王妃 ジョア~日本人水島朔が王妃と呼ばれるまでの物語 ~

ぺんぎん

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ZEN 中川善之助の話

中川善之助の話 ~引っ越し~

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 朔と満の引っ越しは、仕入れに使っている森田の軽トラで終わるくらいあっけないものだった。

 二人の学用品と押し入れに入っていた収納ケースが二つ。

 ほぼ畳のような布団が二組。

 センベイ布団というにはセンベイに申し訳ない。

 森田と俺は、顔を見合わせ、帰る途中に、新しい布団を買って行くことを、無言で決めた。

 押し入れの中は、死んだ叔母さんの着ていた派手な洋服であふれていた。

 蛍光灯の光に反射して、スパンコールがあやしげに光っていた。

 俺は、服を全てゴミ袋につっこんだ。

 台所の磨き上げられたシンクの上には、使い込まれたフライパンが一つと取っ手が片方とれているアルミ鍋が一つのっていた。

 シンク下に引かれている新聞紙には、欠けた茶碗が四つ。

 森田はそれを丁寧に新聞紙に包んだ。

「そんなのお前んちいっぱいあるだろ。捨てていこうぜ」

「いや。持ってくだろ?」

 当たり前のように森田が言った。

「持ってくか? 食堂に住むんだぜ」

 俺は朔に聞いた。

 朔は嬉しそうに頷いた。

 大事そうにその茶碗を受け取ると、自分の衣装ケースの中にしまった。

 薄っぺらいカーテンも、畳と一体化している座布団も、全部ゴミ袋につめこんだ。

 ほどなく部屋は空っぽになった。

 六畳二間の畳には家具の跡がくっきり残っている。

 朔は感情が読み取れない表情で、それを見つめていた。

「行くか」

 俺は朔と満の肩を叩いた。

 森田と俺が先に階段を下りていると、姉弟二人が家のドアの前で深々と頭を下げているのが見えた。

 くそ。

 鼻をすすっていると、森田が自分の服の裾で俺の顔を拭いた。

「二人とも体に気をつけるんだよ」

 見送りに出てくれた大家の婆ちゃんは、自分よりはるかに背の高い朔と満をぎゅっと抱きしめた。

「おばあちゃんも」

 朔は黒い瞳をしばたきながら、両手でその小さな背中を包み込んだ。

 俺は、この二人の世界に少しでも優しさがあったことにほっとした。

 近くのデパートで、恐縮する朔と満を追い立てて、無理矢理、羽布団と思いっきり明るいオレンジ色のカーテンを買った。

 二人の部屋は『もりしげ』の二階に準備されていた。

 日当たりが良く、開け放たれた窓からは、遠くの海風が吹きこんでいた。

 四人で部屋に荷物を運び込んで、森田のおばさんが準備してくれていた引っ越し蕎麦を食べた。

 蕎麦だけではなく小鉢が五つ用意されているところがおばさんらしかった。

 ふくふく計画はすでに進行中らしい。

 朔と満は、嬉しそうに顔を見合わせながら美味しそうに平らげた。

 俺と森田は、それを見て、ほっと胸をなでおろした。

 荷物の整理は、アパートの片付けよりも時間はかからなそうだった。

 押し入れの中に、朔の衣装ケースをしまおうとしたら、勢いが良かったのか、引き出しが飛び出してきた。

 少ない洋服の間から、先ほどの新聞紙にくるまったお茶碗と、小さな写真立てがでてきた。

 朔によく似た女性と、日本人離れした顔の男性が仲良く肩を組んでいる。

 女性が抱いている赤ん坊は満だろう。

 そのすぐ隣で、はじけんばかりの笑顔の小さな朔が写っていた。

「優しそうなひとだな」

 俺は写真立てを見ながら言った。

「朔は母ちゃん似だな」

「そうですか」

 朔は嬉しそうに微笑んだ。





 二人はすぐに『もりしげ』での生活に慣れた。

 朔は、昼間は学校に行き、夜は『もりしげ』を手伝った。

 森田もおばさんも最初は断ったらしいが、「何もしない方が居づらいんです」という朔の言葉に、二人は折れた。

 最初は皿洗いや掃除、仕込みの手伝い。やがて料理も覚え、朔はすぐに森田が唸るほどの腕前になっていった。

 『もりしげ』で、誰に対しても笑顔できびきび働く、朔の白い割烹着姿は、たちまち近所の評判になり、夕方の『もりしげ』は、朔を目当ての男子高校生とサラリーマンでつねに満席だった。

 生活に慣れると同時に、モデルのレッスンも始まった。

 歩き方、歌、ダンス、演技。

 朔は砂に水がしみこむように覚えた。

 注意されたことは二度と繰り返さなかった。

 誰にでも笑顔で礼儀正しい朔は、その外見とともに驚きをもって迎えられた。

 『もりしげ』ふくふく計画は、少しずつ成果が現れはじめた。

 こけていた頬はふっくらとし、丸みを帯びた体のラインは長い手足をさらに美しく見せた。

 ぱさついていた黒髪はつややかに輝き、どこに行っても人の注目を集めた。

 著名なコレクションで急遽出られなくなったモデルの代わりに歩いたのが、朔のモデルデビューになった。

 それからは引っ張りだこだった。

 朔がランウェイを歩けば、その服は瞬く間に売れた。

 デビューして半年後には雑誌の表紙を飾り、バラエティ番組に呼ばれた。

 朔が通信高校を選ぶと言いだしたのは中三の冬だった。

 いつ勉強しているのか、成績は常に都内でも十パーセントに入っていたので、俺も森田もおばさんも、吉田ですら進学校をすすめたが、朔は頑として譲らなかった。

「やるからには、中途半端は嫌なんです」

 朔はそう言って勝手に願書を取り寄せ、入学を決めた。

 パリに行くと決めたのも朔だった。

 十六になると単身パリにのりこみ、向こうのエージェントと契約を決め、すぐにパリコレクションを歩いた。

 次の年にはファッション界の大御所ブランドデザイナーが、ぜひにと専属契約を結びに日本にまで来た。

 デザイナーは朔をミューズと呼び、ブランドの顔としてその名を冠したレーベルまで立ち上げた。

 世界は朔を、そのブランドにちなんだ名、ジョア、喜びのモデルと呼んだ。

 世界に売られている雑誌の表紙を飾ったのは、今年に入ってすぐだった。

 今は撮影でアフリカ大陸にいるらしい。

 朔は一年の半分をヨーロッパで暮らすようになっていた。

 背筋を伸ばして「絶対後悔させません」と言った朔。

 俺は何度もあの日の、朔の目を思い出す。

 あの美しい黒曜石のような瞳を。


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