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紘子到着
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椎は再びため息をつき、水をくむ手を止めた。
日は高かったが、池があったところの水は光る影もない。
池は母の笑顔と共に、地中深く埋められてしまっている。
「……母上」
つぶやいて、ふと見ると遠くに牛車が見えた。
左大臣家の長子、大納言様の末姫様が到着したらしい。
どうしようか。
帰るよう忠告した方がいいのだろうか。
しかし、先日の使者のように、忠告する前に逃げられてしまうかもしれない。
牛車はぐんぐん邸に近づいてくる。
考える間もなく、椎は前栽の陰に隠れた。
「姫様。着きました」
車副が牛を止め、ほとほとと車を叩いた。
紘子は、はっと我に返った。
慌てて牛車の前簾を引き上げた。
湿った濃い空気が、車中にむっと入り込んでくる。
「邸の中に声をかけているのですが、どうやら誰もいないようなのです」
足踏み台を用意しながら、車副は不思議そうに首を傾げた。
「そう? 変ね。左大臣のおじい様から、邸の方へ連絡しておくって聞いたのだけれど……まあいいわ。あなたは牛を休ませておいて。とにかく中に入ってみるから」
紘子は車から邸内に飛び移った。
左大臣家の宇治別荘は広かった。
他の貴族の別荘から少し離れているためか、昔から、院や宮家が忍んで訪れたという。
なまめかしい秘密を隠している邸も、恋愛問題からほど遠い紘子にとっては、ろくすっぽ使いもしない邸の維持費だけが気になる話だった。
「本当に手入れが良いこと。年に一度使うか使わないかの邸にかける労力じゃないわね」
おじい様の話では、半年は使われていないということだった。
その割に、邸内は蜘蛛の巣ひとつ張っておらず、床は磨き上げられて黒光りしていた。
大雨の後だというのに、庭には見苦しい流木一つ、雑草一つ生えていない。
玉砂利は美しく整えられ、敷き詰められ、庭の中央を走る遣り水だけが、濁った水をたたえながら流れていた。
「ずいぶん働き者の家司だこと。うちに欲しいな」
先日の大雨でやられた大納言家の庭を思い出し、紘子は本気でつぶやいた。
暗い邸内の奥にも、人っ子一人いなかった。
だが、几帳も御簾も、いつ人が来ても良いような室礼に仕上がっている。
こんなにも働き者の家司が出迎えにも来ないなんて、どう考えてもおかしかった。
母屋のがらんとした部屋には、深い森の濃密な空気だけが横たわっていた。
必要なのは、掃除ではなく、結界と浄化か。
「強めに祓っておいた方が無難かな?」
邸の真ん中に、紘子は歩みを進めた。
ついっと着ていた小袿の裾をさばくと、庭の方を見据えた。
御簾は開け放たれており、遠く、なだらかな山々が霞みがかって見えている。
紘子は息を静かに吸い込んだ。
足の裏がじんわりと温かくなっていく。
人の耳では聞き取ることのできない発音が形の良い唇にのぼる。
印を結んだ掌の間から、透き通った丸い玉が現れる。
ウズラの卵ほどの大きさのそれは、紘子の声に呼応するように、大きく膨らんでいく。
玉の内部には、水のようなものが溢れ、薄青色に染まりはじめた。
紘子の長い髪が、玉の中に溢れる水の動きに合わせるかのように、ゆらゆらと空中に広がっていく。
玉は紘子の身体を包み込み、天井も貫き、建物全体をその玉の中に入れ込んでいく。
庭の土もさらい、半円状のドームのようになった玉は、邸内を余すことなくその中に収めた。
紘子の声がひときわ高く上がった。
それは合図。
軽い衝撃とともに、玉がはじけ飛んだ。
中に溜まっていた水が、滝のように流れ落ちていった。
それは一瞬の出来事。
水は紘子の足元に留まることもなく、あっという間に霧散した。
後に残ったのは、一筋の髪も濡れていない紘子と邸だけだった。
濃密な空気は流れ去り、濁った小川はちろちとと快い音をたてて流れていた。
「ふむ。少しは綺麗になったかしら?」
紘子は思いっきり深呼吸した。
その時だった。
牛の嘶きが静寂を破った。
紘子は牛繋ぎのところへ急いだ。
鼻息の荒い牛が、前足をせわしなく動かし、落ち着かない様子で嘶いている。
左大臣家からいただいたご自慢の黒毛牛の耳の周りに、蛇の鱗のようなものが生えていた。
牛は嘶きながら大きく前足を振り上げた。
「危ない!」
呆然としている車副をかばうように、近くの前栽に隠れていた椎が、飛び出してきた。
椎と車副はもつれながら土に転がった。
椎が慌てて起き上がり、這うように車副から離れた。
車副が椎を助け起こそうと手を出した。
「触るな!」
椎がさらに後ずさった。
「触るな……こうなるぞ!」
紘子は椎を見た。
顔は形も分からない程緑の鱗で覆われ、目は薄緑色の粘膜で覆われている。指も腕も緑の鱗がびっしりと生え、かろうじて人間とわかったのは、二足歩行をしているからだった。
「あなたは?」
紘子が車副と椎の間に入った。
椎は答えず、さらに後ずさった。
「待って」
紘子が手を伸ばした。
「やめろ! お前もこうなるんだ!」
止める声よりも早く、紘子の手が、椎の腕を掴んだ。
ざらりとした感触に、紘子の肌が泡立つ。
振りほどこうとした椎の腕は、紘子につかまれたままびくとも動かない。
「なにを……」
椎が言い終わらないうちに、紘子が掴む手の先から椎の鱗が剥がれ落ちていく。
「大丈夫。大丈夫」
紘子は子供に言い聞かせるように呟いた。
紘子の細い指がそっと椎の頬に触れた。
椎は反射的に目をつぶった。
椎の耳に、聞いたことのない音が聞こえてくる。
一定のリズムを持つその音が、椎のまわりを優しく包んだ。
柔らかな手が椎の頬を包み込んだ。
その温かさに、椎は息を止めた。
閉じた瞼にすべらかな指が触れる。
重かった体が軽くなったのは一瞬。
冷たい水にはじかれた気がした。
「もう大丈夫。目を開けて」
紘子に言われるまま椎は目を開けた。
久しぶりに見るはっきりとした世界で、目の前にいたのは、この世のものとは思えないほどの美しい姫だった。
「ほら。大丈夫でしょ?」
紘子は、自分を凝視したまま動かない椎を、もどかしそうに見て、椎の手をとり目の前に差し出した。
椎の目が見開いた。
「治ってる……まさか」
椎は何度も何度も自分の頬を触った。
日は高かったが、池があったところの水は光る影もない。
池は母の笑顔と共に、地中深く埋められてしまっている。
「……母上」
つぶやいて、ふと見ると遠くに牛車が見えた。
左大臣家の長子、大納言様の末姫様が到着したらしい。
どうしようか。
帰るよう忠告した方がいいのだろうか。
しかし、先日の使者のように、忠告する前に逃げられてしまうかもしれない。
牛車はぐんぐん邸に近づいてくる。
考える間もなく、椎は前栽の陰に隠れた。
「姫様。着きました」
車副が牛を止め、ほとほとと車を叩いた。
紘子は、はっと我に返った。
慌てて牛車の前簾を引き上げた。
湿った濃い空気が、車中にむっと入り込んでくる。
「邸の中に声をかけているのですが、どうやら誰もいないようなのです」
足踏み台を用意しながら、車副は不思議そうに首を傾げた。
「そう? 変ね。左大臣のおじい様から、邸の方へ連絡しておくって聞いたのだけれど……まあいいわ。あなたは牛を休ませておいて。とにかく中に入ってみるから」
紘子は車から邸内に飛び移った。
左大臣家の宇治別荘は広かった。
他の貴族の別荘から少し離れているためか、昔から、院や宮家が忍んで訪れたという。
なまめかしい秘密を隠している邸も、恋愛問題からほど遠い紘子にとっては、ろくすっぽ使いもしない邸の維持費だけが気になる話だった。
「本当に手入れが良いこと。年に一度使うか使わないかの邸にかける労力じゃないわね」
おじい様の話では、半年は使われていないということだった。
その割に、邸内は蜘蛛の巣ひとつ張っておらず、床は磨き上げられて黒光りしていた。
大雨の後だというのに、庭には見苦しい流木一つ、雑草一つ生えていない。
玉砂利は美しく整えられ、敷き詰められ、庭の中央を走る遣り水だけが、濁った水をたたえながら流れていた。
「ずいぶん働き者の家司だこと。うちに欲しいな」
先日の大雨でやられた大納言家の庭を思い出し、紘子は本気でつぶやいた。
暗い邸内の奥にも、人っ子一人いなかった。
だが、几帳も御簾も、いつ人が来ても良いような室礼に仕上がっている。
こんなにも働き者の家司が出迎えにも来ないなんて、どう考えてもおかしかった。
母屋のがらんとした部屋には、深い森の濃密な空気だけが横たわっていた。
必要なのは、掃除ではなく、結界と浄化か。
「強めに祓っておいた方が無難かな?」
邸の真ん中に、紘子は歩みを進めた。
ついっと着ていた小袿の裾をさばくと、庭の方を見据えた。
御簾は開け放たれており、遠く、なだらかな山々が霞みがかって見えている。
紘子は息を静かに吸い込んだ。
足の裏がじんわりと温かくなっていく。
人の耳では聞き取ることのできない発音が形の良い唇にのぼる。
印を結んだ掌の間から、透き通った丸い玉が現れる。
ウズラの卵ほどの大きさのそれは、紘子の声に呼応するように、大きく膨らんでいく。
玉の内部には、水のようなものが溢れ、薄青色に染まりはじめた。
紘子の長い髪が、玉の中に溢れる水の動きに合わせるかのように、ゆらゆらと空中に広がっていく。
玉は紘子の身体を包み込み、天井も貫き、建物全体をその玉の中に入れ込んでいく。
庭の土もさらい、半円状のドームのようになった玉は、邸内を余すことなくその中に収めた。
紘子の声がひときわ高く上がった。
それは合図。
軽い衝撃とともに、玉がはじけ飛んだ。
中に溜まっていた水が、滝のように流れ落ちていった。
それは一瞬の出来事。
水は紘子の足元に留まることもなく、あっという間に霧散した。
後に残ったのは、一筋の髪も濡れていない紘子と邸だけだった。
濃密な空気は流れ去り、濁った小川はちろちとと快い音をたてて流れていた。
「ふむ。少しは綺麗になったかしら?」
紘子は思いっきり深呼吸した。
その時だった。
牛の嘶きが静寂を破った。
紘子は牛繋ぎのところへ急いだ。
鼻息の荒い牛が、前足をせわしなく動かし、落ち着かない様子で嘶いている。
左大臣家からいただいたご自慢の黒毛牛の耳の周りに、蛇の鱗のようなものが生えていた。
牛は嘶きながら大きく前足を振り上げた。
「危ない!」
呆然としている車副をかばうように、近くの前栽に隠れていた椎が、飛び出してきた。
椎と車副はもつれながら土に転がった。
椎が慌てて起き上がり、這うように車副から離れた。
車副が椎を助け起こそうと手を出した。
「触るな!」
椎がさらに後ずさった。
「触るな……こうなるぞ!」
紘子は椎を見た。
顔は形も分からない程緑の鱗で覆われ、目は薄緑色の粘膜で覆われている。指も腕も緑の鱗がびっしりと生え、かろうじて人間とわかったのは、二足歩行をしているからだった。
「あなたは?」
紘子が車副と椎の間に入った。
椎は答えず、さらに後ずさった。
「待って」
紘子が手を伸ばした。
「やめろ! お前もこうなるんだ!」
止める声よりも早く、紘子の手が、椎の腕を掴んだ。
ざらりとした感触に、紘子の肌が泡立つ。
振りほどこうとした椎の腕は、紘子につかまれたままびくとも動かない。
「なにを……」
椎が言い終わらないうちに、紘子が掴む手の先から椎の鱗が剥がれ落ちていく。
「大丈夫。大丈夫」
紘子は子供に言い聞かせるように呟いた。
紘子の細い指がそっと椎の頬に触れた。
椎は反射的に目をつぶった。
椎の耳に、聞いたことのない音が聞こえてくる。
一定のリズムを持つその音が、椎のまわりを優しく包んだ。
柔らかな手が椎の頬を包み込んだ。
その温かさに、椎は息を止めた。
閉じた瞼にすべらかな指が触れる。
重かった体が軽くなったのは一瞬。
冷たい水にはじかれた気がした。
「もう大丈夫。目を開けて」
紘子に言われるまま椎は目を開けた。
久しぶりに見るはっきりとした世界で、目の前にいたのは、この世のものとは思えないほどの美しい姫だった。
「ほら。大丈夫でしょ?」
紘子は、自分を凝視したまま動かない椎を、もどかしそうに見て、椎の手をとり目の前に差し出した。
椎の目が見開いた。
「治ってる……まさか」
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