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ZEN 中川善之助の話

中川善之助の話 ~携帯電話の奴隷~

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 月曜日の朝、いつものように秘書の小山冴子が、部屋に入ってきた。

 彼女が今日の予定を告げる前に、俺の名刺をもった女の子から連絡が来たら何があっても、どんな仕事が入っていても、俺にすぐ電話をするように、と伝えた。

「いいか、メールじゃないぞ。電話だ。どんな打ち合わせ中だろうが、絶対気にするな」

「珍しいですね。社長が名刺渡すなんて」

 小山冴子は大きな人差し指で黒縁メガネをかけ直すと、分厚いスケジュール帳に書き込んだ。

「珍しいどこじゃない。俺のプライベートの携帯電話を書くなんて十年ぶりだぞ。あーくそ。連絡先聞いときゃよかった」

「はじめて会ったおじさんに連絡先教えてくれるような女の子は、絶対ハズレです」

 小山は、スケジュール帳から目も上げずに言った。

 確かに。

「脈はありそうなんですか?」

「わからん」

 芸能事務所に所属している子は、大抵、所属事務所の名前を教えてくれる。

 何も言わない子は、移籍をしたいか無所属のどちらかだ。

 芸能事務所が乱立するこの街で、あんなに目立つ子がどこの事務所にも所属していないのが、不思議だった。

「どこかのお手つき前に欲しい。絶対うちに欲しい」

 小山は肩をすくめて「そうなるといいですね」と言った。






 それからしばらく、俺は携帯電話の奴隷になった。

 トイレや風呂、湯船の中でも携帯を離さなかった。

 他の事務所に登録しているモデルや新人、芸人にいたるまでチェックし、普段乗らないあの電車にも、時間を変えて何度も乗った。

 そして、一日三回くらい「記憶はどんどん美しくなる。そんなに綺麗な子ではなかった」と呪文のように唱えた。

「そんなに綺麗な子だったのか?」

 森田は興味深そうにカウンターの奥から聞いてきた。

 いつもなら暖簾をしまう頃だが、今日はまだ、ちらほらと客がいた。

 本日の定食は、生姜焼きとネギ味噌の蒸し焼き、しらすとほうれん草のごま和え、かぶの味噌汁だった。

「ああ。綺麗だった……と思ったんだが、ここまで時間が経つと自信が無い。あの背と顔なら、絶対、どこからか噂が流れてくるはずなんだが、そんな話も聞かない」

 俳優のMや女優のSも、通っている高校の門にはスカウトが列をなした。圧倒的なカリスマ性とは、そういうものだ。

「俺の目も、とうとう狂ったかね」

「かもな」

 森田は笑いながら小さな小鉢を置いた。

「何これ? 俺頼んでないけど」

「新作。目は狂っても舌は大丈夫だろ」

「言ってろ」

 森田は新作をちょいちょい作る。

 それを俺に食べさせて、客に出すかを決めている。

 大当たりもあれば、そうでない時もある。

 だが、『もりしげ』が人気店なのは、この森田の姿勢と努力の結果だ。

 おばさんが忙しそうにテーブルからテーブルに立ち回っている。

「まだバイト入んねえの?」

 森田は肩をすくめた。





 何日経っても、俺の電話は鳴らなかった。

 仕事はどんどん忙しくなり、喉に刺さった魚の骨のように、俺はいつの間にか彼女のことを、忘れていった。






 胸ポケットの電話がうるさい。

 今日は、一年前から進めてきた億単位のプロジェクトの契約だった。

 小山冴子には、今日は誰からの電話も取り次ぐなと言ったはずだった。

 電話は一回切れ、またかかってきている。

 両親は先週会ってきたばかりで、ぴんぴんしていた。

 母親はトリコロールカラーに髪を染めており、殺しても死にそうもなかった。

 俺は電源を切ろうと胸ポケットに手を伸ばした。

 電話が切れ、俺は相手方ににっこり笑いかけながら、書類に印鑑を押した。

 電話がまた鳴った。

 秘書の小山の今年の昇給は、この時点で消えた。

「中川さん。一度電話に出られたら?」

 ふるえっぱなしの電話を意地でも出ようとしない俺を気遣い、相手方の社長は外のドアを指した。

 印鑑は押した。向こうも俺も。

 俺は相手方の社長と固い握手をして、急いで部屋を出た。

「お前! 今日何の日かわかって」

「社長。来ました」

「なにがだ!」

「名刺が」

「は?」

「社長のプライベート電話番号が書いてある名刺をもつ女の子が」

「おまえ……よりにもよって今日かよ! いいか、すぐ戻る。俺が帰るまで鰻でも寿司でもとってろ。ぜったい帰すな」

 これから相手方と食事をして酒をのみ、どう考えても帰るのが夜中になる。

 俺は、はやる胸を押さえてなるべくゆっくり動いた。

 相手会社の社長が笑いながら振り返った。

 トリコロールカラーに髪を染めた俺の母親が倒れたのは、次の瞬間だった。



 この街のタクシーはさっぱり動かない。

 俺は目的地までまだ二駅もあるというのに、ばたばたと車を降りた。

 ネクタイを緩めて走りながら、高校時代、森田と走った以来だなとぼんやり思った。

 森田はまだ走っていて、町内会の草野球チームのエースだった。

 俺も入れてもらおうかな。ネクタイを緩めながら俺は思った。

 

 ビルに入ると小山冴子がエレベーターを押さえて待っていた。

「まだいるか?」

「もちろんです」

 そう言いながら小山は素早くエレベーターに乗り込んだ。

「よく帰る時間がわかったな」

 汗だくの首にネクタイを締めながら聞いた。

「電話を切ってすぐお母様が倒れられたかと思ったので」

 俺は、昇給名簿に小山冴子の名前を戻した。

「お待たせしたね」

 応接室のドアを開けたとたん、はじかれたように女の子が立ち上がった。

 記憶よりもさらに背が伸びていた。

 長い首が、黒いまっすぐな髪に縁取られ、短い丈の制服のスカートからは、芸術的と言っていいくらいの美しい足が伸びている。

 濡れたようなまつげに、黒い大きな瞳がつづく。

 口角には、花がほころぶような微笑みをたたえられていた。

 目が離せなかった。俺は口を開けて、ただ彼女を見ることしかできなかった。

 小山冴子につつかれるまで、彼女も俺も、ただ、つっ立ったままだった。

「社長」

 小山が小声で言った。

 俺は、慌てて彼女に座るようにすすめた。

 彼女は座っていても、圧倒的な存在感があった。

 なんでこんな子が、いままで埋もれていたのか不思議だった。

 傍らには電車で一緒だった男の子が座っていた。

 こちらも成長期らしく、前回よりだいぶ背が伸びていた。

 女の子は水島 朔、連れの男の子は高屋敷 玄と言った。

 聞けば二人とも中学生だという。出会った時は小学生だったのか。

 俺は唖然とした。

 彼女がとても頭が良いことには、すぐに気がついた。

 普通この年齢くらいの子どもは、聞かれてもいないことを、べらべらと話続けるか、聞かれたこととは違うとんちんかんな答えをすることも多い。だが、彼女は的確に聞かれたことだけを答えた。

 時に笑顔で、時に考える仕草をしながら。

 まるで映画を見ているかのように、俺は彼女に見惚れていた。

 芸能界の何に興味ある?モデル?女優?

 学校で何の部活に入っているの?

 熱に浮かれたみたいに、俺は同じ質問を何度もしてしまった。
 
 彼女はそれを笑うでもなく、丁寧に答えた。いつの間にか俺は、聞かれてもいないのに、今日のプロジェクトの概要と、調印の最中抜け出すために母親を危うく殺しかけた話まで彼女にしていた。

 小山が見かねてコーヒーを持って俺の前に置いた。

 落ち着け

 俺は自分に言い聞かせた。

 とにかく、契約だ。

「今度はぜひ、親御さんと来てくれるかな。できれば今日でも明日でも。親御さんがご都合良い時でいいので、電話くれるかな。夜でも朝でも何時でもいいから。説明したいこともたくさんあるし」

 引かれるかも。俺は首から落ちる汗をぬぐった。くそ。この部屋。

 彼女は、そんな俺をじっと見た。

「それは、わたしを雇っていただけるということでしょうか?」

「もちろんだよ。絶対スターになるよ。この子達よりも、ずっと」
 
 俺は、応接室の壁一面に貼ってある、事務所の看板スター達のポートレートを指しながら言った。

 彼女だったら、日本だけじゃない。世界でだって戦える。

 それは確信だった。

「だからぜひ、親御さんと」

「いないんです」

「いや、え? いないって?」

「両親はいません。育ててくれた叔母がいたのですが、先日亡くなりました」

 黒い大きな瞳に、俺の驚いた顔が映っている。

 「だから、保護者が必要なんです。わたしが二十歳になるまで、どうしても保護者が必要なんです。無理なことを言っているのはわかっています。でも、時間がないんです。どうか、わたしの、わたしと弟の保護者になってください」

 女の子は、意を決したように一気に言った。

「なんでもやります。努力もします。ぜったい後悔させません。お願いします。わたし達の姉弟の保護者になってください」

「あ、ちょっと、君も座って」

 俺は立っていた小山を、空いているソファに座らせた。

「この人は僕の秘書をしてくれている小山冴子さん。もう少し詳しく話してくれるかな」

 水島 朔は神妙そうに頷いた。

 彼女が小学校四年生の頃、両親が事故で亡くなった。両親の親もとっくに死んでおり、二学年下の弟と彼女は、母親の姉妹である叔母に引き取られた。しかし、先日その叔母も亡くなった。頼れる親戚もおらず、彼女と弟は、養護施設にひきとられる手続きが進んでいるという。

「お願いします。今、施設に空きがなくて、弟とわたしは、別な施設に入らなければならないんです。わたしが二十歳になるまで七年あります。モデルとして使えなかったら、皿洗いでも、雑用でも何でもします。お願いです。保護者になってください」

 ひたむきな目で迫られて、俺はあやうく頷きそうになった。

 黙って聞いていた小山冴子が、俺の首を押しとどめた。

「あなた今どこに住んでいるの? おばさまが亡くなったのはいつなの? ご飯は食べているの?」

「叔母は一ヶ月前に亡くなりました。今は大家さんのご好意で住んでいたアパートにそのままいます。ただ、今月いっぱいでそこも出なくてはならなくて、役所の人達が明日来ることになっています。」

「ご飯は? 食べてるの?」

 小山冴子は手つかずに置いてあったチョコの皿を、ずずっと彼女の前にすすめた。

「給食があるので」

 水島朔は恥ずかしそうにうつむいた。

 よく見ると、着ている制服のプリーツはヨレヨレで、伸びたゴムの靴下が、形のよい踝に、辛うじてひっかかっていた。

 そのスタイルの良さで気がつかなかったが、控えめに言って彼女は骨と皮だった。いくらモデルをすると言ってもこれでは、ガリガリだ。

 「ふうむ」

 俺はソファにもたれかかった。

 うちのモデル事務所は弱小ではなかったが、大手でもなかった。事務所に登録してもらい、仕事を仲介するかわりに、レッスン料などは自腹で出してもらっている。彼女からは、それが一切いただけない。それどころか、彼女をうちの事務所で引き受けるイコール、俺が彼女とその弟の、保護者になるということだ。

 スターになるかも知れない。だが、まだ中学生だ。もしかしたら、人気が出ずに終わる可能性も大きい。

 確かに彼女は魅力的だ。だが、面倒はごめんだった。ようやく離婚ができたとこだ。誰かと住むのは、ゴメンだ。二人の子持ちになるのは、もっとキツイ。

 俺が逡巡していると、

「社長、お寿司とりますね」

「え?」

「寿司でも鰻でもっておっしゃいましたよね」

 小山は立ち上がった。

「あ、そんな気を遣わないでください」

 水島朔が小山を止めようと立ち上がった。持っていた小さなバックが転がり落ち、これでもかというくらいの数の名刺が飛び出てきた。

「ごめんなさい」

 水島朔があわてて拾い集める。

 俺は自分の足下に落ちた名刺を拾い上げた。

 Mエージェンシー、A事務所、Pプロダクション、株式会社S

 名だたる大手事務所の名刺だった。

 何人か、昔一緒に仕事をしたスカウトマン達の名前が見える。どいつもこいつも、業界では、ちょっと有名な奴らだ。

 俺は唖然として彼女を見た。

「お前、バックの口は閉めとけよ」

 高屋敷玄が言った。

 水島朔は、彼の声が聞こえなかったように、せっせと名刺を拾っている。

 中学生が、俺が悩んでいるこのタイミングでこの演出。

 鳥肌が立った。

「小山君。寿司の前に契約書だ」

「はい」

 小山は、はじかれるように部屋から出て行った。

「しびれるね。すごいタイミングだった」

 全ての名刺を小さなバックに納めた水島朔は、何もわからないというような顔をしながら首をかしげた。

 その顔を見た瞬間、俺は自分がもう戻れないのを知った。

「弁護士を呼ぼう。君の弟とも会わなければ。小学生だろ? 一人で待っているんだろう? 今から迎えに行って飯を食いながら契約の話をしようか」

「いいんですか?」

 今度こそ信じられないという顔をして、水島朔は顔を上げた。

 俺は今日初めて年相応な中学生の顔を見ることができた。

 なんてこった。さらにいい。

「朔、今日は契約書だけでいいよ。その件は、またあらためて返事をします。朔、今日は帰るよ」

 今まで黙って聞いていた、連れの男の子が立ち上がった。

 水島朔がつられたように立ち上がる。

「ちょっと待て。君は関係ないだろう?」

 俺は慌てて言った。今他の事務所に行かれたら元も子もない。

「関係ある。朔、今日は契約書もらって、うちの弁護士に見せてからだよ。」

「うちはそんな会社じゃない。俺は」

「必要なのは契約書だよ。それと、法定代理人となる書類も用意しておいて。全部そろってから話を進める」

 なるほど。ただついてきたわけじゃないってね。やれやれ。いつの間に日本は中学生がこんなに頭が切れるようになったんだ?

 俺は頷くしかなかった。
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