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水島朔 十九歳
水島朔の話 ~恩送り~
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「恩送りって知ってる?」
レゾンの視線をはぐらかすように、わたしは教科書のページをめくった。
「知らない」
彼は、いささかぶっきらぼうに言った。
わたしは、それを無視して続けた。
「誰かに受けた親切を、他の誰かに返すこと。わたしはそれがしたいの」
「……君がしたいことは、それなのか」
「うん。そう。そうよ。レゾンは?」
「レンと」
彼は時折、自分の言うことを聞かないのが何故なのか本当に不思議だ。というような顔をすることがあるが、今の彼はまさにそうだった。
そう言うときは、いつも、強引で、傲慢で、たまらなく魅力的になる。
「はいはい……レンは? レンは何がしたいの?」
「私か。私は……」
彼の視線が窓の外にゆれた。
「国に帰り、国を立て直さねばならない」
それは、あなたのしたいことなの? まるで義務みたいに言うのね。
その言葉が喉まででかかって、飲み込んだ。
「ジョーのお父さんの国だっけ?」
彼らの故郷は、フランスの隣国、アドーラという小さな国だった。
「そうだ。もう何年も内乱が続き、いくつもの国がハゲタカのように国を貪っている。
軍部が権力の中心で、賄賂が横行し、腐敗しきっている国だ。
一部の人間が富み、子供が路上で次々に死んでいる。
ジョーの父も、優秀な技術者だった。
軍部のもとめる武器の開発を拒み、まだ小さかったジョーを連れてアメリカに渡ったのだ。
不遇な生涯を送ったと聞いている」
わたしは、初めて、彼らのつながりを知った。
「軍部の言いなりにならない人間は投獄され、拷問の末の死。
運がよければ国外に逃げられた。
今は見る影もないが、
本当に美しい国だった。
大きな教会を中心に、放射状に石畳の道がのびている。
一番の大通りは、季節ごとの太陽の通り道に沿って作られているんだ。
水道の水は、朔の故郷、日本と同じでそのまま飲めたんだ。
春の祭りでは、国のあちこちから自慢のチーズを持ちこんで参加者に振る舞われ、伝統的な衣装を着てみんな夜まで踊った。
首都にはヨーロッパ屈指の大学があり、授業料無料だったのもあって、世界中から優秀な留学生と学者が集まった。
おだやかな国民性、安全で、美しい自然にあふれた国が、数年で変わり果てた」
泣いているかと思って見たら、目の奥にあるのは、怒りだった。
「……なんでそんなことに?」
「国王が亡くなり、彼の弟が即位したんだ。
高潔だった前国王は、国民の誰よりも遅くまで働き、早くから起きて仕事をした。
各地に病院や学校を建て、鉄道を整備した。
小さな国中を歩き回り、城にはほとんど帰らなかった。
石油が発見されたときは、どうにかして石油に頼らない国をつくろうと一人模索した。
国王は、生前何度も言った。
石油は、あれは、ボーナスのようなものだと。
いずれ枯渇するものに頼って、国づくりはできないと。
だが、志半ばで国王は死んだ。
次に即位した弟王は、前国王とは似ても似つかなかった。
外国の企業家達を城に住まわせ、言われるまま石油を売った。
何人もの女を連れて世界のカジノを回り、気がついた時には国は軍部が掌握していた」
机に置かれた握り拳が、震えていた。
あまりに辛そうな彼を見ていられなくて、わたしは、その手にそっと触れた。
「石油の金が手元に入った軍部は、あっという間に腐敗した。
民衆は激怒し、何年も国王派と軍部派が衝突した。
外国はそのどちらにも武器を売り、我々の命で私腹を肥やした。だが」
彼は、そこまで話すと、ふ――と大きく息を吐いた。
「軍政権ももう終わりだ。革命を実施した軍部の指導者は年をとり、利権を独占したいために、奴らは人を育てなかった。あとは……」
彼はしばらく黙った。
それから、まるで壊れ物を触るようにわたしの手を握った。
「そんな国の立て直しだ」
何かを諦めるかのように、彼はわたしの手を取って笑った。
わたしは何も言えず、ただ、彼の片方だけの、ハシバミ色の奥にある深い悲しみの色をなぞっていた。
レゾンの視線をはぐらかすように、わたしは教科書のページをめくった。
「知らない」
彼は、いささかぶっきらぼうに言った。
わたしは、それを無視して続けた。
「誰かに受けた親切を、他の誰かに返すこと。わたしはそれがしたいの」
「……君がしたいことは、それなのか」
「うん。そう。そうよ。レゾンは?」
「レンと」
彼は時折、自分の言うことを聞かないのが何故なのか本当に不思議だ。というような顔をすることがあるが、今の彼はまさにそうだった。
そう言うときは、いつも、強引で、傲慢で、たまらなく魅力的になる。
「はいはい……レンは? レンは何がしたいの?」
「私か。私は……」
彼の視線が窓の外にゆれた。
「国に帰り、国を立て直さねばならない」
それは、あなたのしたいことなの? まるで義務みたいに言うのね。
その言葉が喉まででかかって、飲み込んだ。
「ジョーのお父さんの国だっけ?」
彼らの故郷は、フランスの隣国、アドーラという小さな国だった。
「そうだ。もう何年も内乱が続き、いくつもの国がハゲタカのように国を貪っている。
軍部が権力の中心で、賄賂が横行し、腐敗しきっている国だ。
一部の人間が富み、子供が路上で次々に死んでいる。
ジョーの父も、優秀な技術者だった。
軍部のもとめる武器の開発を拒み、まだ小さかったジョーを連れてアメリカに渡ったのだ。
不遇な生涯を送ったと聞いている」
わたしは、初めて、彼らのつながりを知った。
「軍部の言いなりにならない人間は投獄され、拷問の末の死。
運がよければ国外に逃げられた。
今は見る影もないが、
本当に美しい国だった。
大きな教会を中心に、放射状に石畳の道がのびている。
一番の大通りは、季節ごとの太陽の通り道に沿って作られているんだ。
水道の水は、朔の故郷、日本と同じでそのまま飲めたんだ。
春の祭りでは、国のあちこちから自慢のチーズを持ちこんで参加者に振る舞われ、伝統的な衣装を着てみんな夜まで踊った。
首都にはヨーロッパ屈指の大学があり、授業料無料だったのもあって、世界中から優秀な留学生と学者が集まった。
おだやかな国民性、安全で、美しい自然にあふれた国が、数年で変わり果てた」
泣いているかと思って見たら、目の奥にあるのは、怒りだった。
「……なんでそんなことに?」
「国王が亡くなり、彼の弟が即位したんだ。
高潔だった前国王は、国民の誰よりも遅くまで働き、早くから起きて仕事をした。
各地に病院や学校を建て、鉄道を整備した。
小さな国中を歩き回り、城にはほとんど帰らなかった。
石油が発見されたときは、どうにかして石油に頼らない国をつくろうと一人模索した。
国王は、生前何度も言った。
石油は、あれは、ボーナスのようなものだと。
いずれ枯渇するものに頼って、国づくりはできないと。
だが、志半ばで国王は死んだ。
次に即位した弟王は、前国王とは似ても似つかなかった。
外国の企業家達を城に住まわせ、言われるまま石油を売った。
何人もの女を連れて世界のカジノを回り、気がついた時には国は軍部が掌握していた」
机に置かれた握り拳が、震えていた。
あまりに辛そうな彼を見ていられなくて、わたしは、その手にそっと触れた。
「石油の金が手元に入った軍部は、あっという間に腐敗した。
民衆は激怒し、何年も国王派と軍部派が衝突した。
外国はそのどちらにも武器を売り、我々の命で私腹を肥やした。だが」
彼は、そこまで話すと、ふ――と大きく息を吐いた。
「軍政権ももう終わりだ。革命を実施した軍部の指導者は年をとり、利権を独占したいために、奴らは人を育てなかった。あとは……」
彼はしばらく黙った。
それから、まるで壊れ物を触るようにわたしの手を握った。
「そんな国の立て直しだ」
何かを諦めるかのように、彼はわたしの手を取って笑った。
わたしは何も言えず、ただ、彼の片方だけの、ハシバミ色の奥にある深い悲しみの色をなぞっていた。
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