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水島朔 それから
水島朔の話 ~医師~
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「朔せんせーい」
先日手術を受けて、退院したばかりのオリビアが、わたしの白衣の裾にからまってきた。
「お、元気になったね」
風のように軽い彼女を抱きあげると、オリビアが黄色い歯を見せながら声を上げて笑った。
子供達は、どこでも笑顔だ。
大人達の不安を嗅ぎ取る能力に長けていれば長けているほど、無邪気を装う。
国境なき医師団の医師として働き始め、何年になるだろう。
モデルをしていたのが嘘のような、節くれ立った指が荒れていた。
切る暇がないので、伸ばしっぱなしの髪は、数千万円もする宝石の代わりに、難民キャンプの子供が作ってくれた花輪で飾られている。
ジョーのデザインと、子供達の飾りは、わたしにとってはどちらも宝物で、比べることができなかった。
「国を追われた者の気持ちを、君は一生知らないようにと願うよ」
レンが昔、祈るように言った言葉を、今更ながら思い返す。
「元気かな」
あの雨の日、レンと別れてからすぐにメールも電話も使えなくなった。
パウルに聞いたら、
「生きているみたいだけど、しばらくは連絡とれないかもな」
と、こともなげに言っていた。
聞けば、よくあることらしい。
パウルの言う「しばらく」が、いつなのかわからないまま、わたしは医学部を卒業し、医師になった。
モデル時代の不要な連絡も多かったので、メールアドレスを変えようと何度も思ったが、彼がわたしと連絡がとれなくなるのが嫌で、アドレスを変えられないでいた。
「朔先生、電話が入っていましたよ。医師団の事務局からだって」
昼ご飯を食べようと事務所に戻ったとたん、これだ。
「留守って言って」
わたしは、事務所のウィルにかみついた。
「キャンプで留守ってないでしょ」
「ある。隣の村のシャベイルの容態を見にいったり、都市の道路整備をしている……」
「急用だって言ってましたよ」
……まだ話している最中だっていうのに。
「この間、急用って言ってたときは、CMの話しだった」
「いいじゃん。でてよCM。広告塔なんだから。あんなに露出してたんだから、いまさらでしょ」
「わたしは、現場に出たいの。現場がいいの。そもそも人前で何かするとか、元々嫌いなの」
「よくそれでジョワのモデルなんてやってたよね。まだ、やってるんだっけ? この間、ジョン・マークレーとテレビに出てたじゃん」
「モデルはもうやってない。というか、こんな不摂生をしている体でできるわけないでしょ。ジョーとは、プライベートで頼まれたときだけ手伝ってるだけ。家族みたいなもんだからしょうがないでしょ。とにかく、わたしはいないって言ってね」
「その電話、まだつながってるんだけど」
わたしは、キッと鼻にしわを寄せながら、ウィルから、ひったくるように受話器をとった。
はやく言いなさいよ。
「ハロ」
「何がハロよ。全部聞こえていたわよ。朔」
「あら、アンナ。久しぶりね」
「あなたが電話に出てくれたら、そんなに久しぶり感を与えずに済むんだけど」
「ごめんてば」
「悪いと思ってないでしょ」
「うん」
電話口から盛大なため息が聞こえた。
「とにかく、あんたの医師としての腕も大事だけど、あんたの知名度の方も、わたしは使いたいの。急だけど明日、アドエラからそこにお客さんがくるわ。接待をお願いしたいの」
「アドエラ?」
「たまには地理を勉強しなさい。医師免許が泣くわよ。フランスとスロバキアの間にある国よ」
「ああ」
発音が違ったのでわからなかった。
アドーラ。アドエラとも言う。レンの国だ。そして、ジョーの祖国。
内戦が収まって、どのくらいになるのだろう。
「明日ってずいぶん急ね」
普通、お偉方の視察や訪問は何ヶ月も前から計画され、綿密に安全を確認してから訪問が決まる。
「ちょっと事情があるのよ。即位したアドエラの王様が自国民を迎えにくるらしいわ」
「それは」
わたしは絶句した。
ちょっと聞いたことがない話しだ。
この難民キャンプは、長い内戦が続いたアドエラ国民が避難してできたものだった。
レンが昔話してくれた、アドエラ国の内戦の犠牲者達。
賢王だった前の王様が亡くなったあと、王弟が王位を継ぎ、国の金をギャンブルにつぎ込み、石油の利権を外国企業に売り払った。
国民は王政廃止を叫んでいて、王政派の軍と国民派で内戦が続いていた。前の王様の息子が成人した後、国民派に入った。軍は急激にその求心力を失い、内戦は収束した。
ただ、即位にあたっては、自ら、君臨すれども統治せずという立憲君主性をとったため、実務上の権利は有していないはずだった。
優秀で温厚、カリスマ性にあふれた現王の統治を望む声は多く、統治権の放棄は惜しまれたが、現王は硬く固辞したという。
現王が統治した方が時間的には早く内政は戻っただろうが、前王弟の例があるように、血脈の統治は諸刃だ。権力は腐敗する。必ず。なので、時間はかかっても、権力は分散するのが正解だと思う。
善きことはカタツムリの速度で来る
と言ったのは、ガンジーだ。
だが、カタツムリは意外と早い。モグラよりも早い。
元々、産油国で資源は豊富だし、豊かな文化をもつ国なので、ここ数年で国がどんどん力を取り戻して、このキャンプの人達も、少しずつ国に帰っていた。
「ちょっと。聞いてる?」
「うん。それで?」
「それで、だいぶ国も落ち着いたから、一緒に国に戻って、もう一度立て直してくれませんかって誘いに行きますって」
「そんな、近所のオバチャンのお茶のみでもあるまいし」
「ほんとね。そんなわけで、マレに見る話しだからね。まだ、内戦の終結を喜んでいない人も多いし、命の危険と隣り合わせな王様で、山のような軍人と、SPと世界中の取材のクルーが明日押し寄せるから。あんたも気をつけてね。まだまだ、きな臭いわよ」
了解。
どっと疲労感を感じながら、わたしは、それだけ言って受話器を置いた。
アドエラの王様が、保育園のお迎えよろしく来ると言うだけで、それは、ニュースになるだろう。
やれやれ。ただでさえ忙しいのに。
「何ニマニマしてるんですか? 何か良い知らせだったんですか」
わたしは知らないうちに笑っていたらしい。
「何でもないわよ」
わたしは、ウィルに手を振って、お茶をもらいに食堂へ行った。
確かに、良い知らせだったかもしれない。
レンは、仕事内容をあまり明かさなかったし、誰も教えてくれなかったが、レンやパウルの話を総合すると、彼は、アドエラ国の警備主任みたいなものをやっているようだった。
大使館主催の王族が集まるパーティーに顔を出せるくらいだから、王様か、かなり王様に近い人を守っていたはずだ。
そうすると、明日、久しぶりにレンに会えるかもしれない。
わたしは彼に、いつか、医師になって働いている姿を見せたかった。
「ちょっと楽しみかな」
わたしはそう呟いて、午後から始まる手術室へ急いだ。
先日手術を受けて、退院したばかりのオリビアが、わたしの白衣の裾にからまってきた。
「お、元気になったね」
風のように軽い彼女を抱きあげると、オリビアが黄色い歯を見せながら声を上げて笑った。
子供達は、どこでも笑顔だ。
大人達の不安を嗅ぎ取る能力に長けていれば長けているほど、無邪気を装う。
国境なき医師団の医師として働き始め、何年になるだろう。
モデルをしていたのが嘘のような、節くれ立った指が荒れていた。
切る暇がないので、伸ばしっぱなしの髪は、数千万円もする宝石の代わりに、難民キャンプの子供が作ってくれた花輪で飾られている。
ジョーのデザインと、子供達の飾りは、わたしにとってはどちらも宝物で、比べることができなかった。
「国を追われた者の気持ちを、君は一生知らないようにと願うよ」
レンが昔、祈るように言った言葉を、今更ながら思い返す。
「元気かな」
あの雨の日、レンと別れてからすぐにメールも電話も使えなくなった。
パウルに聞いたら、
「生きているみたいだけど、しばらくは連絡とれないかもな」
と、こともなげに言っていた。
聞けば、よくあることらしい。
パウルの言う「しばらく」が、いつなのかわからないまま、わたしは医学部を卒業し、医師になった。
モデル時代の不要な連絡も多かったので、メールアドレスを変えようと何度も思ったが、彼がわたしと連絡がとれなくなるのが嫌で、アドレスを変えられないでいた。
「朔先生、電話が入っていましたよ。医師団の事務局からだって」
昼ご飯を食べようと事務所に戻ったとたん、これだ。
「留守って言って」
わたしは、事務所のウィルにかみついた。
「キャンプで留守ってないでしょ」
「ある。隣の村のシャベイルの容態を見にいったり、都市の道路整備をしている……」
「急用だって言ってましたよ」
……まだ話している最中だっていうのに。
「この間、急用って言ってたときは、CMの話しだった」
「いいじゃん。でてよCM。広告塔なんだから。あんなに露出してたんだから、いまさらでしょ」
「わたしは、現場に出たいの。現場がいいの。そもそも人前で何かするとか、元々嫌いなの」
「よくそれでジョワのモデルなんてやってたよね。まだ、やってるんだっけ? この間、ジョン・マークレーとテレビに出てたじゃん」
「モデルはもうやってない。というか、こんな不摂生をしている体でできるわけないでしょ。ジョーとは、プライベートで頼まれたときだけ手伝ってるだけ。家族みたいなもんだからしょうがないでしょ。とにかく、わたしはいないって言ってね」
「その電話、まだつながってるんだけど」
わたしは、キッと鼻にしわを寄せながら、ウィルから、ひったくるように受話器をとった。
はやく言いなさいよ。
「ハロ」
「何がハロよ。全部聞こえていたわよ。朔」
「あら、アンナ。久しぶりね」
「あなたが電話に出てくれたら、そんなに久しぶり感を与えずに済むんだけど」
「ごめんてば」
「悪いと思ってないでしょ」
「うん」
電話口から盛大なため息が聞こえた。
「とにかく、あんたの医師としての腕も大事だけど、あんたの知名度の方も、わたしは使いたいの。急だけど明日、アドエラからそこにお客さんがくるわ。接待をお願いしたいの」
「アドエラ?」
「たまには地理を勉強しなさい。医師免許が泣くわよ。フランスとスロバキアの間にある国よ」
「ああ」
発音が違ったのでわからなかった。
アドーラ。アドエラとも言う。レンの国だ。そして、ジョーの祖国。
内戦が収まって、どのくらいになるのだろう。
「明日ってずいぶん急ね」
普通、お偉方の視察や訪問は何ヶ月も前から計画され、綿密に安全を確認してから訪問が決まる。
「ちょっと事情があるのよ。即位したアドエラの王様が自国民を迎えにくるらしいわ」
「それは」
わたしは絶句した。
ちょっと聞いたことがない話しだ。
この難民キャンプは、長い内戦が続いたアドエラ国民が避難してできたものだった。
レンが昔話してくれた、アドエラ国の内戦の犠牲者達。
賢王だった前の王様が亡くなったあと、王弟が王位を継ぎ、国の金をギャンブルにつぎ込み、石油の利権を外国企業に売り払った。
国民は王政廃止を叫んでいて、王政派の軍と国民派で内戦が続いていた。前の王様の息子が成人した後、国民派に入った。軍は急激にその求心力を失い、内戦は収束した。
ただ、即位にあたっては、自ら、君臨すれども統治せずという立憲君主性をとったため、実務上の権利は有していないはずだった。
優秀で温厚、カリスマ性にあふれた現王の統治を望む声は多く、統治権の放棄は惜しまれたが、現王は硬く固辞したという。
現王が統治した方が時間的には早く内政は戻っただろうが、前王弟の例があるように、血脈の統治は諸刃だ。権力は腐敗する。必ず。なので、時間はかかっても、権力は分散するのが正解だと思う。
善きことはカタツムリの速度で来る
と言ったのは、ガンジーだ。
だが、カタツムリは意外と早い。モグラよりも早い。
元々、産油国で資源は豊富だし、豊かな文化をもつ国なので、ここ数年で国がどんどん力を取り戻して、このキャンプの人達も、少しずつ国に帰っていた。
「ちょっと。聞いてる?」
「うん。それで?」
「それで、だいぶ国も落ち着いたから、一緒に国に戻って、もう一度立て直してくれませんかって誘いに行きますって」
「そんな、近所のオバチャンのお茶のみでもあるまいし」
「ほんとね。そんなわけで、マレに見る話しだからね。まだ、内戦の終結を喜んでいない人も多いし、命の危険と隣り合わせな王様で、山のような軍人と、SPと世界中の取材のクルーが明日押し寄せるから。あんたも気をつけてね。まだまだ、きな臭いわよ」
了解。
どっと疲労感を感じながら、わたしは、それだけ言って受話器を置いた。
アドエラの王様が、保育園のお迎えよろしく来ると言うだけで、それは、ニュースになるだろう。
やれやれ。ただでさえ忙しいのに。
「何ニマニマしてるんですか? 何か良い知らせだったんですか」
わたしは知らないうちに笑っていたらしい。
「何でもないわよ」
わたしは、ウィルに手を振って、お茶をもらいに食堂へ行った。
確かに、良い知らせだったかもしれない。
レンは、仕事内容をあまり明かさなかったし、誰も教えてくれなかったが、レンやパウルの話を総合すると、彼は、アドエラ国の警備主任みたいなものをやっているようだった。
大使館主催の王族が集まるパーティーに顔を出せるくらいだから、王様か、かなり王様に近い人を守っていたはずだ。
そうすると、明日、久しぶりにレンに会えるかもしれない。
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