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水島朔の話 ニ十歳
水島朔の話 ~土砂降り~
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パウルを戸口で見送り、部屋へ戻ると、部屋に響く雨音が、急に大きくなった気がした。
ジョーとパウル、レンが加わって、絶え間ない笑い声が壁にしみこんでいた別荘は、夏の日差しとともに、消えていた。
部屋は薄暗く、寒かった。
空が光ったと思ったのも束の間、ものすごい地鳴りとともに、雷が鳴り響いた。
強い雨が、古い窓ガラスを容赦なく打ち付けている。
わたしは、ぼんやりと椅子に座り、遠くに見える黒い海を見つめていた。
最初は、風の音だと思った。
次に、明らかにドアをノックする音が聞こえた。しかも、ドアを蹴破らん勢いで。
「あけてくれ。俺だ。レンだ」
「レン?」
玄関の窓から外を覗くと、真っ黒なコートを着た大男が立っていた。
風と雨で、顔がよく判別できない。
男は窓の方に歩いてきて、傷のあるほうの頬を、びたっと窓につけた。
「俺だ。覚えてるか」
「レゾン! ごめんなさい」
わたしは、あわててドアの鍵を開けた。
雨風と一緒に、大きなコウモリのような男が、部屋の中に押し入ってきた。
「どうしたのこんな日に? あなた、国へ帰ったんじゃないの?」
「国には帰った。パウルに電話したら、お前がいるって聞いたから」
「……わざわざ来てくれたの?」
国境を越えて?
今、彼の国は、そんなに頻繁に行ったり来たりできないはずだ。
「いや。ちょっと用事があって出国してたんだ。途中、ひどい嵐になってしまって、ここに泊まらせてもらおうと思ってパウルに電話をしたら、朔がここにいるって聞いてきた」
「とにかく、お風呂に入って。今お湯を張るわ。そのままだと風邪ひいちゃう」
タオルを放り投げると、「悪いな」と言いながら受け取った。
彼が履いてきた靴をひっくり返してみると、中から水が滝のように落ちてきた。
お湯とバスタオルの準備をしていると、上半身裸になったレンが、入口の天井に腕をかけて立っていた。
「痩せたな」
「……」
否定する気力もなく、わたしは困ったように笑った。
向かってくる、まっすぐな目を受け止めるのが辛かった。
しょうがないので、彼の割れた腹筋や、上半身の傷の数をながめていた。
思ったより大きい傷が多く、彼がどれだけ厳しい生活を強いられていたのかを物語っていた。
バスタブからお湯があふれて、足下にこぼれた。
「ゆっくり暖まってね」
何か言いたげな彼の横を通り抜け、わたしはバスルームのドアを閉めた。
レンがお風呂に入っている間、何か食べるものはないかと冷蔵庫を開けた。
管理人のエミーが気を利かせてくれたらしく、ソーセージや保存の利く野菜を置いておいてくれていた。
野菜スープが出来上がる頃、頭から湯気を出しているレンが、お風呂場から出てきた。
ちょうどご飯も炊けたので、おにぎりを握った。
「久しぶりだ。朔のご飯」
彼は嬉しそうに言いながら、暖炉に火をおこした。
さっきの緊張感が消え、そこには、いつものレンがいた。
わたしは、ほっと胸をなで下ろした。
「国はどう?」
野菜スープとおにぎりの、軽い食事が終わって、熱い珈琲を淹れながらわたしは聞いた。
「まあまあだな。少しずつだが、前進していると思う」
わたしは、彼の真摯な瞳を見ないように珈琲をカップに注いだ。
あ、これは、パウルに事情を聞いているな。
レンの態度があからさまに普段と違った。
怒っている?
彼は明らかに怒っていた。
わたしに。だろう。
日常的に命のやり取りをしている彼からしたら、わたしの失恋なんて、甘くて反吐がでるくらいなんだろう。
わたしは、恥ずかしさで耳まで赤くなるのがわかった。
「ごめんね。パウルに聞いたんでしょ。失恋ごときで、こんなになって。みんなを心配させてバカみたいだよね」
だから怒んないで。
すぐに元気になるから。
最後の方は、喉がつまって、変な声になった。
「いいや」
「なに?」
「怒ってないし、失恋ごときと思っていない。私が怒っているのは、相手の男に対してだ」
「なんで、レンが怒るの?」
わたしは泣きそうになるのをこらえながら、笑った。
「なんでだろうな」
レンが黙って、珈琲がなみなみと注いであるカップをとった。
彼の手にかかると、大きなマグカップが、デミのカップのようにみえる。
「……試験は終わったのか?」
「あ、受験? うん」
「どうだった?」
「あ、おかげさまで、受かりました」
「そうか」
彼は、満面の笑みでわたしの頭をなでた。
「がんばったな」
そのとたん、熱い塊が喉の奥にせり上がってくるのがわかった。
あ、だめだ。これは抑えられない。
うわ――ん
外の雨の音に負けない、わたしの泣き声が家の中に響いた。
「朔」
レンが立ち上がった瞬間、椅子とクッションが床に転がった。
「がんばったの。わたし、がんばったの――」
叫ぶわたしを、レンがぎゅっと包み込んだ。
「うん。がんばった。お前は本当によくがんばった」
レンはそう言いながら、何度も何度もわたしの背中をなでた。
ジョーとパウル、レンが加わって、絶え間ない笑い声が壁にしみこんでいた別荘は、夏の日差しとともに、消えていた。
部屋は薄暗く、寒かった。
空が光ったと思ったのも束の間、ものすごい地鳴りとともに、雷が鳴り響いた。
強い雨が、古い窓ガラスを容赦なく打ち付けている。
わたしは、ぼんやりと椅子に座り、遠くに見える黒い海を見つめていた。
最初は、風の音だと思った。
次に、明らかにドアをノックする音が聞こえた。しかも、ドアを蹴破らん勢いで。
「あけてくれ。俺だ。レンだ」
「レン?」
玄関の窓から外を覗くと、真っ黒なコートを着た大男が立っていた。
風と雨で、顔がよく判別できない。
男は窓の方に歩いてきて、傷のあるほうの頬を、びたっと窓につけた。
「俺だ。覚えてるか」
「レゾン! ごめんなさい」
わたしは、あわててドアの鍵を開けた。
雨風と一緒に、大きなコウモリのような男が、部屋の中に押し入ってきた。
「どうしたのこんな日に? あなた、国へ帰ったんじゃないの?」
「国には帰った。パウルに電話したら、お前がいるって聞いたから」
「……わざわざ来てくれたの?」
国境を越えて?
今、彼の国は、そんなに頻繁に行ったり来たりできないはずだ。
「いや。ちょっと用事があって出国してたんだ。途中、ひどい嵐になってしまって、ここに泊まらせてもらおうと思ってパウルに電話をしたら、朔がここにいるって聞いてきた」
「とにかく、お風呂に入って。今お湯を張るわ。そのままだと風邪ひいちゃう」
タオルを放り投げると、「悪いな」と言いながら受け取った。
彼が履いてきた靴をひっくり返してみると、中から水が滝のように落ちてきた。
お湯とバスタオルの準備をしていると、上半身裸になったレンが、入口の天井に腕をかけて立っていた。
「痩せたな」
「……」
否定する気力もなく、わたしは困ったように笑った。
向かってくる、まっすぐな目を受け止めるのが辛かった。
しょうがないので、彼の割れた腹筋や、上半身の傷の数をながめていた。
思ったより大きい傷が多く、彼がどれだけ厳しい生活を強いられていたのかを物語っていた。
バスタブからお湯があふれて、足下にこぼれた。
「ゆっくり暖まってね」
何か言いたげな彼の横を通り抜け、わたしはバスルームのドアを閉めた。
レンがお風呂に入っている間、何か食べるものはないかと冷蔵庫を開けた。
管理人のエミーが気を利かせてくれたらしく、ソーセージや保存の利く野菜を置いておいてくれていた。
野菜スープが出来上がる頃、頭から湯気を出しているレンが、お風呂場から出てきた。
ちょうどご飯も炊けたので、おにぎりを握った。
「久しぶりだ。朔のご飯」
彼は嬉しそうに言いながら、暖炉に火をおこした。
さっきの緊張感が消え、そこには、いつものレンがいた。
わたしは、ほっと胸をなで下ろした。
「国はどう?」
野菜スープとおにぎりの、軽い食事が終わって、熱い珈琲を淹れながらわたしは聞いた。
「まあまあだな。少しずつだが、前進していると思う」
わたしは、彼の真摯な瞳を見ないように珈琲をカップに注いだ。
あ、これは、パウルに事情を聞いているな。
レンの態度があからさまに普段と違った。
怒っている?
彼は明らかに怒っていた。
わたしに。だろう。
日常的に命のやり取りをしている彼からしたら、わたしの失恋なんて、甘くて反吐がでるくらいなんだろう。
わたしは、恥ずかしさで耳まで赤くなるのがわかった。
「ごめんね。パウルに聞いたんでしょ。失恋ごときで、こんなになって。みんなを心配させてバカみたいだよね」
だから怒んないで。
すぐに元気になるから。
最後の方は、喉がつまって、変な声になった。
「いいや」
「なに?」
「怒ってないし、失恋ごときと思っていない。私が怒っているのは、相手の男に対してだ」
「なんで、レンが怒るの?」
わたしは泣きそうになるのをこらえながら、笑った。
「なんでだろうな」
レンが黙って、珈琲がなみなみと注いであるカップをとった。
彼の手にかかると、大きなマグカップが、デミのカップのようにみえる。
「……試験は終わったのか?」
「あ、受験? うん」
「どうだった?」
「あ、おかげさまで、受かりました」
「そうか」
彼は、満面の笑みでわたしの頭をなでた。
「がんばったな」
そのとたん、熱い塊が喉の奥にせり上がってくるのがわかった。
あ、だめだ。これは抑えられない。
うわ――ん
外の雨の音に負けない、わたしの泣き声が家の中に響いた。
「朔」
レンが立ち上がった瞬間、椅子とクッションが床に転がった。
「がんばったの。わたし、がんばったの――」
叫ぶわたしを、レンがぎゅっと包み込んだ。
「うん。がんばった。お前は本当によくがんばった」
レンはそう言いながら、何度も何度もわたしの背中をなでた。
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