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水島朔の話 十六歳

水島朔の話 ~エージェント~

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 次の日も眠かったが、やらなければならないことがたくさんあった。

 マリーはまだベッドに入っていた。

 わたしはお湯の出が悪いシャワーを浴びて、身体の線がでるシンプルな服に着替えた。

 モデルをはじめてから、格段に手をかけられた真っ黒な髪は、つややかに光っている。

 今日は、中川社長が紹介してくれたパリの老舗のエージェントの審査の日だった。

 このエージェントは、予約をとるだけでも大変だと聞いている。

 社長の顔の広さに感謝だ。

 社長曰く、ここでわたしが落ちたら「俺は社長を辞める」と言わしめた審査でもある。

 それはすなわち、パリコレに挑戦するなら、必ず受からなければならない審査だということだ。

 社長に辞められたら、保護者がいなくなる。冗談じゃあない。

 わたしは、約束の時間より、かなり早めにロフトを出た。




 朝のパリは美しかった。

 わたしは、急に、自分が今、「外国」にいることを実感した。

 地理の教科書に載っていた都市を、まさか自分が歩くことになるとは思わなかった。

 小さい頃の自分に教えてあげたい。

 お腹をすかせなくていい毎日が待っていることを。

 飛行機に乗って外国に来る日があることを。

 パリの朝日を浴びる日がくることを。

 わたしの胸が、ぎゅっと熱くなった。

 わたしは大きく深呼吸して、石畳の街に踏み出した。





 パリは冷たい街だと聞いていたが、そうでもなかった。

 道行く人は微笑みかけてくれるし、何人かは気持ちの良い挨拶をしてくれた。

 天気の良い日の朝だからか。
 
 女の人に優しいからか。

 来てみないとわからないものだ。

 地下に降りるのが怖かったので、地下鉄には乗らなかった。

 地図を見ると、目的の事務所までは、少し歩くが、たいした距離ではなさそうだった。

 確かに、マリーの言う通り、わたし達の住むロフトは、「モデル仕事をするには最適な立地」だった。




 しばらく歩くと、ガラス張りのビルが立ち並び始めた。

 パリと言うと、歴史ある建物ばかり思い浮かべていたが、ビジネス街はどの都市も変わらないらしい。

 それでも、エージェントの入っているビルには、広い石段が備わっていた。

 石段を上ると、警備員がにっこり笑ってドアを開けてくれた。

 建物の中に入ると、誰の姿もない。

 受付の机には、クローズの札がかかっていた。

 約束の時間までは、三十分以上ある。

 少し早く来すぎたか。

 がらんとした吹き抜けのホールには、自分の靴の足音だけが鳴り響いている。

 ふと見ると、ピンクのバラのつぼみ模様が描かれたソファが、ホールの隅に置いてあった。

 だが、モデルの位置はそこではない。

 林鈴の教えに従い、わたしは、ホールの真ん中で立って待つことにした。

 5階分くらいの、吹き抜けの高い天井にはめ込まれた、大きな天窓からは、朝日が差し込んでいる。

 ホールの中央、大きな星が描かれた床は、スポットライトを浴びたように、そこだけ明るい。

 わたしは床に描かれた、大きな星の真ん中に立った。

 首を伸ばすと、心がしゃんとする。

 片手を腰に当て、入ってすぐ自分が一番美しく見えるだろう、ポーズをとって笑った。

 なんてね。
 
「そこの女の子。あがってらっしゃい」
 
 声がした方を見上げると、二階から、赤いマニキュアが塗られた細いしわしわの手が、おいでおいでをしている。

 観客は二階だったか。

 わたしは恥ずかしさのあまり、ホールの隅にあった階段を一つ飛ばしで上がった。

 階段の上には、グレーヘアの美しい女性が、恐ろしく高いピンヒールを履いて立っていた。

「おはようございます」

「ゼンのところの朔ね。すぐわかったわ」

 自己紹介しようと口を開いたら、女性は赤い唇をゆがませながら言った。

「クローディアよ。まったく。あのぼうやときたら、隠し事がうまいんだから。いらっしゃい」

 女性の背後には、ガラス張りの広いオフィスがあった。

 扉を開けると、急に人々の話声や、コピーの音が辺りに響き渡った。

 就業時間は、すでに始まっていたらしい。

 たくさんの人々が、忙しそうに立ち働いている。

 誰だ。フランス人はバカンスのことしか頭にないとかいったヤツ。

 クローディアが、咳払いをした。

 一斉に音が止まる。

 好奇心むき出しの視線が、わたしに集まった。

「みんな。ゼンのとこの朔よ。今日からよろしくね」

「朔です。よろしくお願いします」

 決まった? 決まったのか? 

 頭の中に浮かび上がる、はてなのマークを必死で押し込めながら、わたしはとびきりの笑顔をつくった。

「ほら。あんたたち、なんで手を止めているの? かき入れ時よ。働きなさい」

「でもボス」

 クロ―ディアに一番近い、背の高いハンサムな男性が、皆を代表するかのように手を挙げた。

「なによ」

「だって、そんなの聞いてないですよ」

 彼は、わたしの方に大きな腕を広げて、クロ―ディアを責めるように言った。

「わたしも聞いてないわ。文句ならゼンにいいなさい。朔の担当はダフネよ」

 悲鳴に近い声があがった。

 何だというのだろう。

 ただ、ゼンというには、中川社長が何か問題なのはわかった。社長は、何をどうしたのだ。

「気にしないで。こっちよ」

 何も詮索しない。藪はつつかない。

 わたしはお題目のように唱えながら、通された部屋の椅子に座った。

 赤い革張りのソファの前には、様々な種類のピンクのバラが花瓶からあふれるくらいに活けてあった。

「座って。フランス語の会話は問題ないようね。契約書は英語がいいの?」

「はい。ありがとうございます」

 英語があると聞いてほっとした。話すのは何とかできるが、読み書きはまた別な問題だ。

 クローディアが契約について細かく説明をしてくれた。

 ちょうどサインを終えたところでノックの音が聞こえた。

 メガネをかけたブロンドの、背の高い女性が無表情で入ってくる。

 この建物は何か? 入るのに身長審査でもあるのか?

「ボス。スタジオの準備ができました」

「ダフネ。ナイスタイミングよ。朔。紹介するわ。ダフネよ。あなたの担当になるわ」

「よろしくお願いします」

「ダフネ。これが朔のプロフィール。こことここを直して。その写真も、もっと大人っぽく。差し替えるのよ」

「わお。十六才なのね。まだ背も伸びるわ」

「そうね。ゼンに文句を言っとくわ。日本は今何時かしら? たたき起こしてやる」

 何かあった? そのプロフィールに。

 わたしは、日本から中川社長が送ったであろう書類をちらりと見た。

「プロフィール写真を撮り直すわ。こっちに来て」

 ダフネが言い、わたしはあわてて立ち上がった。

「楽しみにしているわ」

 クローディアが、何百年も生きている魔女のように笑った。
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