神蛇の血

ぺんぎん

文字の大きさ
上 下
13 / 22

左大臣家の別荘

しおりを挟む
 山科から宇治にかけては、多くの寺院とともに、貴族の別邸が数多く建てられていた。

 左大臣家の宇治別荘は、喜撰山と大蜂山の中間の場所に、ひときわ壮麗に設えられていた。

 その別荘に、男が一人、忙しそうに立ち働いていた。

 年に一度、使用するかしないかの別荘だが、手を抜いて管理するような男ではない。

 誰かが思い立って急に訪れてもいいように、薪はきっちりとつまれ、掃除は部屋の隅々に行き届いていた。

 男の名を椎と言った。

 左大臣家の宇治別荘を管理する家司だった。

 何日か前、左大臣家の末姫が来ると使者が来ていた。

 予定通りであれば、今日あたり到着するはずだった。

 ほうっ

 椎の口からため息が漏れた。

 別荘の裏手にある畑には先日の大雨にも負けず、大根や青菜の葉が、しっかりと天に向かって伸びていた。

 支流の川から流されてきた木材は綺麗に取り除かれ、一か所に集められ乾かされている。

 庭の中心を流れる遣り水は、未だ濁っているものの、庭の持つ美しさは椎の手で補修され、整えられていた。

 蔀は開け放たれ、部屋の中には気持ちの良い風が吹き込んでいた。

 準備は万端だった。

 整っていないのは、心と体だった。

 椎の肌はびっしりと緑色の鱗に覆われ、何かに触れるたびにカサカサと不快な音がした。

 言葉を話し、二足歩行をしなければ、人には見えないのかもしれない。

 明らかに異形のモノだった。

 先日、都の左大臣家から来た使者に、今はこの地に来るべきではないと伝えて欲しいと、意を決して姿を現した。

 使者は腰を抜かしたまま這うように逃げて行った。

 左大臣家には伝わっただろうか。

 椎は、玄関の掃除の手を止め、ぼんやりと門の外を眺めた。

 奇病が発生してから、もう、幾日立ったか。

 今、この宇治は、人の行き来が止まっている。

 悪い噂は千里を駆けるというが、交通、観光の要所であったこの地から、瞬く間に人が消えた。

 こういう時の商人の変わり身の早さに、椎は、腹が立つより、関心していた。

 鱗が生えていく、永遠とも思える長い時間、村は陸の孤島となっていた。

 その村の中で、椎は同じ村人達からも避けられ、孤立していた。

 鱗が皮膚に現れたのは、いつのことだったか。

 村人のそれより早い時期だった。

 村人達は皆、椎がこの奇病の原因であると決めつけていた。

 椎はもう、何日も誰とも口をきいていなかった。

 椎は独りだった。

 たった一人の家族である母は、一番最初に椎を虐げた。

 すべての原因は自分の息子にあるかとのように振舞い、言いふらした。

 ――昔はあんな母ではなかった。

 優しく、強く、何があっても、ただ一人、味方になってくれた母だった。

 変わったのは……そう。弟が死んでから。

 母がことのほかかわいがっていた弟が、足を滑らせて、村はずれの池に落ちたのは三年前のことだった。

 小さな池だったが、弟の命を奪うには、十分な深さがあった。

 その日以来、母は働くのをやめた。

 日がな一日池に通いつめ、弟の姿を探した。

 母を食べさせるため、椎は親戚の伝手を頼って、左大臣家に勤めはじめた。

 前任者は、仕事にあまり熱心ではなく、別荘は、邸も庭も荒れ放題だった。

 椎は、垣根を直し、屋根を葺き、柱や床を毎日念入りに磨いた。

 遣り水のどぶさらい、庭の雑草抜き、四季折々の山菜の塩漬け作り。

 仕事はあふれ、椎の働きのおかげで、邸は、建てられた当時の輝きを取り戻した。

 家に帰れば弟を探す母の声が夜半過ぎまで聞こえる。

 最初は同情と共感を持って聞けた母の嘆きが、日を追うごとに耳障りになっていったのは何故だろう。

 自分よりも弟をかわいがっていた母。

 自分の存在が母にとっていかほどのものなのだろうか。

 椎は聞くのが怖かった。

 だんだんと家に帰らなくなり、職場である左大臣家の別荘に泊まることが多くなっていった日々。

 あれは、宇治上神社でお祭りがあった日のことだった。

 久しぶりに家に帰ると、泥だらけの母が玄関にうずくまっていた。

 どうしたのかと問うと、鍬でひっかけたと、足から血を流していた。

 傷の手当てをしながら、椎は母が畑仕事を再開したのかと思い、喜んだ。

 だが、畑仕事などではなかった。

 母の様子が変だという親戚の忠告を無視できず、ある日椎はでかける母の後をつけた。

 久しぶりに太陽の光の下で見る母は、もう、椎の知っている母ではなかった。

 火の気のない暗い家の中では気が付かなかったが、櫛けずらない母の髪は逆立ち、目は赤く充血し、何かにとりつかれたような切羽詰まった顔をしていた。

 この池さえなければ。

 母はうわごとのように呟きながら、来る日も来る日も弟の命を奪った池に土を運んでいた。

 父が生前耕し、母が守ってきた畑の土は、そっくりそのまま池を埋め立てるために使われていた。

 池は姿を変えていた。

 穏やかな、細く小さな流れは堰き止められ、美しかった池はぶよぶよした湿地へと変化していた。

 カゲロウが飛ぶ水面の影も、小さな魚やゲンゴロウが泳ぐ姿もどこにもなかった。

 弟の、結局引き揚げられなかった遺体とともに、小さな命はみな、母の耕した畑の土に覆われ、沈められていた。

 母は、この広く深い沼を埋めるために、いったいどれほどの労力と時間を使ったのだろう。

 椎の心にどす黒い何かが広がっていった。

 母の愛情を死んでもなお、独り占めする弟が羨ましかった。

 どうしても振り向いてくれない母を憎く思った。

 見ていられなくて、走ってその場を離れた。

 走って、走って、気が付くと左大臣家の別荘にたどり着いていた。

 家に帰りたくないのなら、ここに帰るしかなかった。

 一段高くなっている別荘の門から、今来た道を振り返った。

 ここから見える、きらきらした光る池の水が消えたのは、いつの頃のことだったのだろう。

 思い出せもしなかった。

 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

蛇神様 ――藤本サクヤ創作フォークロア #1

藤本 サクヤ
歴史・時代
むかし、むかし――。あの山にも、この川にも、歴史に埋もれた物語(フォークロア)が息づいている。 創作フォークロアシリーズ(予定…!)第一弾は、とある村に伝わる一途な恋の物語。 先日、山形県の出羽三山を旅しながら心に浮かんだお話を、昔話仕立てにしてみました。 まだまだ未熟者ですが、楽しんでいただけたら幸いです! もしも気に入っていただけたなら、超短編「黒羽織」、長編「大江戸の朝、君と駆ける」もぜひ一度、ご賞味くださいませ^^

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

姫は盤上に立つ

ねむるこ
キャラ文芸
【腹黒い地味姫と腹黒い美青年文官】 腹黒タッグで宮中に潜む『化け物』を狩ることはできるのか。 平安時代風ファンタジー。 舞台は帝が治める陽ノ国(ひのくに)の宮中。 名は霞(かすみ)。帝の第一妃、菖蒲(あやめ)姫に仕える女房だ。 菖蒲のことを上手く利用し、帝の第一妃に置くことに成功。 ある目的のために確かな地位を手に入れた霞は……宮中で人気の美青年文官、楓(かえで)に目をつけられてしまう。 楓も何やら探っていることがあるらしく、2人は手を組むことに。 切れ者同士、協力関係が築けるかと思いきや……。 2人には大きな難点が。 それは……2人とも性格が腹黒かった!! 霞は一族の仇であり、宮中の権力者に手をかけていく『化け物』を狩ることができるのか。 ※カクヨムでも公開しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

選ばれた花嫁は蛇神の求愛を受ける

麻麻(あさあさ)
恋愛
ー少女は蛇神と婚約するー すももは中流の没落貴族。 仲つまじく家は果実を育てて食べていたが村を間伐が襲う。 そんな時に村長の命令ですももが生贄というかたちで蛇神に嫁ぐ事になる。 輿入れで男達に襲われそうになったすももを助けてくれたのは銀の髪をなびかせた自称「すももの婿」蛇神でー。 ※これは他サイトに載せていた作品です。 異類婚で十数話くらいのものです。 異類婚、のじゃ神様が出てきます(^^) お好きな方はお気に入りやコメントもらえると嬉しいです(o^^o)

処理中です...