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水島朔 十九歳

水島朔の話 ~願掛け~

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「恋人はいない。というか、二十歳までは、作らないって、願をかけているの」

「願をかけている?」

「そ。願掛け。
 日本人ってね。何かを絶って、神仏にお願いをするの。
 これをやめるから、これをしてくれ。みたいな。
 神様は、そんなギブアンドテイクみたいなことしないのは、わかっているんだけど、でも、
 莫迦みたいかもしれないけど、社長との約束の日まで、スキャンダルみたいなものは、一切しないって、決めているの」

「なるほど」

 レンは前を向いたまま、頷いた。

「なるほどって?」

「よくわかる」

「わかるの?」

 わたしは驚いた。この話をヨーロッパ人にすると、大抵、笑われるか、口説かれる。

「わかるさ。私も同じだ」

 わたしは、大きな傷が残る彼の頬を見た。

 車は海沿いの道を逸れ、細道に入っていった。

 木漏れ日の中を走りながら、わたし達はそれ以上のことは話さなかった。

 レンは森の中を抜け、舗装もされていない道路の先に車を停めた。

「降りよう」

 森の静けさは怖かったが、レンという人間を信用していたわたしは、差し出された大きな右手をとった。

 彼のガサガサと荒れた手は傷だらけで、続く腕は、ケロイド状の傷跡が、洋服の下に見え隠れしていた。

 わたし達は、手を離すタイミングがわからず、手をつないだまま柔らかな草の上を歩いた。

 しばらく歩くと、急に視界が開け、切り立った崖の上に出た。

 地中海の穏やかな海が光を受けて輝き、岩壁がせり立つところに沿って、ひしめき合うように建物が建っていた。

 風が強く吹き、わたしは長い髪を押さえるために、大きな手からそっと逃れた。

「きれい」

「ああ」

 レンはそう言って、わたしの横に座った。

「連れてきてくれて、ありがとう」

 彼は黙ってわたしを見た。

「どうしたの?」

「いや。はじめて会ったときのことを思い出していた」

「ああ。覚えているわ。パリの大使館主催のパーティね。あなたは、誰かの、警護か何かで来ていて、戦争から帰ってきたばかりと言ってた」

「ああ。そうだ」

 彼は、笑った。

「まだ、戦争から帰ったばかりで、うまく馴染めなかった。すぐ隣の国では子供も大人もどんどん殺されているのに、何万ドルもする洋服や宝石で着飾って、チャリティーという名の、パーティに出て、一体何をやっているのかと思っていた」

 わたしは、黙って彼の側に座った。

「パウルがファッションの世界に身を投じているのも、許せなかった。
 あの才能は、もっと別なことに使われるべきだった。
 あんな、無駄なことに、あの頭脳を使うなんて。しかも、やっていることは、ジョーのお守りとほぼ変わらない。そんなのは、他の奴らに任せておけば良いんだ。って、思って、大学卒業した後、いろいろな事も重なって、しばらくヤツと連絡も取らなかったんだ。
 だけど、あの日、君を見て、考えが変わったんだ」

「わたし?」

「そう。君だ。豪奢な服を着た美しい女が、難解な数学を、夢と希望を持って解いていた」

「すごい言い方ね」

「本当のことだ。
 美しい女が戦利品として扱われるのではなく、自分の意思を持って、数学という学問ができる世界が、将来のために努力できる世界が、どれだけ恵まれているか、わかるだろうか」

 わたしは笑うのをやめた。

「朔。私は、自分の国を追われて戦地にいたんだ。長いことね。

 戦場では、全ての個性は剥奪される。

 ジョーは、軍需服を作るなら、服を作らないと、昔、私に言ったことがある。

 軍需服は、戦うのに無駄なものを全てそぎ落とす。個性は不要で、むしろ悪だ。

 人間を、数と量でのみ測り、個性や特性は全て否定され、

 排除される。

 戦火に逃げ惑う国民は、思考の停止を余儀なくされ、抵抗する力を奪われる。

 戦場では、理想や理念なんて吹っ飛んだ。

 ただ、生きたい。生き延びたいと。毎日それしか考えなかった。

 ……あのパーティの後、私はまた、戦地に戻ったんだ。

 何度も君のことを思い出した。

 あの時の、ホテルのロビーで、君が数学を解くあの静かな時間を。

 満天の星空の下、壕の中で眠るとき、移送のヘリの中。

 人殺しをやめて、正気に戻ると、いつも君がいた。

 君と一緒に数学を解いた、あの時間と空間が夢のようにあらわれた。

 そして、美しい女達が、品物のように扱われるのではなく、誰もが、好きな服を着て、好きなことをできる国にしたいと。
 その人らしく生きることのできる国にしたいと思ったんだ」

 レンは立ち上がり、笑った。

「バカンスは終わりだ。楽しかったよ。朔。本当に楽しかった。いつかまた一緒に数学を解こう」

「必ずね」

 わたしは、彼に右手を差し出した。

「ああ。約束しよう。そして、いつか私の国に招待しよう。この景色に負けないくらい、美しい国になった、私の国に」

「ええ。行く。絶対行く」

 彼は私の手を取り、そのまま、自分の大きな胸の中に引き寄せた。

「ありがとう」

 わたしを抱きしめたまま、レンはくぐもった声でそう言った。




 次の日の朝、まだ朝靄が晴れないうちに、レンは国に帰っていった。

 迎えの車が来ているとかで、村はずれまでパウルが送っていった。

 パリのメゾンも限界になっているらしく、レンが帰るとすぐに、わたし達のバカンスも終わりを告げた。

「楽しかったかい?」

 パリに帰る道すがら、助手席に座っていたジョーが聞いた。

「とても。とても楽しかったわ。ありがとう二人とも」

 車窓から、あの日見た地中海が、小さく光っていた。

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