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幼馴染 高屋敷玄の話

高屋敷玄の話 その一 ~転校生~

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 水島朔は転校生だった。

 一言で言うと異質。

 見たこともないくらい頭が小さく、手足が長く、クラスで一番大きかった佐久間よりさらに頭一つ大きかった。

 黒目が大きく、まばたきするたびにまつげの音が聞こえるようだった。

 あんな綺麗な生き物、足跡のついていない雪の道みたいに踏みつけたくなるに決まってるじゃないか。

 女子はあっという間に水島朔を孤独に陥れた。

 きっかけは靴下だった。

「ねえ。それ、昨日も履いてたよね」

 後ろの席の女子が言った。

「あ、うん。同じのが二足あるから」

 朔は恥ずかしそうに赤くなって言った。

 そんなの嘘だって、すぐにわかった。

 服は同じようなのばかり着ていたし、上着もズボンも裾が短く、朔の長い手足がいやに目立っていた。

 ここは、いわゆる高級住宅街だ。

 小学生が万単位の時計を、取っ替え引っ替え持ってきているようなお土地柄で、朔の格好はかなり目立った。

 でも、どんな似合わない服を着ていたって、朔はそこら辺の女子の誰より、輝いていた。

 あいつ、磨けばやばくね。

 男子達は、噂した。

 俺は、他の男子にとられたくない一心だった。

 隣の席になったのをいいことに、しょっちゅう朔に話しかけた。

 転校して一ヶ月もたたないうちに、朔は、ほとんどの女子から総スカンを食らっていた。

 俺は、他のヤツが、無視すればするほど、朔にかまった。 

 今考えると、本当に迷惑なヤツだった。





 そんな俺と朔が仲良くなったのは、とある事件がきっかけだった。

 俺の父親は開業医で、長男の俺は生まれた瞬間から医師としての将来を期待されていた。

 自分の意思とは無関係に決められたレール。

 小さい頃から、びっしりと埋められた習い事のスケジュール。

 そんな生活に息苦しさを感じつつ、それでも、特にやりたいこともなく、主張したい意見も持たなかった俺は、漫然と母親に決められた日々のスケジュールを、半ばあきらめながらこなしていた。

 通っていた塾の帰り道。

 日も暮れて急に寒くなってきた俺は、ポケットに手を突っ込みながら家の近くを歩いていた。

 ここいらではめずらしい、昭和の遺物のような、錆びたトタン屋根のアパートを通りかかった時だった。

 パタンと音がして、二階のドアが開いた。

 暗い、蔦だらけのアパートから、水島朔が出てきた。

 真っ赤に泣きはらした目を、手の甲で何度もこすっていた。

 こういうのをなんと言うんだっけ?

 そうだ。

 掃きだめに鶴。

「お前、何やってんの?」

 俺は、思わず声をかけた。

「え?」

 朔は、心底驚いたという顔で、俺を見下ろした。

「……そっちこそ。どうして、こんなところにいるの?」

「いや、塾の帰り。……お前ん家、ここなんだ」

「……うん」

 朔は口をへの字に曲げながら頷いた。

「姉ちゃん。来て」

 アパート中から、男の子の呼ぶ声がした。

 絶え間なく小さな咳が聞こえる。

 あの咳は知っている。

 ぜんそくだ。

 季節の変わり目になると、妹の静が同じような咳をして、一晩中眠れない日があった。

「今行く」

 朔は俺の方をちらっと見て、そのまま黙ってアパートの中に消えた。



 次の日、朔は学校を休んだ。

 俺は近所だと言って、担任からプリントと給食のゼリーを奪い取り、朔の住んでいるアパートに向かった。

 ミシミシと鈍い音をたてる鉄製の階段を上って、昨日、朔が出てきたドア横に備え付けてある、貧相なチャイムを鳴らした。

 しばらく待つと、昨日と同じ、毛玉のついたトレーナーを着た朔がドアから出てきた。

 怪訝な顔をした朔が、「なに?」とでも言いたげに、首を傾げた。

「これ、担任から」

 俺は、弾けるように、持ってきたものを、朔の目の前に突き出した。

 朔の目が、一瞬光を集めた。

「……ありがと」

 トレーナーから伸びた細い腕が、ドアを押し出して、そろそろと受け取った。

 部屋の中から、ヒューヒューと、唸るような咳が聞こえる。

「大丈夫なのか?」

 俺は、部屋の奥を見ながら聞いた。

「……うん」

 朔は、泣きそうな顔で頷いた。

「ねえちゃん。くるし」

「みつる!」

 朔は、ぱっと走っていった。

 俺は思わず、朔の後を追って、部屋に入った。

 パジャマ姿の小さな男の子が一人、暗い部屋の中で、ぺしゃんこの布団に座りながら、ゼイゼイと息をしている。

 唇が、真っ青だった。

「病院連れてくか?」

 俺は、畳の上にランドセルを置いた。

「行けないんだよ」

「え?」

「行けないの」

「何言ってんだよ。病院連れてかなきゃ」

「行けないの。……わたし達、保険証も、お金もないんだ」

 朔は、弟の背中を一生懸命さすりながら、静かに言った。

「でも、これじゃあ……」

 最後の言葉が言えなかった。

 それは、あまりにも真実に近すぎた。

「待ってろ。すぐ戻る」

 俺はそう言うと、アパートを飛び出して、家に向かって全速力で走った。





「父さん!」

 家に帰ると、午前の診療を終えた父が、午後からの訪問診療に出かけるために車に乗り込んでいるところだった。

「おう。おかえり。どうした。そんなに走って」

 父さんの顔を見た瞬間、俺はほっとして、泣きそうになった。

「クラスのやつの弟が死にそうなんだ。
 静と同じ咳してた。
 唇とか真っ青で。
 でも、そいつんち、金も、保険証もないから医者にかかれないって。
 父さん。父さん。そいつのこと、助けてやって!」

 俺は、父さんの腕をつかんで、一気にまくし立てた。

「なんだって? そこに大人はいないのか?」

 父さんは、僕に目線を合わせるようにかがみ込んで、じれったいくらい、ゆっくりと聞いた。

「わかんない。でも、今はいなかった。早く。お願い。一緒に来て」

「……近いのか?」

「うん!」

「よし」

 父さんは、黒い診療カバンをつかむと、俺と一緒に走り出した。




「名前は言えるかな?」

「みずしまみつる」

 満はゼイゼイとした呼吸の中から、絞り出すように名前を言った。

「よしよし。満君だね。どれ、見せてごらん」

 父さんは、ポケットの中で暖めた聴診器を取り出した。

 がらんとした部屋の中に、満の呼吸音が鳴り響いた。

 朔がじっと父さんの手元を見つめている。

「大きく息を吸って、吐いて。そう。上手だ」
 
 父さんはそう言うと、黒い鞄の中から、ちいさな機械のようなものを出した。

「ここに口をあてて、思いっきり吸ってごらん。すぐに楽になるよ」

 満は、言われたとおり、機械の先端を口に含み、思いっきり吸い込んだ。

 父さんは、古びたカーテンレールにS字フックをつり下げて、簡易の点滴台を作りはじめた。

 そこに透明な色の点滴をつり下げて、先端の針を弟の腕につなげた。

 唇が、みるみる内に赤くなっていく。

 さっきまでの荒々しい呼吸の音が、もう聞こえない。

 隣にいた朔が、大きく息を吐いた。

「お姉ちゃんかい?」

 父さんが聞くと、朔は、神妙な顔をして頷いた。

「満君の容態は、いつからこうなんだい?」

「昨日からひどく苦しがって、今日はもう、私が離れると泣いて、咳も、もっとひどくなっていって」

 朔の大きな目が、あふれるように潤んだ。

「大人の人は、いつ帰ってくるかな?」

「わかりません」

 はあ?

 俺は、思わず朔を見た。

「そうか。お母さんか、お父さんか、大人の人が最後に家にいたのはいつかな?」

「一昨日の夕方です」

 聞けば、叔母さんと三人で住んでいるらしい。

 叔母さんの仕事は不規則で、何日か留守にすることも多いと言うことだった。

「すみません。今お金がこれしかなくて」

 朔は、細い掌に小銭を乗せた。

「叔母が帰ってきたら、必ず残りをお支払いしますので、待っていただけますか?」

 父さんは、じっとその手の中のお金を見て、次に、朔の目をじっと見て、ゆっくり言った。

「そんなことは、気にしなくていいんだよ。子どもは、無料で医療を受けられるんだ」

「でも、それは保険証を持っている人だけでしょう? 区役所に電話して聞いたんです。手続きには、保険証が必要だって聞きました」

「そうか」

 そこまで聞くと、父さんは携帯電話を取り出した。

「外で電話をしてくるから、何か変わったことがあったらすぐ呼ぶんだよ」

 父さんは、怒ったような顔をしながら、外に出て行った。

 後に残された俺は、朔になんと声をかけて良いかわからず、黙って点滴の落ちるのを目で追っていた。

「ねえちゃん。友達?」

 少し楽になったのか、満が体を横にしながら朔に聞いた。

「そうだよ」

 困った顔をして答えない朔を飛び越えて、俺が答えた。

 でも、答えなくても良かったのかも知れない。

 満は、規則正しい寝息を立て始めていた。

「良かった。この子、昨日からずっと眠っていなかったの」

 そう言って点滴のつながっている腕を避けながら朔は、そっと弟の布団をかけ直した。

「そっか。よかったな」

 ビルの隙間をぬって、午後の柔らかな日差しが、窓から差し込んできた。

 朔は、自分の長い手足を折り曲げて、体育座りをしながら、ぽつりと言った。

「ありがとう」
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