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水島朔の話 中学
水島朔の話 ~林鈴~
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モデルの仕事は、順調とはいえなかった。
歩くこと、笑うこと、表現すること。
一度もやったことのないダンスや楽器、声楽、演技と、覚えることがたくさんあった。
同じモデルのみんなは、自分のお金でそれらのレッスンに通っていたが、わたしは全て中川社長が出してくれていた。
半端な結果は、出せなかった。
モデルの世界で繰り広げられる人間関係は熾烈で、用意されていた衣装が、ずたずたに切られていた時は、半裸でスタジオに入ったこともある。
何をされても、何を言われても、投げ出すことはできなかった。
指摘されたことはノートに書き、その日のうちに頭にたたき込んだ。
挨拶と言葉使いには特に気をつけ、撮影やレッスン以外には、なるべく目立たないように、すすんで雑用を引き受けた。
雑用をしていると、メイクアップアーティストやスタイリスト、カメラマンといった現場の助手の人達と仲良くなった。
彼らは自分達のボスの好み、その日の気分といった情報や、使わなかった試供品や古着などを気前よく分けてくれた。
おかげで私服には不自由せず、人生初のトリートメントで髪はつやつやになっていった。
やがて、少しずつだったが、モデルの友達もできた。
友人の大半は、単身で日本に来た日本語も話せない海外モデルで、日本語を教えながら、わたしは、彼女らの母語を教えてもらった。
世界のトップモデル 林鈴と出会ったのはこの頃だ。
車に酔った彼女が、わたしの胸に自分の胃の中身を全部吐いたのが、最初の出会いだ。
「ごめんなさいね。昨日飲み過ぎちゃった」
吐ききって、わたしの胸から顔を上げると、誰をも魅了してやまない笑顔で彼女は言った。
「歩けますか? 良かったらわたしの背に乗ってください」
とにかく、ビルのロビーまで背負って行こうと思ってしゃがみ込んだ。
「そうお」
背中に乗る体は、驚くほど軽く、腕にあたる太ももは筋肉質で張りがあった。
なるほど。トップモデルの身体とはこうなのか。
わたしは一人納得した。
「うん。あたし。今、着いた。知らない女の子の背中に乗っている。お地蔵さんみたいよ。あんた知らないの。お猿の背中にのって運ばれたおじいさんの話」
なにやら、ほのぼのとした話が自分の背中で繰り広げられている。
ビルのロビーにあるソファに降ろすと、ばたばたと人が集まってきた。
「鈴、どうした? 君、なんだねその恰好は――汚いな。鈴に近寄るな」
スーツを着た男の人がわたしを押し出そうとした。
確かに。ひどい匂いだわな。
髪も洋服もべとべとだった。
撮影が終わってて良かった。
このカッコで電車に乗れるかな。
そんなことを考えながら、回れ右をして、帰ろうとしたときだった。
「だめよ。そんなこと言っちゃ。マネージャー、この子も上に一緒に行くわよ」
「なんだって?」
こんな汚いものを?
男の人は、眉をひそめてわたしを見上げた。
「あたしをおぶってきたお猿さん。名前は?」
お猿さんってわたしのことですよね。
尋ねるように自分を指さすと、林鈴はその通りと眉を動かした。
「朔です。水島朔」
「そう。あんた、今から何か予定はある? その恰好じゃ帰れないでしょ。着替えを用意させるわ。一緒に上がって」
そう言って彼女は何気なく立ち上がった。
立っただけで空気が変わった。姿勢、身体のバランス、仕草、目が離せなかった。
「ほら。行くわよ」
口を開けてみていたあたしを面白そうに笑うと、彼女はさっさとエレベーターに乗り込んだ。
「お猿さん。ほら」
「あ、はい」
わたしは林鈴の後について、エレベーターの端っこに乗りこんだ。
「ちがあう」
「え」
「ちがうわよ」
林鈴が、顔をしかめた。
「あんたモデルでしょ。確かに下っ端のエレベーターでの位置はそこだけど、モデルの立ち位置はここよ。中央、真ん中、一番ヘソよ」
そう言って、林鈴は自分の吐物にまみれた、わたしの身体をぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「ここ。真ん中よ。誰がいてもいなくても姿勢を伸ばす。吐物まみれでも、真っ裸でも同じ」
汚れているのはあなたのせいです。
そう言う前に、エレベーターが止まった。
「いつでも、どこでも、そこがステージだと思いなさい。行くわよ」
そう言って林鈴は、さっきまでの酔っ払いと同一人物とはとても思えない、芸術的な歩き方でわたしの前を歩いた。
フロアにいた人々が彼女のために道をあける。
まるでモーゼの海のようだった。
わたしはつられて、覚えたばかりのウォーキングで割れた海の底を歩いて行った。
「さっさとシャワーを浴びてらっしゃい。着替えは用意しておくわ。返事」
「はい」
「よろしい」
そう言うと、彼女は犬を追うように掌を翻した。
シャワーを浴び、ふっかふかのバスタオルで身体を拭いた。
用意されていたパンツとシャツはとびきりの肌触りと着心地で、ハイブランドの匂いがした。
シャワー室から出て行くと、林鈴は女王蜂のように人に囲まれていた。
どうやら撮影があるらしく、何人かのメイクさんがその美しい肌をさらに美しくしようと躍起になっていた。
林鈴は、わたしが出てきたのに気がつくと
「立って」
と鏡越しに言った。わたしはあわててモデルのポーズを作った。
「回って」
わたしは言われるままに回った。
女王様は、メイクさんの手を止めさせて、くるりとこちらを向いた。
「やせすぎね。あと五キロ太りなさい。それ以上でもそれ以下でもだめよ。どこの事務所なの」
「ZENです」
「ああ、中川君のとこの子なの」
「はい」
「レッスンは何をしているの? ウォーキングは誰に習った?」
「ウォーキングは上条先生です。レッスンはダンスと演技、ピアノと声楽をしています」
「ピアノはいらないわ。声楽より話し方のレッスンを受けなさい。お茶と着付けもやっておきなさい。マナー講座はここに通って」
場所が書かれた紙をひらりと渡され、言うだけ言ったとばかりに鏡に向かった。
マネージャーさんは名刺を渡してくれながら、撮影現場の見学をさせてくれた。
天下の林鈴様が行う撮影現場は、緊張感に満ちていた。
さっき二日酔いで吐いた人物とはとうてい思えない。
ポージングのうまさ、表情の豊かさ、三十は超えているはずだが、洋服によっては少女に見えた。
「ありがとうございました。勉強させていただきました」
撮影を終えた林鈴に挨拶に行くと、女王様は満足げに頷いた。
「いくつ? 十八? 十九?」
「十三です」
「え?」
「十三です」
わたしはもう一度言った。
「中学生じゃない」
「中学生です」
「あきれた」
何があきれたんだろう。
林鈴は椅子にだらしなくもたれかかった。
「子どもじゃない」
「はい」
「はいって何よ」
「はい。子どもです」
だって、子どもだ。笑っちゃうくらい子どもだ。弟一人、守れない。
「子どもは子どもって言わないのよ」
むう。他に何を言えばいいのだろうか。
わたしが言葉を探しているうちに、林鈴が不機嫌そうに手を振った。
「帰りなさい」
歩くこと、笑うこと、表現すること。
一度もやったことのないダンスや楽器、声楽、演技と、覚えることがたくさんあった。
同じモデルのみんなは、自分のお金でそれらのレッスンに通っていたが、わたしは全て中川社長が出してくれていた。
半端な結果は、出せなかった。
モデルの世界で繰り広げられる人間関係は熾烈で、用意されていた衣装が、ずたずたに切られていた時は、半裸でスタジオに入ったこともある。
何をされても、何を言われても、投げ出すことはできなかった。
指摘されたことはノートに書き、その日のうちに頭にたたき込んだ。
挨拶と言葉使いには特に気をつけ、撮影やレッスン以外には、なるべく目立たないように、すすんで雑用を引き受けた。
雑用をしていると、メイクアップアーティストやスタイリスト、カメラマンといった現場の助手の人達と仲良くなった。
彼らは自分達のボスの好み、その日の気分といった情報や、使わなかった試供品や古着などを気前よく分けてくれた。
おかげで私服には不自由せず、人生初のトリートメントで髪はつやつやになっていった。
やがて、少しずつだったが、モデルの友達もできた。
友人の大半は、単身で日本に来た日本語も話せない海外モデルで、日本語を教えながら、わたしは、彼女らの母語を教えてもらった。
世界のトップモデル 林鈴と出会ったのはこの頃だ。
車に酔った彼女が、わたしの胸に自分の胃の中身を全部吐いたのが、最初の出会いだ。
「ごめんなさいね。昨日飲み過ぎちゃった」
吐ききって、わたしの胸から顔を上げると、誰をも魅了してやまない笑顔で彼女は言った。
「歩けますか? 良かったらわたしの背に乗ってください」
とにかく、ビルのロビーまで背負って行こうと思ってしゃがみ込んだ。
「そうお」
背中に乗る体は、驚くほど軽く、腕にあたる太ももは筋肉質で張りがあった。
なるほど。トップモデルの身体とはこうなのか。
わたしは一人納得した。
「うん。あたし。今、着いた。知らない女の子の背中に乗っている。お地蔵さんみたいよ。あんた知らないの。お猿の背中にのって運ばれたおじいさんの話」
なにやら、ほのぼのとした話が自分の背中で繰り広げられている。
ビルのロビーにあるソファに降ろすと、ばたばたと人が集まってきた。
「鈴、どうした? 君、なんだねその恰好は――汚いな。鈴に近寄るな」
スーツを着た男の人がわたしを押し出そうとした。
確かに。ひどい匂いだわな。
髪も洋服もべとべとだった。
撮影が終わってて良かった。
このカッコで電車に乗れるかな。
そんなことを考えながら、回れ右をして、帰ろうとしたときだった。
「だめよ。そんなこと言っちゃ。マネージャー、この子も上に一緒に行くわよ」
「なんだって?」
こんな汚いものを?
男の人は、眉をひそめてわたしを見上げた。
「あたしをおぶってきたお猿さん。名前は?」
お猿さんってわたしのことですよね。
尋ねるように自分を指さすと、林鈴はその通りと眉を動かした。
「朔です。水島朔」
「そう。あんた、今から何か予定はある? その恰好じゃ帰れないでしょ。着替えを用意させるわ。一緒に上がって」
そう言って彼女は何気なく立ち上がった。
立っただけで空気が変わった。姿勢、身体のバランス、仕草、目が離せなかった。
「ほら。行くわよ」
口を開けてみていたあたしを面白そうに笑うと、彼女はさっさとエレベーターに乗り込んだ。
「お猿さん。ほら」
「あ、はい」
わたしは林鈴の後について、エレベーターの端っこに乗りこんだ。
「ちがあう」
「え」
「ちがうわよ」
林鈴が、顔をしかめた。
「あんたモデルでしょ。確かに下っ端のエレベーターでの位置はそこだけど、モデルの立ち位置はここよ。中央、真ん中、一番ヘソよ」
そう言って、林鈴は自分の吐物にまみれた、わたしの身体をぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「ここ。真ん中よ。誰がいてもいなくても姿勢を伸ばす。吐物まみれでも、真っ裸でも同じ」
汚れているのはあなたのせいです。
そう言う前に、エレベーターが止まった。
「いつでも、どこでも、そこがステージだと思いなさい。行くわよ」
そう言って林鈴は、さっきまでの酔っ払いと同一人物とはとても思えない、芸術的な歩き方でわたしの前を歩いた。
フロアにいた人々が彼女のために道をあける。
まるでモーゼの海のようだった。
わたしはつられて、覚えたばかりのウォーキングで割れた海の底を歩いて行った。
「さっさとシャワーを浴びてらっしゃい。着替えは用意しておくわ。返事」
「はい」
「よろしい」
そう言うと、彼女は犬を追うように掌を翻した。
シャワーを浴び、ふっかふかのバスタオルで身体を拭いた。
用意されていたパンツとシャツはとびきりの肌触りと着心地で、ハイブランドの匂いがした。
シャワー室から出て行くと、林鈴は女王蜂のように人に囲まれていた。
どうやら撮影があるらしく、何人かのメイクさんがその美しい肌をさらに美しくしようと躍起になっていた。
林鈴は、わたしが出てきたのに気がつくと
「立って」
と鏡越しに言った。わたしはあわててモデルのポーズを作った。
「回って」
わたしは言われるままに回った。
女王様は、メイクさんの手を止めさせて、くるりとこちらを向いた。
「やせすぎね。あと五キロ太りなさい。それ以上でもそれ以下でもだめよ。どこの事務所なの」
「ZENです」
「ああ、中川君のとこの子なの」
「はい」
「レッスンは何をしているの? ウォーキングは誰に習った?」
「ウォーキングは上条先生です。レッスンはダンスと演技、ピアノと声楽をしています」
「ピアノはいらないわ。声楽より話し方のレッスンを受けなさい。お茶と着付けもやっておきなさい。マナー講座はここに通って」
場所が書かれた紙をひらりと渡され、言うだけ言ったとばかりに鏡に向かった。
マネージャーさんは名刺を渡してくれながら、撮影現場の見学をさせてくれた。
天下の林鈴様が行う撮影現場は、緊張感に満ちていた。
さっき二日酔いで吐いた人物とはとうてい思えない。
ポージングのうまさ、表情の豊かさ、三十は超えているはずだが、洋服によっては少女に見えた。
「ありがとうございました。勉強させていただきました」
撮影を終えた林鈴に挨拶に行くと、女王様は満足げに頷いた。
「いくつ? 十八? 十九?」
「十三です」
「え?」
「十三です」
わたしはもう一度言った。
「中学生じゃない」
「中学生です」
「あきれた」
何があきれたんだろう。
林鈴は椅子にだらしなくもたれかかった。
「子どもじゃない」
「はい」
「はいって何よ」
「はい。子どもです」
だって、子どもだ。笑っちゃうくらい子どもだ。弟一人、守れない。
「子どもは子どもって言わないのよ」
むう。他に何を言えばいいのだろうか。
わたしが言葉を探しているうちに、林鈴が不機嫌そうに手を振った。
「帰りなさい」
応援ありがとうございます!
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