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白い杖
白い杖を持つ人の話
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「邪魔なんだよ」
舌打ちしながらそう言われるのにも、もう慣れた。
会社員をしていた頃の自分だったら、朝の混み合う駅で、白い杖をもった人間が歩いていたら、舌打ちをしないまでも、イライラは、しただろう。
そして、会社の席についたら、そんな人間がいたのなんか忘れて、何食わぬ顔をして仕事をしていたのだろう。
まさか、自分がそちら側の人間になる日がくることなんて、思いもしなかった。
駅員の場内アナウンスが聞き取れないことが、こんなにも不便なことも。
人とぶつかると、あっという間に歩いていた方向がわからなくなってしまうことも。
何も知らなかった。
わたしは表情を変えないようにして、いつもの位置だと思われる場所に立った。
近くの男子高校生の騒ぎ声がうるさい。遅れてくる電車のアナウンスがよく聞き取れなかった。
アナウンスだけじゃない。今日は妻と娘が何の話をしているかもよくわからなかった。
音だけが、ガアガアと耳の奥に響いていた。
最近よく眠れないのも、聞き取りにくさの原因かもしれない。
今日は早く床につこう。
強い風が全身に吹き付けた。
辺りが一瞬静かになった。
遅れてきた電車が来たのだろう。
さっきの舌打ちした男の声が頭に響く。
わたしは、いそいで電車に乗り込もうとした。
「あぶない!」
杖の先が空を切るのと、上半身が引っ張られるのが同時だった。
「電車、まだ来てないですよ」
崩れた体制を立て直そうと引っ張られた腕をつかんだ。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
視覚障害者の転落事故のニュースが、頭をかすめた。
「T駅行きの電車ですよね。私も同じ電車なので、一緒に乗りましょう」
落ち着いた、でも若々しい声がわたしの頭の上の方から聞こえた。
かなり背が高い女性なのだろう。
「ひじ、どうぞ」
視覚障害者の誘導を知っているんだな。
わたしは軽い驚きを覚えながら、杖を握っていない方の左手を指し出した。
さらりとした髪の毛が一瞬手の甲をかすめた。
ひじの位置は高く、つかんだ腕は、ほとんど骨と皮だった。
電車が滑り込んできて、花のような匂いがあたりを包んだ。
「電車、来ましたよ」
良く通る声が辺りに響き渡る。
いつの間にか辺りの喧噪が気にならなくなっていた。
構内のアナウンスもよく聞こえる。
電車に乗り込むと、女性は、わたしの手を自分のひじから電車の手すり棒に自然に移してくれた。
「もう大丈夫。ありがとう」
わたしは軽く頭を下げながら言った。
「いいえ」
彼女はそう言ったまま、何も話しかけてこなかった。
ぶっきらぼうに聞こえたのかも知れない。
別な車両に移動したのか。
そう思ったとき、うっすらした花の香りが鼻孔をくすぐった。
側にいるのか。
落ち着かない気持ちで電車に乗っていると、降りる駅の名が車内に響き渡った。
わたしは曖昧に頭を下げてゆっくりと降りた。
「おはようございます」
「おはよう」
わたしは驚きを隠すように、声のする方を向きながら挨拶をした。
びっくりした。
大抵、ああいう出会いはその日限りになる。
「いい天気ですね。よかったら一緒に乗りませんか」
弾んだ声がそう言った。
次の日も。その次の日も。
仕事のある平日は、毎日彼女と一緒に電車に乗り込んだ。
彼女が中学生と知った時にはびっくりした。
「ずいぶん背が高いから、大人の人かと思ったんだ」
わたしは正直に言った。
「そうなんですよ。父も母も背が高かったから、きっと遺伝だろうと、弟とも話しをしていたんです」
両親のことを過去形で言ったのが引っかかったが、ホームで数分一緒になるおじさんが詮索するものではない。
わたしは黙ってうなづいた。
彼女が声をかけてくれるようになってから、ホームの喧噪が静かになったように感じた。
何となくよく眠れるからかもしれない。
話をしていると降りる駅を間違えてしまうことを心配しているのか、彼女は電車の中ではめったに話しかけてはこなかった。
降りるときも、何も言わないでいてくれた。
おかげで、集中力を分散させることなく、わたしは安全に、確実に降りることができた。
妻には、毎朝のホームの会話を逐一報告していた。
「何かお礼をしたいですねえ」
妻は、わたしが彼女の話しをするたびに、そう言った。
「いや。毎日声をかけなければと思わせるのも負担だろうから。それはいいよ」
わたしは、そう言った。
それでも、二人でどんな子なんだろうと想像して笑い合った。
友達と話しをしている様子はないから、どこか遠い私立の中学に通学しているのだろうか。
優秀なんだろうか。
優しい子だからきっと学校では人気者なんだろう。
一人娘はとうに大きくなり、こんなに妻と話しをするのは、子育てをしている時以来だった。
三ヶ月くらいは毎日会えたが、そのうち会えない日も続くようになっていった。
最初は、具合が悪いのだろうか。何か事故でもあったのだろうか。などと心配したが、二、三日経つと変わらない元気な声が聞こえてくるので、深く考えないことにした。
しょせんは通りすがりの声を掛け合う他人だ。
それでも、会えた日は心が明るくなった。
半年ほどして、彼女はぱたりと駅のホームに来なくなった。
連絡先を聞いておけば良かった。やはり妻に来てもらって、顔だけでもわかれば。
しばらく後悔したが、それも淡々と進む日常に溶けていった。
ホームはまたうるさくなり、私は以前よりもっと注意深く電車を待った。
ねえ。これお父さんのことじゃない?
ニュースを見ていた娘が、突然声を張り上げた。
街頭インタビューが流れているようだった。
「ああ、知ってますよ。あんまり綺麗な子だったから、駅でも目立っていました。それからモデルになって、ああ、やっぱり芸能人になったか。って思ってたら、次は王妃様でしょ。すごいですよね」
「毎日ホームで見かけてました。もちろん覚えていますよ。とんでもなく綺麗な子でしたから。目の見えない人に毎日話しかけていて、綺麗なだけじゃなくて優しい子なんだねって。ここらじゃ有名でしたよ」
王妃?
わたしは飲んでいたお茶を吹き出した。
娘と妻が、興奮しながら買い込んできた週刊誌を読み上げた。
13才でモデルデビュー。
パリコレの常連。フランスの有名デザイナーに見いだされ、ミューズとしてそのブランドの顔になる。
20才になった時に、日本でも屈指の難関大学の医学部に入り、モデルを続けながら医師を目指す。
24才でモデルを引退。
26才で医師免許をとったあと、国境なき医師団に入る。
紛争地域の医療に従事しながら、国境なき医師団の広報も担当し、積極的に世界の貧困と医療の不足について発信している。
ヨーロッパの小国 アドラ王国のレゾン・ド・コンシアンス・アドーラとは長年親交があり、先日婚約が発表されたばかりである。
かの国では、彼女の名を冠するレーベルと同じく、ジョワ(喜び)と呼ばれている。
どんな顔をしている?
のどがつかえてうまく声が出なかった。
この世のものとは思えないくらい綺麗な人よ。
娘はため息をつきながら言った。
彼女がいるときだけホームでの喧噪が遠のいた理由がわかった気がする。
周囲の人間は、その美しさにきっと息をのんだのだろう。
その高潔な行為とともに。
開け放した窓から、あたたかな風が花の匂いを運んで来た。
彼女に幸多きことを。
わたしはそっと祈った。
舌打ちしながらそう言われるのにも、もう慣れた。
会社員をしていた頃の自分だったら、朝の混み合う駅で、白い杖をもった人間が歩いていたら、舌打ちをしないまでも、イライラは、しただろう。
そして、会社の席についたら、そんな人間がいたのなんか忘れて、何食わぬ顔をして仕事をしていたのだろう。
まさか、自分がそちら側の人間になる日がくることなんて、思いもしなかった。
駅員の場内アナウンスが聞き取れないことが、こんなにも不便なことも。
人とぶつかると、あっという間に歩いていた方向がわからなくなってしまうことも。
何も知らなかった。
わたしは表情を変えないようにして、いつもの位置だと思われる場所に立った。
近くの男子高校生の騒ぎ声がうるさい。遅れてくる電車のアナウンスがよく聞き取れなかった。
アナウンスだけじゃない。今日は妻と娘が何の話をしているかもよくわからなかった。
音だけが、ガアガアと耳の奥に響いていた。
最近よく眠れないのも、聞き取りにくさの原因かもしれない。
今日は早く床につこう。
強い風が全身に吹き付けた。
辺りが一瞬静かになった。
遅れてきた電車が来たのだろう。
さっきの舌打ちした男の声が頭に響く。
わたしは、いそいで電車に乗り込もうとした。
「あぶない!」
杖の先が空を切るのと、上半身が引っ張られるのが同時だった。
「電車、まだ来てないですよ」
崩れた体制を立て直そうと引っ張られた腕をつかんだ。
「ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
視覚障害者の転落事故のニュースが、頭をかすめた。
「T駅行きの電車ですよね。私も同じ電車なので、一緒に乗りましょう」
落ち着いた、でも若々しい声がわたしの頭の上の方から聞こえた。
かなり背が高い女性なのだろう。
「ひじ、どうぞ」
視覚障害者の誘導を知っているんだな。
わたしは軽い驚きを覚えながら、杖を握っていない方の左手を指し出した。
さらりとした髪の毛が一瞬手の甲をかすめた。
ひじの位置は高く、つかんだ腕は、ほとんど骨と皮だった。
電車が滑り込んできて、花のような匂いがあたりを包んだ。
「電車、来ましたよ」
良く通る声が辺りに響き渡る。
いつの間にか辺りの喧噪が気にならなくなっていた。
構内のアナウンスもよく聞こえる。
電車に乗り込むと、女性は、わたしの手を自分のひじから電車の手すり棒に自然に移してくれた。
「もう大丈夫。ありがとう」
わたしは軽く頭を下げながら言った。
「いいえ」
彼女はそう言ったまま、何も話しかけてこなかった。
ぶっきらぼうに聞こえたのかも知れない。
別な車両に移動したのか。
そう思ったとき、うっすらした花の香りが鼻孔をくすぐった。
側にいるのか。
落ち着かない気持ちで電車に乗っていると、降りる駅の名が車内に響き渡った。
わたしは曖昧に頭を下げてゆっくりと降りた。
「おはようございます」
「おはよう」
わたしは驚きを隠すように、声のする方を向きながら挨拶をした。
びっくりした。
大抵、ああいう出会いはその日限りになる。
「いい天気ですね。よかったら一緒に乗りませんか」
弾んだ声がそう言った。
次の日も。その次の日も。
仕事のある平日は、毎日彼女と一緒に電車に乗り込んだ。
彼女が中学生と知った時にはびっくりした。
「ずいぶん背が高いから、大人の人かと思ったんだ」
わたしは正直に言った。
「そうなんですよ。父も母も背が高かったから、きっと遺伝だろうと、弟とも話しをしていたんです」
両親のことを過去形で言ったのが引っかかったが、ホームで数分一緒になるおじさんが詮索するものではない。
わたしは黙ってうなづいた。
彼女が声をかけてくれるようになってから、ホームの喧噪が静かになったように感じた。
何となくよく眠れるからかもしれない。
話をしていると降りる駅を間違えてしまうことを心配しているのか、彼女は電車の中ではめったに話しかけてはこなかった。
降りるときも、何も言わないでいてくれた。
おかげで、集中力を分散させることなく、わたしは安全に、確実に降りることができた。
妻には、毎朝のホームの会話を逐一報告していた。
「何かお礼をしたいですねえ」
妻は、わたしが彼女の話しをするたびに、そう言った。
「いや。毎日声をかけなければと思わせるのも負担だろうから。それはいいよ」
わたしは、そう言った。
それでも、二人でどんな子なんだろうと想像して笑い合った。
友達と話しをしている様子はないから、どこか遠い私立の中学に通学しているのだろうか。
優秀なんだろうか。
優しい子だからきっと学校では人気者なんだろう。
一人娘はとうに大きくなり、こんなに妻と話しをするのは、子育てをしている時以来だった。
三ヶ月くらいは毎日会えたが、そのうち会えない日も続くようになっていった。
最初は、具合が悪いのだろうか。何か事故でもあったのだろうか。などと心配したが、二、三日経つと変わらない元気な声が聞こえてくるので、深く考えないことにした。
しょせんは通りすがりの声を掛け合う他人だ。
それでも、会えた日は心が明るくなった。
半年ほどして、彼女はぱたりと駅のホームに来なくなった。
連絡先を聞いておけば良かった。やはり妻に来てもらって、顔だけでもわかれば。
しばらく後悔したが、それも淡々と進む日常に溶けていった。
ホームはまたうるさくなり、私は以前よりもっと注意深く電車を待った。
ねえ。これお父さんのことじゃない?
ニュースを見ていた娘が、突然声を張り上げた。
街頭インタビューが流れているようだった。
「ああ、知ってますよ。あんまり綺麗な子だったから、駅でも目立っていました。それからモデルになって、ああ、やっぱり芸能人になったか。って思ってたら、次は王妃様でしょ。すごいですよね」
「毎日ホームで見かけてました。もちろん覚えていますよ。とんでもなく綺麗な子でしたから。目の見えない人に毎日話しかけていて、綺麗なだけじゃなくて優しい子なんだねって。ここらじゃ有名でしたよ」
王妃?
わたしは飲んでいたお茶を吹き出した。
娘と妻が、興奮しながら買い込んできた週刊誌を読み上げた。
13才でモデルデビュー。
パリコレの常連。フランスの有名デザイナーに見いだされ、ミューズとしてそのブランドの顔になる。
20才になった時に、日本でも屈指の難関大学の医学部に入り、モデルを続けながら医師を目指す。
24才でモデルを引退。
26才で医師免許をとったあと、国境なき医師団に入る。
紛争地域の医療に従事しながら、国境なき医師団の広報も担当し、積極的に世界の貧困と医療の不足について発信している。
ヨーロッパの小国 アドラ王国のレゾン・ド・コンシアンス・アドーラとは長年親交があり、先日婚約が発表されたばかりである。
かの国では、彼女の名を冠するレーベルと同じく、ジョワ(喜び)と呼ばれている。
どんな顔をしている?
のどがつかえてうまく声が出なかった。
この世のものとは思えないくらい綺麗な人よ。
娘はため息をつきながら言った。
彼女がいるときだけホームでの喧噪が遠のいた理由がわかった気がする。
周囲の人間は、その美しさにきっと息をのんだのだろう。
その高潔な行為とともに。
開け放した窓から、あたたかな風が花の匂いを運んで来た。
彼女に幸多きことを。
わたしはそっと祈った。
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