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水島朔の話 中学
水島朔の話 ~八百吉~
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わたしは、名刺の山を見ながら、夏に八百屋でバイトしたときのことを思い出していた。
八百吉の女将さんが、ぎっくり腰で入院したと聞いて、五郎さんが紹介してくれたのだった。
わたしは、約束の時間より早めに店に着くと、トマトが入った山のような箱の前で八百吉の店主が、低い声で息子を叱っていた。
「夏の終わりに、すっかり熟れたトマトをこんなにたくさん仕入れてどうしろってんだ。お前は莫迦か」
息子は「だって安かったから……」などと言いながら、大きな体を小さく縮めていた。
わたしが顔を出すと、八百吉のおじさんは、怒っていた顔を引っ込めた。
「おう。早いな。朔ちゃん」
おじさんは、ひげ面をくしゃくしゃにして笑いながら言った。
八百吉は、段ボールの箱に野菜の値段を書いて売るのが決まり事だった。
その日の仕入れ値で、箱に書いてある値段は、すぐに変わった。
独り者でも、家族持ちでも買いやすいように。という配慮でビニール袋に入れた売り方はしておらず、今時珍しい量り売りだった。
店主は山のようにあるトマトが入った段ボールの端っこに、ため息をつきながら値段を書き入れた。
まだ店も開けていないのに、二回ほど二本線で数字が書き直されている。
お買い得の赤字も書き入れてあるが、トマトは箱に五、六個しかはいっていない。
わたしは、そのトマトの箱の空いているところに新しいトマトを並べようとした。
「ああ。朔ちゃん、そいつはいいんだ。そのくらいにしといてくれ」
「え?」
わたしの八百吉での作業は、商品を補充する「品だし」という仕事だ。
安くて活気ある八百吉は一日中人が絶えず、店の活気のためにも商品の隙間がでたらまず埋めろと教えられていた。
怪訝な顔をしたわたしに、申し訳なさそうに店主が言った。
「普段ならこんな売り方しねえんだが、このトマトは、もって二、三日ってとこだろう。へたすると明日には悪くなっちまうかも知れねえ。今日中に売り切りたいからな。仕入れ値ぎりぎりな値段設定の他に、こういう裏の手を使うのよ」
そう言って、山のようにあるトマトの箱を裏手に隠してしまった。
「ちょっと忙しいかも知れないけどな、トマトが売れてから、新しいのを出してくれねえか。出すときもやっぱり、このくらいにしてな。みてろ、面白いくらい売れるから」
店主の言うとおり、店の裏に、山のようにあったトマトの箱は、その日の夕方には、綺麗に売り切れていた。
「なんでだろ?」
わたしは後片付けをしながら、二回値段が書き直された箱をひっくり返した。
「売れただろ」
そんなわたしを見ながら、店主は複雑な顔をして箱を破いた。
「はい。何でですか? みんな先を争うように買っていました」
店主は、言いにくそうに太い指で箱に書いてある文字を指した。
「まず、お買い得の言葉を今日はトマトだけに絞った。値段を二回安く書き直すことで底値であることをアピールしたんだ。
さらに、少なめに商品を店に並べることで売れていることと、商品が残り少ないことを伝えた。
うちみたいな八百屋に今日買うものを決めて来ている人はそんなに多くない。
だいたいは、俺や従業員と話をして今日の夕飯のメニューを決める。
それと、他に何で決めるかわかるか?」
「値段?」
わたしは値段でしか決めない。
「その通り。だから、お買い得に手が出る。今日のお買い得はトマトだけ。
いいか。人は選択肢が少ないほどものを買うんだ。そして、他の人にとられたくないと思うと焦って自分のものにしようとする。
うちはおかげさまでお客さんが多いから、商品が少ないと他のお客さんとの競争になる。だから、数が少ない商品は売れるんだ。
ただ、そういう買い物は大抵、後悔が残る。あんまりいい買い物にはならない。いい買い物をしたという記憶がないと、うちに長く通ってくれるお客さんにはならない。
うちではなるべく長く通ってくれるお客さんになってもらいたいからな。
なるべく新鮮でよいものを、いっぱいの選択肢から選んでもらいたい」
「わたし、八百吉好きです。いつもお野菜いっぱいで、元気になります」
「ありがとな。だから、そんなやり方は嫌だったんだけど、仕入れちまったのはしょうがない。これでまずいトマトだったら、おまけにでもしたが、まあいいトマトだったから、あんな風に売ったんだよ」
そう言って売れ残った野菜を詰めた箱をくれた。
「母ちゃんが入院している間、朔ちゃんに来てもらって、本当にたすかった。品だしは完璧だったし、こまめに店の掃除をしてくれて、空いた段ボールをすぐにたたんでくれて、うちの娘だったら泣くほど嬉しかったろうに」
そう言って頭をなでてくれたっけ。
八百吉の女将さんが、ぎっくり腰で入院したと聞いて、五郎さんが紹介してくれたのだった。
わたしは、約束の時間より早めに店に着くと、トマトが入った山のような箱の前で八百吉の店主が、低い声で息子を叱っていた。
「夏の終わりに、すっかり熟れたトマトをこんなにたくさん仕入れてどうしろってんだ。お前は莫迦か」
息子は「だって安かったから……」などと言いながら、大きな体を小さく縮めていた。
わたしが顔を出すと、八百吉のおじさんは、怒っていた顔を引っ込めた。
「おう。早いな。朔ちゃん」
おじさんは、ひげ面をくしゃくしゃにして笑いながら言った。
八百吉は、段ボールの箱に野菜の値段を書いて売るのが決まり事だった。
その日の仕入れ値で、箱に書いてある値段は、すぐに変わった。
独り者でも、家族持ちでも買いやすいように。という配慮でビニール袋に入れた売り方はしておらず、今時珍しい量り売りだった。
店主は山のようにあるトマトが入った段ボールの端っこに、ため息をつきながら値段を書き入れた。
まだ店も開けていないのに、二回ほど二本線で数字が書き直されている。
お買い得の赤字も書き入れてあるが、トマトは箱に五、六個しかはいっていない。
わたしは、そのトマトの箱の空いているところに新しいトマトを並べようとした。
「ああ。朔ちゃん、そいつはいいんだ。そのくらいにしといてくれ」
「え?」
わたしの八百吉での作業は、商品を補充する「品だし」という仕事だ。
安くて活気ある八百吉は一日中人が絶えず、店の活気のためにも商品の隙間がでたらまず埋めろと教えられていた。
怪訝な顔をしたわたしに、申し訳なさそうに店主が言った。
「普段ならこんな売り方しねえんだが、このトマトは、もって二、三日ってとこだろう。へたすると明日には悪くなっちまうかも知れねえ。今日中に売り切りたいからな。仕入れ値ぎりぎりな値段設定の他に、こういう裏の手を使うのよ」
そう言って、山のようにあるトマトの箱を裏手に隠してしまった。
「ちょっと忙しいかも知れないけどな、トマトが売れてから、新しいのを出してくれねえか。出すときもやっぱり、このくらいにしてな。みてろ、面白いくらい売れるから」
店主の言うとおり、店の裏に、山のようにあったトマトの箱は、その日の夕方には、綺麗に売り切れていた。
「なんでだろ?」
わたしは後片付けをしながら、二回値段が書き直された箱をひっくり返した。
「売れただろ」
そんなわたしを見ながら、店主は複雑な顔をして箱を破いた。
「はい。何でですか? みんな先を争うように買っていました」
店主は、言いにくそうに太い指で箱に書いてある文字を指した。
「まず、お買い得の言葉を今日はトマトだけに絞った。値段を二回安く書き直すことで底値であることをアピールしたんだ。
さらに、少なめに商品を店に並べることで売れていることと、商品が残り少ないことを伝えた。
うちみたいな八百屋に今日買うものを決めて来ている人はそんなに多くない。
だいたいは、俺や従業員と話をして今日の夕飯のメニューを決める。
それと、他に何で決めるかわかるか?」
「値段?」
わたしは値段でしか決めない。
「その通り。だから、お買い得に手が出る。今日のお買い得はトマトだけ。
いいか。人は選択肢が少ないほどものを買うんだ。そして、他の人にとられたくないと思うと焦って自分のものにしようとする。
うちはおかげさまでお客さんが多いから、商品が少ないと他のお客さんとの競争になる。だから、数が少ない商品は売れるんだ。
ただ、そういう買い物は大抵、後悔が残る。あんまりいい買い物にはならない。いい買い物をしたという記憶がないと、うちに長く通ってくれるお客さんにはならない。
うちではなるべく長く通ってくれるお客さんになってもらいたいからな。
なるべく新鮮でよいものを、いっぱいの選択肢から選んでもらいたい」
「わたし、八百吉好きです。いつもお野菜いっぱいで、元気になります」
「ありがとな。だから、そんなやり方は嫌だったんだけど、仕入れちまったのはしょうがない。これでまずいトマトだったら、おまけにでもしたが、まあいいトマトだったから、あんな風に売ったんだよ」
そう言って売れ残った野菜を詰めた箱をくれた。
「母ちゃんが入院している間、朔ちゃんに来てもらって、本当にたすかった。品だしは完璧だったし、こまめに店の掃除をしてくれて、空いた段ボールをすぐにたたんでくれて、うちの娘だったら泣くほど嬉しかったろうに」
そう言って頭をなでてくれたっけ。
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お気に入りのご登録本当にありがとうございます。とても嬉しいです。励みになりました。読んでくださって本当にありがとうございました。急に暑くなったり寒くなったりだと思います。お身体お大事になさってください。
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