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左大臣家の別荘
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山科から宇治にかけては、多くの寺院とともに、貴族の別邸が数多く建てられていた。
左大臣家の宇治別荘は、喜撰山と大蜂山の中間の場所に、ひときわ壮麗に設えられていた。
その別荘に、男が一人、忙しそうに立ち働いていた。
年に一度、使用するかしないかの別荘だが、手を抜いて管理するような男ではない。
誰かが思い立って急に訪れてもいいように、薪はきっちりとつまれ、掃除は部屋の隅々に行き届いていた。
男の名を椎と言った。
左大臣家の宇治別荘を管理する家司だった。
何日か前、左大臣家の末姫が来ると使者が来ていた。
予定通りであれば、今日あたり到着するはずだった。
ほうっ
椎の口からため息が漏れた。
別荘の裏手にある畑には先日の大雨にも負けず、大根や青菜の葉が、しっかりと天に向かって伸びていた。
支流の川から流されてきた木材は綺麗に取り除かれ、一か所に集められ乾かされている。
庭の中心を流れる遣り水は、未だ濁っているものの、庭の持つ美しさは椎の手で補修され、整えられていた。
蔀は開け放たれ、部屋の中には気持ちの良い風が吹き込んでいた。
準備は万端だった。
整っていないのは、心と体だった。
椎の肌はびっしりと緑色の鱗に覆われ、何かに触れるたびにカサカサと不快な音がした。
言葉を話し、二足歩行をしなければ、人には見えないのかもしれない。
明らかに異形のモノだった。
先日、都の左大臣家から来た使者に、今はこの地に来るべきではないと伝えて欲しいと、意を決して姿を現した。
使者は腰を抜かしたまま這うように逃げて行った。
左大臣家には伝わっただろうか。
椎は、玄関の掃除の手を止め、ぼんやりと門の外を眺めた。
奇病が発生してから、もう、幾日立ったか。
今、この宇治は、人の行き来が止まっている。
悪い噂は千里を駆けるというが、交通、観光の要所であったこの地から、瞬く間に人が消えた。
こういう時の商人の変わり身の早さに、椎は、腹が立つより、関心していた。
鱗が生えていく、永遠とも思える長い時間、村は陸の孤島となっていた。
その村の中で、椎は同じ村人達からも避けられ、孤立していた。
鱗が皮膚に現れたのは、いつのことだったか。
村人のそれより早い時期だった。
村人達は皆、椎がこの奇病の原因であると決めつけていた。
椎はもう、何日も誰とも口をきいていなかった。
椎は独りだった。
たった一人の家族である母は、一番最初に椎を虐げた。
すべての原因は自分の息子にあるかとのように振舞い、言いふらした。
――昔はあんな母ではなかった。
優しく、強く、何があっても、ただ一人、味方になってくれた母だった。
変わったのは……そう。弟が死んでから。
母がことのほかかわいがっていた弟が、足を滑らせて、村はずれの池に落ちたのは三年前のことだった。
小さな池だったが、弟の命を奪うには、十分な深さがあった。
その日以来、母は働くのをやめた。
日がな一日池に通いつめ、弟の姿を探した。
母を食べさせるため、椎は親戚の伝手を頼って、左大臣家に勤めはじめた。
前任者は、仕事にあまり熱心ではなく、別荘は、邸も庭も荒れ放題だった。
椎は、垣根を直し、屋根を葺き、柱や床を毎日念入りに磨いた。
遣り水のどぶさらい、庭の雑草抜き、四季折々の山菜の塩漬け作り。
仕事はあふれ、椎の働きのおかげで、邸は、建てられた当時の輝きを取り戻した。
家に帰れば弟を探す母の声が夜半過ぎまで聞こえる。
最初は同情と共感を持って聞けた母の嘆きが、日を追うごとに耳障りになっていったのは何故だろう。
自分よりも弟をかわいがっていた母。
自分の存在が母にとっていかほどのものなのだろうか。
椎は聞くのが怖かった。
だんだんと家に帰らなくなり、職場である左大臣家の別荘に泊まることが多くなっていった日々。
あれは、宇治上神社でお祭りがあった日のことだった。
久しぶりに家に帰ると、泥だらけの母が玄関にうずくまっていた。
どうしたのかと問うと、鍬でひっかけたと、足から血を流していた。
傷の手当てをしながら、椎は母が畑仕事を再開したのかと思い、喜んだ。
だが、畑仕事などではなかった。
母の様子が変だという親戚の忠告を無視できず、ある日椎はでかける母の後をつけた。
久しぶりに太陽の光の下で見る母は、もう、椎の知っている母ではなかった。
火の気のない暗い家の中では気が付かなかったが、櫛けずらない母の髪は逆立ち、目は赤く充血し、何かにとりつかれたような切羽詰まった顔をしていた。
この池さえなければ。
母はうわごとのように呟きながら、来る日も来る日も弟の命を奪った池に土を運んでいた。
父が生前耕し、母が守ってきた畑の土は、そっくりそのまま池を埋め立てるために使われていた。
池は姿を変えていた。
穏やかな、細く小さな流れは堰き止められ、美しかった池はぶよぶよした湿地へと変化していた。
カゲロウが飛ぶ水面の影も、小さな魚やゲンゴロウが泳ぐ姿もどこにもなかった。
弟の、結局引き揚げられなかった遺体とともに、小さな命はみな、母の耕した畑の土に覆われ、沈められていた。
母は、この広く深い沼を埋めるために、いったいどれほどの労力と時間を使ったのだろう。
椎の心にどす黒い何かが広がっていった。
母の愛情を死んでもなお、独り占めする弟が羨ましかった。
どうしても振り向いてくれない母を憎く思った。
見ていられなくて、走ってその場を離れた。
走って、走って、気が付くと左大臣家の別荘にたどり着いていた。
家に帰りたくないのなら、ここに帰るしかなかった。
一段高くなっている別荘の門から、今来た道を振り返った。
ここから見える、きらきらした光る池の水が消えたのは、いつの頃のことだったのだろう。
思い出せもしなかった。
左大臣家の宇治別荘は、喜撰山と大蜂山の中間の場所に、ひときわ壮麗に設えられていた。
その別荘に、男が一人、忙しそうに立ち働いていた。
年に一度、使用するかしないかの別荘だが、手を抜いて管理するような男ではない。
誰かが思い立って急に訪れてもいいように、薪はきっちりとつまれ、掃除は部屋の隅々に行き届いていた。
男の名を椎と言った。
左大臣家の宇治別荘を管理する家司だった。
何日か前、左大臣家の末姫が来ると使者が来ていた。
予定通りであれば、今日あたり到着するはずだった。
ほうっ
椎の口からため息が漏れた。
別荘の裏手にある畑には先日の大雨にも負けず、大根や青菜の葉が、しっかりと天に向かって伸びていた。
支流の川から流されてきた木材は綺麗に取り除かれ、一か所に集められ乾かされている。
庭の中心を流れる遣り水は、未だ濁っているものの、庭の持つ美しさは椎の手で補修され、整えられていた。
蔀は開け放たれ、部屋の中には気持ちの良い風が吹き込んでいた。
準備は万端だった。
整っていないのは、心と体だった。
椎の肌はびっしりと緑色の鱗に覆われ、何かに触れるたびにカサカサと不快な音がした。
言葉を話し、二足歩行をしなければ、人には見えないのかもしれない。
明らかに異形のモノだった。
先日、都の左大臣家から来た使者に、今はこの地に来るべきではないと伝えて欲しいと、意を決して姿を現した。
使者は腰を抜かしたまま這うように逃げて行った。
左大臣家には伝わっただろうか。
椎は、玄関の掃除の手を止め、ぼんやりと門の外を眺めた。
奇病が発生してから、もう、幾日立ったか。
今、この宇治は、人の行き来が止まっている。
悪い噂は千里を駆けるというが、交通、観光の要所であったこの地から、瞬く間に人が消えた。
こういう時の商人の変わり身の早さに、椎は、腹が立つより、関心していた。
鱗が生えていく、永遠とも思える長い時間、村は陸の孤島となっていた。
その村の中で、椎は同じ村人達からも避けられ、孤立していた。
鱗が皮膚に現れたのは、いつのことだったか。
村人のそれより早い時期だった。
村人達は皆、椎がこの奇病の原因であると決めつけていた。
椎はもう、何日も誰とも口をきいていなかった。
椎は独りだった。
たった一人の家族である母は、一番最初に椎を虐げた。
すべての原因は自分の息子にあるかとのように振舞い、言いふらした。
――昔はあんな母ではなかった。
優しく、強く、何があっても、ただ一人、味方になってくれた母だった。
変わったのは……そう。弟が死んでから。
母がことのほかかわいがっていた弟が、足を滑らせて、村はずれの池に落ちたのは三年前のことだった。
小さな池だったが、弟の命を奪うには、十分な深さがあった。
その日以来、母は働くのをやめた。
日がな一日池に通いつめ、弟の姿を探した。
母を食べさせるため、椎は親戚の伝手を頼って、左大臣家に勤めはじめた。
前任者は、仕事にあまり熱心ではなく、別荘は、邸も庭も荒れ放題だった。
椎は、垣根を直し、屋根を葺き、柱や床を毎日念入りに磨いた。
遣り水のどぶさらい、庭の雑草抜き、四季折々の山菜の塩漬け作り。
仕事はあふれ、椎の働きのおかげで、邸は、建てられた当時の輝きを取り戻した。
家に帰れば弟を探す母の声が夜半過ぎまで聞こえる。
最初は同情と共感を持って聞けた母の嘆きが、日を追うごとに耳障りになっていったのは何故だろう。
自分よりも弟をかわいがっていた母。
自分の存在が母にとっていかほどのものなのだろうか。
椎は聞くのが怖かった。
だんだんと家に帰らなくなり、職場である左大臣家の別荘に泊まることが多くなっていった日々。
あれは、宇治上神社でお祭りがあった日のことだった。
久しぶりに家に帰ると、泥だらけの母が玄関にうずくまっていた。
どうしたのかと問うと、鍬でひっかけたと、足から血を流していた。
傷の手当てをしながら、椎は母が畑仕事を再開したのかと思い、喜んだ。
だが、畑仕事などではなかった。
母の様子が変だという親戚の忠告を無視できず、ある日椎はでかける母の後をつけた。
久しぶりに太陽の光の下で見る母は、もう、椎の知っている母ではなかった。
火の気のない暗い家の中では気が付かなかったが、櫛けずらない母の髪は逆立ち、目は赤く充血し、何かにとりつかれたような切羽詰まった顔をしていた。
この池さえなければ。
母はうわごとのように呟きながら、来る日も来る日も弟の命を奪った池に土を運んでいた。
父が生前耕し、母が守ってきた畑の土は、そっくりそのまま池を埋め立てるために使われていた。
池は姿を変えていた。
穏やかな、細く小さな流れは堰き止められ、美しかった池はぶよぶよした湿地へと変化していた。
カゲロウが飛ぶ水面の影も、小さな魚やゲンゴロウが泳ぐ姿もどこにもなかった。
弟の、結局引き揚げられなかった遺体とともに、小さな命はみな、母の耕した畑の土に覆われ、沈められていた。
母は、この広く深い沼を埋めるために、いったいどれほどの労力と時間を使ったのだろう。
椎の心にどす黒い何かが広がっていった。
母の愛情を死んでもなお、独り占めする弟が羨ましかった。
どうしても振り向いてくれない母を憎く思った。
見ていられなくて、走ってその場を離れた。
走って、走って、気が付くと左大臣家の別荘にたどり着いていた。
家に帰りたくないのなら、ここに帰るしかなかった。
一段高くなっている別荘の門から、今来た道を振り返った。
ここから見える、きらきらした光る池の水が消えたのは、いつの頃のことだったのだろう。
思い出せもしなかった。
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