思う民が、飢え、死んでいくのを嘆く一人の王がいた。
「ああ、どうすれば神々は我らを許し給うのか」
供物を捧げ、寝る間も惜しんで祈りを捧げる王。けれどその祈りに神々が応えることはなかった。
万策尽きた王に、臣が言う。
「王よ、失われた儀式を試みるべきかと。神々へ生贄を捧げるのです」
「生贄だと? 生贄にする家畜などもうおらん」
臣の提案に王は天を仰いでつぶやいた。そもそも家畜など疾うの昔に食料として消えていた。
「家畜ではございませぬ。……人を、です」
「人を……だと?」
「世界を救うためならば、贄となる者もきっと喜びましょう」
「馬鹿を言うな! 飢え、大切な者を失くし、悲嘆に暮れる民にまだ犠牲を強いるのか! それならば我が贄となろう!!」
「なりませぬ。王が自ら犠牲になってしまわれたら、誰が国を導くのです」
臣の言葉に王は苦悩する。誰も生贄になどしたくはない。けれどもう何をすれば神々の許しを得られるのか彼にはわからなかったのだ。その時、王に語りかける者たちがいた。
「王よ、わたくしたちが贄となりましょう」
「民にこれ以上の犠牲を強いてはなりません」
「わたくしたちは喜んで民のために死にましょう」
「神の下にいくのです。何も怖くなどありませんわ」
「王、わたくしたちをどうか」
それは王の五人の娘だった。娘たちの言葉に王はさらに苦悩を深くする。五人の娘は彼が愛してやまない者たちなのだ。
けれど王は決断を下す。民のため、自分のもっとも大切な娘たちを贄とすることに。
「神よ、我が娘の命をもって、愚かな我らをお許し下さい」
王と姫たちの心根の尊さに、怒れる神々の心もついに動かされることとなる。
その日の夜、遍く民の夢に神々が現れたのだ。
『王と姫たちの清き心に免じ、そなたらの願い、聞き届けよう。我らに贄はいらぬ。その代わり五年に一度、娘たちに舞を奉じさせよ』
王はすぐに、神々の要望どおり舞の奉納を執り行うことにした。幸いにも五人の娘たちは舞の名手。贄にならずとも民のために出来ることがあると、五人は喜んで舞の奉納を引き受けた。
やがて神殿で行われた奉納舞の素晴らしさは、神々さえも唸らせるものだった。
一差し舞えば、枯れた大地が芽吹き、もう一差し舞えば、干上がった水場に水が湧き上がった。
舞うごとに河川は穏やかな流れを取り戻し、荒れ狂っていた風はおさまり、燃える火の山は怒りを静めた。
こうして五人の姫が舞い終わると、大地は神々の恵みを取り戻したのだった。
人々は神々の慈悲に深く感謝し、その恵みを忘れぬため、毎年豊穣を感謝し祝うことにした。
そして五年に一度を大祭の年とし、創始の舞姫たちと同じ、五人の娘を選んで神へと舞を奉納することを誓ったのだ。
いつしか五人の舞姫たちは『花姫』と呼ばれ、その奉納舞の儀式は今もなお、サンクトロイメの各地で続いている。
†
リヒトルーチェ邸の図書室。
パタンと読んでいた本を閉じ、ルーナは「んーっ」と唸りながら両手を前へ突き出した。彼女が読んでいたのは、サンクトロイメで広く知られる豊穣祭についての伝説だ。
「それにしても、神話にありがちなご都合主義というか……。わたしだったらこの臣下を生贄に選んじゃうかも。まぁ脚色しまくりでこの伝説も事実からはほど遠かったりするんだろうけどね」
ルーナは頬杖をつくと、本の表紙を眺めながら独りごちた。そもそも何故彼女が豊穣祭の伝説に目を通しているのか。それは遡ること数日前――
その日ルーナは、父アイヴァン、そして護衛の少年カインと共に王宮に来ていた。
五歳の時初めて王宮を訪れてから三年。その間に彼女は幾度も王宮に招かれていたが、それはひとえにルーナの後見人という立場を最大限に利用し、彼女に会いたいという我儘を押し通す、この国の王が原因だった。
彼の臣下であり、親友でもあるアイヴァンはそんな国王への苦々しさを隠さなかったが、ルーナ本人は、自分を可愛がってくれる国王に対して嫌悪の情など湧くはずもなく、彼に会うこと自体は苦痛ではなかった。
(でも王宮に行くのって、無駄に緊張するのよね……)
大抵の場合は人払いを済ませてある場所での謁見になるが、それでも多くの貴族や官吏が集まる王宮だ。小さな子供が歩いていれば嫌でも注目を集める。そういった視線にルーナが慣れることはなかった。
一方王宮側では、国王の被後見人であり、名門リヒトルーチェ公爵家の令嬢が王宮を訪れることに慣れつつあった。それどころか愛らしく行儀の良い彼女は、王宮に勤める官吏たちにとって密かに癒しのマスコットとなり人気を博していたのだ。
「堅いことを言うな。陳情に見せかけた利益追求の話ばかりを聞いてると、頭がおかしくなるというものだ」
そう言ってお手上げとばかりに両手を上げながら肩を竦めた王は、不意に表情を引き締めるとリュシオンに問いかけた。
「賊に襲われたそうだな」
「ああ。雑魚だが」
事も無げに答える息子に「ふむ」とうなずき、国王は話を続ける。
「捕らえた者が、どこまで情報を持っているかだな。たいしたものは出てこないだろうが、最悪依頼主だけでもわかればいい」
「人がせっかく囮になったんだ。死なせるようなヘマはやめてくれ」
「もちろんだ。それにしても……」
息子の生意気な言い草に苦笑した父王は、ふと言葉を止めて彼の肩に手を置いた。
「無茶はするな。おまえが思うより、多くの人間がおまえのことを心配していると知れ」
リュシオンはその言葉に束の間呆けた後、慌てて顔を背けた。
「わかってる」
小さく発せられたものの、はっきりと耳に入ってきた言葉に国王は頬を緩ませた。
「ならいいが……このことを知ったら、可愛らしいどこぞの姫が、間違いなく心配するからなぁ」
ニヤニヤと余計なことを付け足した父に、リュシオンは心底うんざりした視線を向ける。
「誰のことだか」
リュシオンは脳裏に一人の少女を思い浮かべつつもそう嘯く。だがそう言った彼の表情は先ほどまでとは打って変わり、目に見えて柔らかくなっていた。
息子の様子にニヤつきながらも、王は彼と同じく幼い姫へと思いを馳せた。
(リュシオンにとっての『救い』であり、『癒し』か……)
「ククッ……まぁいい。それよりキーラに何か言ったのか?」
父の口から出た継母の名に再び顔を顰めつつ、リュシオンは無言で先の言葉を促す。
「そう睨むな。あれがぷりぷりと怒っていたのでな。どうせまたぶつかったのだろうと思っただけだ」
「わかってるなら訊く必要などないだろうに。……それからあの人の不機嫌の原因は、俺だけじゃなく父上にも十分あると思うが?」
「まぁいいさ。不機嫌なだけなら可愛いものだ。そう、不機嫌程度ならな……」
表情を消した国王をリュシオンは無言で見つめる。そんな息子の視線に気づいたのか、王はニッと悪戯っぽく笑ってみせた。
「もうすぐ豊穣祭がある。しかも今年は大祭だ。色々と楽しみではないか?」
「また何か企んでるのか……」
呆れたような息子の言葉に一頻り豪快な笑い声をあげると、彼は片目を瞑って告げた。
「人聞きの悪いことを言うな。俺は俺の役割を果たしているだけだ」
「役割?」
「ああ。『後見人』としての、な」
胸を張る国王に、リュシオンは内心頭を抱える思いだった。そして近い内に面倒ごとに巻き込まれるであろう、国王の『被後見人』へと思いを馳せた。
†
今なお続く宴のざわめきが微かに聞こえてくる、王宮の奥まった一室。部屋の入口近くで一組の男女がきつく抱き合っていた。
「王妃陛下は気分が優れなかったのではないか?」
男は腕の中の女に笑顔を見せると、勿体ぶった口調で語りかけた。
「そうよ。忌々しいリュシオンのせいで……」
「なるほど、不機嫌の理由はやはりあの王子というわけか」
納得したとばかりに男はうなずきながら、王妃――キーラの肩を抱いてソファへと座らせる。そして自分は近くにあったコンソールテーブルへと向かうと、そこに置かれたボトルから果実酒を二つの杯に移した。彼は両手に杯を持ったままキーラの横に腰掛けると、片方を彼女へと差し出し、二人は互いに杯を軽く触れ合わせると、同時にそれを呷った。
「気分は落ち着いたか?」
「少しだけ、ね」
笑みもなく答えたキーラをニヤリと笑って見つめた後、男は口を開いた。
「そういえば、興味深い噂を聞いた」
「噂?」
彼女の興味を引けたのを察し、彼は得意げに話し始める。
「王子のことだ。どうやら最近リヒトルーチェの娘と懇意にしているらしい」
「リヒトルーチェ公爵の?」
「そうだ。確か末の娘……ルーナレシアといったか」
「なんですって? リヒトルーチェの小娘といえば、陛下が後見している娘じゃないの」
眦を上げて睨むキーラの肩を軽く叩き、男は殊更優しい声で彼女を宥める。
「まぁ落ち着け。だが面白いと思わないか?」
「何が……」
「どんな貴族令嬢からの誘惑も冷たく振り払っていた王子が、まだ幼い公爵家の娘には気を許しているらしい」
「それは本当に確かなの?」
数多の娘が将来の王妃という地位を狙い、リュシオンに近づこうと躍起になっている。だがそんな思惑などお構いなしに、当の本人は近づく娘たちを氷の眼差しでもって撃退してきたのだ。
だからこそ彼が気を許す娘の存在など、キーラには信じられないものだった。
「本当だ。王子宮に頻繁に招かれているようだし、庭で仲良く話しているのを見た者も多い」
「仲良く?」
「ああ。信じられないことに、その時の王子は機嫌良く微笑んでいたらしいぞ」
「ありえないわ。でもよりによってリヒトルーチェ公爵家の娘だなんて……。もしかして陛下がその娘の後見人になったのは、リュシオンの妃にするための足固めだったんじゃないかしら」
キーラは眉間に皺を寄せて不安を口にした。
もしも次期国王の妃にリヒトルーチェ公爵の娘が選ばれることになれば、王家と公爵家の絆はさらに盤石なものとなるだろう。婚姻により国王が公然と公爵家の後ろ盾を得られれば、王に不満を持つ者は太刀打ちなどできなくなる。それは造反を企む者たちにとって回避したい事態だ。
「その娘、邪魔ね」
そそのかすように彼女の口からつぶやかれた言葉に、男はニヤリと口を歪めた。
「そうだな。なぁ、たとえば噂の令嬢が害されたらどうなると思う?」
耳元で囁かれた言葉に、キーラは一瞬目を見開き、次いで楽しそうに笑い出した。
「面白いことになるわ。そう、とても面白いことに……」
男は彼女の肩を引き寄せると、喉の奥で笑いながら彼女を煽った。
「上手くいけば、王子だけではなく、公爵にも一泡吹かせられるな」
「ええ。考えるだけでも、なんて楽しいのかしら」
「怖い女だ」
そう漏らす相手の頬に手を置くと、キーラはじっと彼の目を見つめた。
「ねぇ、わたくしのために邪魔者を消してくれるでしょう?」
彼女の言葉を聞くと、男はニヤリと笑う。
「そうだな……だが、まぁ待て」
「待て? 嫌だと言うの?」
逃げ腰とも取れる男の言葉に、キーラはキッと彼を睨みつけた。だがそんな態度にも慌てることなく男は宥めるように彼女へ顔を寄せた。
「話は最後まで聞くものだ。俺が言いたいのは、まだ手を出す時じゃないということだ」
「どういうこと?」
「馬鹿な輩がつい先ほど王子へ安易に手を出した。暗殺者を雇ってな。しかも間抜けなことに失敗したらしい……今頃依頼主はさぞ戦々恐々としていることだろう。そういうわけで、しばらくは大っぴらに動くのは避けなければならなくなった」
黙って耳を傾けていたキーラは、男の説明を聞いて不満そうに声を荒らげた。
「だから何もしないというの? そんなの嫌よ!」
「わかってる。黙って見ているとは誰も言っていないだろう? 要するに俺たちが直接手を出さなければいいのさ」
男の意図がやっと理解できたのか、キーラはゆるゆると口角を上げた。
「そうね。わたくしたちの手を煩わすまでもないわ」
「ああ。俺たちは愚かで哀れな人形を、後ろで操っていればいい」
「そしていざとなれば、糸を切って生贄に人形を差し出せばいいというわけね」
「そういうことだ」
うなずいた男の耳に顔を寄せると、キーラはかすれた声で耳打ちした。
「ねぇ、貴方はそんな愚かな人形に心当たりがあるかしら?」
「いなくはないが、今は動きにくいな。そっちはどうだ?」
「素敵に踊ってくれそうな人形がいるわ。愚かで可愛らしい人形が……。今回は彼女に舞台を用意してあげましょうよ」
酷薄な笑みを浮かべ、キーラは真っ赤に染められた爪で男の頬をなぞる。
「そうだな。あとは俺たちがどう上手く操るか……か」
男は薄ら笑いで答えると、近づいてきた赤い唇に自分のそれを押し付けた。
†
クレセニア王宮の北端には、妃の宮と呼ばれる建物がある。
それは歴代の王妃のために建てられた宮殿で、現在はクレセニア国王妃キーラが、その娘ネイディアと共に暮らしていた。
妃の宮の最奥、王妃の部屋とは正反対の方角にネイディア王女の部屋がある。白とスモークピンクでまとめられた室内には、部屋の主と共に従姉であるネグロ侯爵令嬢マヌエラの姿があった。
「まだですの?」
急かすようなマヌエラの声に、ネイディアは困惑に眉を寄せてテーブル上の盤を見た。
黒い巻き毛に紅茶色の瞳をした王女は、髪は橙色、瞳は薄茶色と色彩こそ違うものの、よく似た面差しの従姉を不安そうに見上げた。
「じゃあ、ここ」
ネイディアが盤上に駒を置くと、それを見たマヌエラは勝ち誇った笑みを浮かべて自分の駒を置いた。
「あっ……」
「わたくしの勝ちですわね」
「負けちゃった」
小さな声でネイディアがつぶやくと、マヌエラは横柄な態度でうなずきつつ、とってつけたような慰めの言葉を口にした。
「惜しかったですわね。最後に焦らなければ、もう少しなんとかなったと思いますわ」
「……うん」
自分が焦らせたことを棚上げしたマヌエラの言葉に、けれどネイディアは素直にうなずく。その時彼女の部屋のドアが、ノックもなく開け放たれた。
入ってきたのは夜会の盛装と言ってもおかしくないような、豪奢で煌びやかなドレスを纏った女性――クレセニア王妃であり、ネイディアの母であるキーラだった。
「王妃様っ!」
「お母様……」
嬉しそうにキーラを見るマヌエラとは対照的に、ネイディアは戸惑った様子で小さく母を呼んだ。
「来ていたのね、マヌエラ」
「はい」
キーラはチラリと娘を見た後、無言で視線を逸らし、姪であるマヌエラへと話しかけた。
「お兄様はお元気?」
「元気ですわ。王妃様にくれぐれもよろしくと言付かっております」
キーラは鷹揚にうなずくと、気だるげにカウチに腰を下ろした。そしてテーブルの上に置かれた盤を見ると気まぐれに問いかけた。
「ゲームをしていたのね……。で、どちらが勝ったのかしら?」
「わたくしですわ、王妃様」
自慢げにマヌエラが答えると、彼女は冷たい視線を娘に向けながら苛々と捲くし立てた。
「そう。……まったくこの子は誰に似たのかしら? 頭も悪いし、愚図。おまけに身体まで弱いときてる。小さい頃から利発な子だと言われてきたわたくしとは大違いだわ」
蔑む母の言葉に、ネイディアは黙って顔を俯かせる。マヌエラはキーラの言葉にうなずきはしなかったが、かといって従姉を庇う素振りも見せなかった。
「まぁいいわ。マヌエラ、お茶を手配して」
「はい、ただ今」
キーラの言葉にマヌエラはすぐさま返事をすると、メイドを呼ぶために呼び鈴を鳴らした。ほどなくしてやってきたメイドたちは、そこに王妃の姿を確認すると、マヌエラに急かされるまま大慌てでお茶の用意を調えた。
キーラとマヌエラが、優雅にお茶を楽しみながら雑談に花を咲かせる横で、ネイディアは静かにそれを眺めている。知らぬ者がその光景を見たのならば、間違いなくマヌエラを王女と思い込んだだろう。
「そういえば、もうすぐ豊穣祭ね……」
何気なく口にしたキーラの言葉に、マヌエラは思い出したと言わんばかりに勢い込んで訴えた。
「それですわ! 王妃様、聞いてくださいっ!!」
「一体なんなの?」
マヌエラの態度に眉を顰めながら、キーラはカップに口をつけ、片手を緩く左右に振って彼女を促した。
「国王陛下のことですわ。豊穣祭のためにと、臣下の娘に御自ら衣装を贈られるとか!」
「臣下の娘……?」
ピクリと眉を上げたキーラに、マヌエラは怯みながらも告げた。
「リヒトルーチェ公爵令嬢ですわ」
「陛下が後見されている娘ね……」
「そ、そうですけれど、後見人になられたとはいえ、陛下がそこまでなさる必要はありませんわ」
少しばかり勢いをそがれながらも、マヌエラは必死に言い募る。キーラは続く彼女の訴えに反応を示すことなく、一つの言葉に気をとられ、視線を空に彷徨わせていた。
「公爵家の娘、ね」
やがてキーラがポツリと零すと、マヌエラは口を尖らせて不満を顕わにした。
「陛下はリヒトルーチェ公爵家をお目に掛けすぎですわ。件の令嬢もそれを笠に着てやりたい放題だなんて! しかも王女であるネイディア様を差し置いて、陛下がご自分で衣装を選ばれるとか。どうせそれもあの方が我儘をおっしゃったのですわ!!」
マヌエラの言い分を黙って聞いていたキーラは静かにうなずく。たいして愛着のない娘だが、他人の娘が自分の娘より優遇されるというのは、彼女のプライドを著しく傷つけるものだった。
「本当に……。国王に物を強請るなど、なんと図々しい……忌々しい娘だこと」
「えっ?」
小さくつぶやかれたキーラの言葉は、二人の少女の耳には届かなかった。聞き返すマヌエラを無視し、彼女は苛立たしげにティーカップを皿へ置いた。
「このままだと、いずれ公爵家の末娘が王太子妃ということになるわね。陛下のみならずリュシオンもその娘を気に入っているようだし」
「そんなっ」
言い放たれた言葉に動揺し、マヌエラは大きな声をあげた。平静を失った彼女を、キーラは一瞥する。
「家柄も問題ない、国王にも王子にも気に入られているとなれば……」
「嫌っ」
考えたくない未来を示唆され、マヌエラは首を振って不安を振り払った。
「国王陛下にまで媚を売るような方は、リュシオン殿下には相応しくありませんわ!」
マヌエラが怒りを込めて叫ぶと、キーラはそれまでの苛立たしげな表情を一変させ、にこりと微笑んだ。
「そうね。……本当はわたくし、リュシオンの伴侶には貴女を陛下に推薦しようと思っていたのよ」
「わ、わたくしを?」
「そう。貴女ならば、リュシオンと年も近い。家柄だって問題ないわ……それにあの子を慕ってくれているようだし」
「王妃様!」
感激する姪に、彼女は優しく続けた。
「リュシオンは今でこそ国内有数の魔法使いと言われている。それでもまだ魔力を暴走させて恐れられていた過去を忘れていない者も多いのよ。そんな彼を慕ってくれるなんて、貴女は本当に優しい子ね」
「王妃様、昔のことは存じ上げませんが、わたくし、リュシオン殿下の魔力を恐れたりいたしませんわ。だってあんなに素敵な方ですもの……」
リュシオンの姿を思い浮かべているのか、うっとりと夢想しているらしいマヌエラに、キーラは冷たい眼差しを向けた。
(馬鹿な子。あれの外見に囚われ、本質をわかっていない。……恐れたりしない? あれが魔法を使うところを見たこともないくせに。本当に愚かな娘)
心の中でマヌエラを嘲りつつも、キーラは微笑みを浮かべて優しく彼女の手を取った。
「ええ、わかっているわ。可愛い姪のことですもの。わたくしとてその想い、叶えてやりたいと思うのよ」
「王妃様……」
うっとりと自分を見つめるマヌエラに、キーラはわざとらしくため息をついた。
「……けれど相手はリヒトルーチェ公爵令嬢。彼女を押し退けてまで貴女をと推す者は少ないかもしれないわね」
「なんとかならないのですか」
公爵と侯爵。どちらも大貴族とはいえ、その階級差は埋められない。さらにその歴史の古さなどをかんがみれば、両家には歴然とした差がある。
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淡々と事実を述べるキーラに、マヌエラは唇を震わせて俯いた。
「このまま公爵令嬢がつつがなく成人するならば、貴女がリュシオンの伴侶となるのは難しいわね」
独り言のようにつぶやかれた彼女の言葉は、けれどマヌエラの中に棘のようにしっかりと突き刺さった。
(あの子が……あの子がいなければ……)
「マヌエラ?」
心配そうにマヌエラを覗き込むネイディアにも応えず、彼女は昏い思考に支配されていく。
「貴女とリュシオンのことは、お兄様にも知らせておくわ。ネグロ侯爵家としても、公爵の力がさらに増すなど歓迎できないことですもの。……そう、わたくしたちは貴女の味方よ」
「王妃様……」
澱のように、マヌエラの心の底に溜まっていくキーラの言葉。彼女は父であるネグロ侯爵を思い浮かべた。
父にとってリヒトルーチェ公爵はまさに目の上の瘤。若い頃は学問や武芸における優秀さを憎み、爵位を継いでからは、国政での立場やその財力に尽きぬ妬みを抱いていた。
王妃の兄という立場を手に入れてなお、その胸中は変わらない。むしろ差が縮まったことでより多くの嫉妬を抱えることになった。そこへ王子の伴侶がよりによってリヒトルーチェ公爵の娘となればどうなるだろう。
(お父様は、わたくしの味方をしてくれる!)
マヌエラは、自ら導きだした答えに満足すると、キーラへ向けて満面の笑みを浮かべた。
「リヒトルーチェ公爵令嬢が王太子妃になるとは限りませんわ」
「ほう?」
「だって公爵家ともなれば、身に迫る危険も多いですもの。幼い彼女が無事に成人できるとは限らないと思いませんか?」
消えかけていた自信を復活させたマヌエラは、瞳に強い意志を覗かせて王妃に問いかけた。
「確かに貴族は何かと狙われるもの。それも敵の多い公爵の娘ともなれば、ね」
「ええ。何が起こるかわかりませんわ。物騒な世の中ですもの……」
クスクスと笑うマヌエラに、キーラは面白そうに眉を上げた。
「そうね。物騒な世の中だわ」
笑い合う二人を、ネイディアは一人、不安げに見つめていた――
第二章 豊穣祭の花姫
まだ神々の息吹が、大陸のあちこちに満ち溢れていた時代。
神々のもたらす豊穣を当たり前のこととして享受し、人々はその恵みに感謝することを忘れていった。しかし、そんな人間たちの栄華は、長く続くことはなかった。
傲慢になった人間たちに神々は怒り、大陸は未曾有の大災害に襲われたのだ。
日照りが続いて大地は枯れ、かと思えば他方では河川が氾濫する。歩くのもままならないほどの強風が吹き荒ぶところがあるかと思えば、また一方では火の山が灰を降らせた。
災害により人の営みは崩壊し、飢える者が大陸に溢れた。そうして初めて人々は神々の恵みに感謝することを思い出した。しかし時すでに遅く……
自分勝手な人間への神々の怒りは大きく、人間はその前で余りにも無力だった。
そんな中、自らの子とも思う民が、飢え、死んでいくのを嘆く一人の王がいた。
「ああ、どうすれば神々は我らを許し給うのか」
供物を捧げ、寝る間も惜しんで祈りを捧げる王。けれどその祈りに神々が応えることはなかった。
万策尽きた王に、臣が言う。
「王よ、失われた儀式を試みるべきかと。神々へ生贄を捧げるのです」
「生贄だと? 生贄にする家畜などもうおらん」
臣の提案に王は天を仰いでつぶやいた。そもそも家畜など疾うの昔に食料として消えていた。
「家畜ではございませぬ。……人を、です」
「人を……だと?」
「世界を救うためならば、贄となる者もきっと喜びましょう」
「馬鹿を言うな! 飢え、大切な者を失くし、悲嘆に暮れる民にまだ犠牲を強いるのか! それならば我が贄となろう!!」
「なりませぬ。王が自ら犠牲になってしまわれたら、誰が国を導くのです」
臣の言葉に王は苦悩する。誰も生贄になどしたくはない。けれどもう何をすれば神々の許しを得られるのか彼にはわからなかったのだ。その時、王に語りかける者たちがいた。
「王よ、わたくしたちが贄となりましょう」
「民にこれ以上の犠牲を強いてはなりません」
「わたくしたちは喜んで民のために死にましょう」
「神の下にいくのです。何も怖くなどありませんわ」
「王、わたくしたちをどうか」
それは王の五人の娘だった。娘たちの言葉に王はさらに苦悩を深くする。五人の娘は彼が愛してやまない者たちなのだ。
けれど王は決断を下す。民のため、自分のもっとも大切な娘たちを贄とすることに。
「神よ、我が娘の命をもって、愚かな我らをお許し下さい」
王と姫たちの心根の尊さに、怒れる神々の心もついに動かされることとなる。
その日の夜、遍く民の夢に神々が現れたのだ。
『王と姫たちの清き心に免じ、そなたらの願い、聞き届けよう。我らに贄はいらぬ。その代わり五年に一度、娘たちに舞を奉じさせよ』
王はすぐに、神々の要望どおり舞の奉納を執り行うことにした。幸いにも五人の娘たちは舞の名手。贄にならずとも民のために出来ることがあると、五人は喜んで舞の奉納を引き受けた。
やがて神殿で行われた奉納舞の素晴らしさは、神々さえも唸らせるものだった。
一差し舞えば、枯れた大地が芽吹き、もう一差し舞えば、干上がった水場に水が湧き上がった。
舞うごとに河川は穏やかな流れを取り戻し、荒れ狂っていた風はおさまり、燃える火の山は怒りを静めた。
こうして五人の姫が舞い終わると、大地は神々の恵みを取り戻したのだった。
人々は神々の慈悲に深く感謝し、その恵みを忘れぬため、毎年豊穣を感謝し祝うことにした。
そして五年に一度を大祭の年とし、創始の舞姫たちと同じ、五人の娘を選んで神へと舞を奉納することを誓ったのだ。
いつしか五人の舞姫たちは『花姫』と呼ばれ、その奉納舞の儀式は今もなお、サンクトロイメの各地で続いている。
†
リヒトルーチェ邸の図書室。
パタンと読んでいた本を閉じ、ルーナは「んーっ」と唸りながら両手を前へ突き出した。彼女が読んでいたのは、サンクトロイメで広く知られる豊穣祭についての伝説だ。
「それにしても、神話にありがちなご都合主義というか……。わたしだったらこの臣下を生贄に選んじゃうかも。まぁ脚色しまくりでこの伝説も事実からはほど遠かったりするんだろうけどね」
ルーナは頬杖をつくと、本の表紙を眺めながら独りごちた。そもそも何故彼女が豊穣祭の伝説に目を通しているのか。それは遡ること数日前――
その日ルーナは、父アイヴァン、そして護衛の少年カインと共に王宮に来ていた。
五歳の時初めて王宮を訪れてから三年。その間に彼女は幾度も王宮に招かれていたが、それはひとえにルーナの後見人という立場を最大限に利用し、彼女に会いたいという我儘を押し通す、この国の王が原因だった。
彼の臣下であり、親友でもあるアイヴァンはそんな国王への苦々しさを隠さなかったが、ルーナ本人は、自分を可愛がってくれる国王に対して嫌悪の情など湧くはずもなく、彼に会うこと自体は苦痛ではなかった。
(でも王宮に行くのって、無駄に緊張するのよね……)
大抵の場合は人払いを済ませてある場所での謁見になるが、それでも多くの貴族や官吏が集まる王宮だ。小さな子供が歩いていれば嫌でも注目を集める。そういった視線にルーナが慣れることはなかった。
一方王宮側では、国王の被後見人であり、名門リヒトルーチェ公爵家の令嬢が王宮を訪れることに慣れつつあった。それどころか愛らしく行儀の良い彼女は、王宮に勤める官吏たちにとって密かに癒しのマスコットとなり人気を博していたのだ。
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