神蛇の血

ぺんぎん

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紘子の浄化結界

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「あなた誰?」

 ひとしきり自分の身体を触ったり確かめたりする椎に、紘子はもう一度聞いた。

「は。申し遅れました。私は椎と申します。左大臣様の別邸の管理を任されておるものです」

「そう。あなたがそうなの。とても綺麗にしていてくれてありがとう」

 椎は、はっ。と頭を下げながら、泣きたいくらい嬉しく思った。

 この邸の管理は自分の仕事である。

 ただ、黙々と使われるあてのない邸を磨き上げる毎日が、報われた気がした。


 椎は、土にこすりつけんばかりに頭を下げた。

「ああ。そういうのはなしにしてよ。ほら。顔を上げて。わたしは大納言家の末よ。今日ここに泊まると使いは来ていなかったかしら?」

「はい。来ておりました。あの、姫君……大変失礼いたしました。あの……御供の女房様方はどちらに?」

 椎はキョロキョロとあたりを見回した。

「供の女房なんていないわよ。連れが二人いるんだけど、所用でね。後から来ると思うわ」

 大納言家の末姫の噂は、遠く宇治まで聞こえている。

 内親王の一人娘。

 呪われた血を持ち、頭にはツノが生えていると聞いていた。

 だが、 あんな体だった自分に触ってくれ、あまつさえ、呪いを解いてくれるとは。

 見目の美しさのみならず、心映えのすぐれた姫とは、このような姫をいうのだろう。

 ああ。だが、この姫の姿形の美しさ。

 椎は、息を止めた。

 身にまとう清浄な空気と凛とした声。

 顔は扇の中に隠さず、堂々と陽の下に出している。

 紅を刷いたような赤い唇は微笑みを絶やさず、黒い瞳の奥は面白そうに笑っていた。

 天女もかくやという出で立ちで、よくよく人の噂は当てにならないものだと、椎は思った。

「とにかく。ここら一帯で何が起こっているのか聞かせてよ。椎。そのために来たんだから」

「そのために……いらしてくださったのですか?」

「そうよ。洗いざらい話してもらうわよ」

 紘子は勢いよく立ち上がった。

「私達にも聞かせてくれないか?」

 いつ到着したのか、門の外には、泥にまみれた狩衣姿の二人の幼馴染が立っていた。

 今一人は片方の袖が破れている。

「忠義! 清灯! おかえりなさい」

「おう」

 二人が門をくぐり抜けたとたん、さらさらと砂が落ちるような音がした。

 不思議に思った忠義が振り返った。

 緑色のキラキラ光る何かが、門の外に落ちている。

「なんだこれ?」

 キラキラ光るものを確かめようと戻りかけた忠義を、清灯が止めた。

「触るな。ばか。障る」

「ばかって……」

「鱗が生えてきたって、俺は、とってはやらんぞ」

 清灯はぶっきらぼうに言った。

「お帰り二人とも。よしよし。水は飲んでないわね。でも、随分水に触ったわね」

 紘子が大きな桶に水をたっぷり汲んできて、柄杓を二人に渡した。

「姫君! その水はお飲みにならないほうが」

「あ、大丈夫よ。もう浄化したから」

 忠義はその返事を聞くか聞かないかの間に、柄杓からがぶがぶと水を飲んだ。

「うま――死ぬかと思った。喉カラカラだったんだよ」

「すまんな」

 清灯も紘子から柄杓を受け取った。

「浄化結界を張っていてくれて助かった。だいぶ障りがあったからな。どうやら奇病の発生源は水のようだな」

「そうみたいね」

「そうなのか?」

 紘子と忠義は同時に言った。

「そうよ。あなたたちの草履の裏とか、その衣とかにもびっしり鱗があったのよ。結界に入るときに、全部祓ったんじゃない?さっき門の外に落ちたキラキラ光るのは、鱗よ」

「うげ」

 忠義は慌てて草履の裏を見た。

「二人とも紹介するわ。ここの管理をしている椎よ。椎この二人がわたしの連れよ。しばらく迷惑かけるわ」

 椎が深々と頭を垂れた。

「とにかく、中で話しましょ。疲れたでしょ」

 紘子が邸内に入ろうとするのを忠義が止めた。

「清灯、コレ、どうすんだよ」

 忠義が、片袖を犠牲にした布袋を突き出した。

「何それ?」

 紘子が受け取った。

「ああ。死水の中で死にそうになっていた蛇だ。そのままにしておくのもなんだと、忠義が言ったからな」

 みやげだ。

 清灯が軽く頷いた。

 やれやれ。

 紘子が布袋を開ける。

 蛇だか泥だかわからない何かがぐったりと横たわっている。

 小さいけれど息はあった。

「忠義。遣り水の水を角盥にでも汲んできて。この桶いっぱいにも。椎。お白湯を母屋に運んでね」

「わかった」

 忠義は素直に頷いて、何往復かしながら、桶と角盥を清水でいっぱいにした。

 日の当たる簀子にそれを置くと、紘子は自分の長い髪を一本抜き取った。

 つややかな髪は、主の元を離れても、濡れたように黒光りしていた。

 紘子は細い指先でそれを器用に手繰り寄せ、小さな毬のようなものを作る。

 紘子の手のひらが一瞬輝いたかと思うと、髪の毛で作られた毬は黒水晶に変化した。

「なに? それ」

 きれいだな。

 忠義が、紘子の手のひらから受け取ったそれは、生き物のように温かかった。

「まあ、お守りみたいなものよ。あたしの身体は隅々まで例の守りの「力」が入っているからね。そんじょそこらの護符より効くよ。随分弱ってるみたいだからね。ここの水も土もまだ安定してないから使えないの」

 普段なら必要ないものなんだけどね。

「へえ。便利だな。僕にもおくれよ」

「そんなにしょっちゅう他人にあげてたら、あたしの髪はあっという間に鬘になっちゃうじゃない! あんたには必要ないわよ。しょっちゅう変なものに好かれて、加護だのなんだのもらってるんだから。いいから早くそれを角盥に入れてよ」

 一番変なものは、この二人なんじゃないだろうか。

 忠義の胸によぎった疑問符は、あながち間違ってはいないだろう。

 へいへい。

 忠義は、ぽちゃりと黒水晶を角盥の中に入れた。

 水面が揺れた。

 紘子は桶から水を汲み、泥だらけの蛇にちょろちょろとかけ、きれいにしてから黒水晶が入った角盥に蛇の身体を沈めた。

「よし。と。一日もあれば復活するでしょ」

 角盥を廊の隅にある日陰に移動し、紘子は椎から出された手拭いで手を拭いた。

「お白湯の用意もできております。どうぞみなさまお入りください」

「ありがと」

「白湯はあとででもいい。椎。聞かせてもらおうか」

 清灯がイライラした様子で円座に座った。

「はい」

 椎は深く頭を下げ、今までのいきさつを話し始めた。
 

 

 
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