飛行機から落ちたら引きこもり王子を外に出す羽目になりました

ぺんぎん

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夏至前一日~黒の森~

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 放牧はまだ暗いうちから始める。

 榛の木村もこの国も、牧畜の基本はかわらない。

 うー。忌々しいくらい眠い。

 羊牛の鳴き声はどんどん大きくなってくる。
 
 あたしはのろのろと体を起こした。
 
 寝不足で体が妙にだるい。
 
 あたしは備え付けのブラシで髪をすくと、すやすや寝ているレイを見た。

 トネリコネリのせいで金髪になった髪は朝日に輝いて、美術の教科書に載っていた宗教画の天使のようだった。

「レイ、起きてよ。先に下に行ってるよ」

 あたしは天使の布団を叩いた。

「うー」

 レイがしぶしぶ起きた。

 どうやら、一人になりたくないらしい。

 ふらふらしながらも急いで服を着込んでいる。

 引きこもりだったんじゃないのか?きみは。



 ミールのおかみさんに朝ご飯のパンと水を持たせてもらうと、冷え込む空気の中で羊牛を囲いから出した。

 羊牛は嘶きながらわれ先にと朝日に照らされた草原に小走りで出て行った。

 あたし達はその後をあわてて追いかけた。

「黒の森には入るなよ」

 水を汲んでいたヤックが昨日と同じことを言って笑顔で送り出してくれた。

 昨日の夜のこともあり、何となく、あたしはレイの顔を見ることができなかった。

 レイは全く気にしてないかのように、私の傍を楽しそうに歩いている。

 昨日風呂に入った効果は抜群だった。

 無造作に縛られた金髪と、端正な横顔は、文句なく観賞用の顔だった。

 時折、羊牛のしっぽを引っ張っては、迷惑そうに振り返る羊牛を見て、屈託なく笑った。

 わかっている。彼は悪くない。

 育ってきた環境が、常識が違うだけなのだ。

 あたしは手近にいた羊牛の毛にやみくもにブラシをかけた。

 ふわっふわのもこっもこになった毛の中に埋もれると、太陽の匂いがした。

 羊牛のあたたかい体温がじんわりと伝わる。お腹から聞こえる低い鳴き声が、耳にくぐもって聞こえた。

 あたしはほっと息を吐き出した。

 牧草地の向こうに横たわる黒の森から徐々に朝日が昇ってくる。

 黒の森は昨日よりも不気味に見えなかった。

 本当に怖いものは別にあることを、あたしは知っている。




 しばらくレイと離れて無心で羊牛のブラシをかけ続けた。

 この作業も慣れるとカタルシスがあるものだ。
 
 突然、一頭の羊牛が嘶いた。

 羊牛の中でも特に大きな一頭だった。

 後ろ足で立ち上がった羊牛は、3m近い高さがある。その顔の周りには黒いハチの群れがたかっていた。

 あっという間に群れが崩れた。

「しまった」

 どこかの茂みにあったハチの巣を、つついてしまったんだろう。

「落ち着いて!大丈夫だから!」

 あたしは興奮している羊牛にゆっくりと近づいた。

 鼻息が聞こえるほどの距離まで来た時、あたしに気づいた羊牛が、一気に駆け出した。

 ハチの対処法としては、想定内だったが、その駆け出す方向が想定外だった。

 大きな羊牛はまっすぐ黒の森に向かって走っていく。

「大変!」

 羊牛は吸い込まれるように黒の森の中に消えた。

 自分の子供と一緒だと言っていたあの夫婦の大切な羊牛をほっとくわけにはいかない。

「ユキ!そっちは森だよ!だめだよ!ユキ!」

 あたしを止めるレイの声が聞こえたが、足は止まらなかった。

 草がどんどん長く伸びている。このままだと羊牛を見失ってしまう。

 あたしは必死で追いかけた。

 一瞬、何も見えなくなった。

 密集した木が光を遮っていて、むっとした土と葉の濃い匂いが、急に肺の奥まで入ってきた。

 森の中は大雪が降った日の朝みたいに静かだった。

 音が全て木々の間に吸い込まれているようだ。
 
 目の端に羊牛が木の間をすり抜けながら走って行くのが見えた。

「お願い。止まって」

 声が聞こえたわけではないだろうが、遠くで羊牛が歩みを止めたようだった。

 もこもこもこもこ。短い脚を踏みしめながら、羊牛の鼻息が辺りにこだまする。

「よしよし。怖かったわね。そのままでいるのよ」

 あたしはつぶきながら、そうっと後ろから近付いていった。もう少し。

「ユキ!」

 森にレイの怒ったような声が響き渡った。

「レイ!」

 私の声がスタートのピストルだった。

 羊牛は悲鳴のような声をあげて再び走り出した。普段あんなにのんびり動いているのに、偶蹄目はいざという時、ものすごく機敏になる。

「ユキ、待って!」

「待てない!連れ帰んなきゃ」

 レイが止めるのを再び無視して、羊牛を追いかけた。

「羊牛!待って」

 前を走っていたはずの羊牛の白い影が急に消えた。木々の間にうっすら光が見える。

 森の奥に進むに連れて、大きな木の他に、背丈の低い植物が増えてきて、ほとんど前が見えない。

 低い木を両手でかき分けながら、前に進んだ。

「もう。どこにいるのよ」

 深い緑色の葉をかき分けた瞬間、視界が一気に開けた。

 まぶしくて何も見えない。一歩、二歩……踏み出したら、足元にあったはずの大地がふっとなくなった。

 目の前に切り立った崖が現れる。レイに首根っこを捕まれてなかったら羊牛と同じく、崖の下に真っ逆さまに落ちていっただろう。

「……なんか。何度もごめんね」

 ぶらぶらと体は揺れるまま、顔だけみあげた。

「ほんとにね!僕、なんでこんなことばかりしてんの?」

 レイの顔が真っ赤に染まった。「ごめん。ごめん」と言いながら、細い彼の腕を両手でつかんで何とか崖の上に戻った。

 あたし達は、肩で息をしながら、木の根元に座り込んだ。女の子の声が聞こえたのはその時だった。

「助けて!泳げないのよ!」

 切り立った崖の底にあるコバルトブルーの湖の中に、濡れたせいか、体の大きさが半分になってみえる羊牛が水音も高らかに泳いでいた。そのすぐ横で、女の子が右手をあげて叫んでいる。

「助けて!足がとられてるの!」

「ロープをおろしたから、そこにつかまれ!」

 声がした方を見ると、近くの崖の上に男の人が二人いた。

 女の子を心配そうに見下ろしている。降ろされたロープは空しく湖面に浮かんでいた。泳げない女の子には酷な距離だ。

「なにやってんのよ。泳げない子にロープだけわたしてもしょうがないでしょ!」

 考えるより前に体が動いた。

 彼らのところに走りながらおかみさんから借りた服を勢いよく脱いだ。

 唖然としている彼らのロープをつかんで引き揚げる。

 湖にせり出た木の枝にロープをひっかけると、崖から離れた女の子を助けるにはいい距離になった。

 あたしは、手早く腰にロープを巻き付けながら言った。

「あんたたち、あたしがあげてって言ったら、あげるのよ。いい?死ぬ気でロープ、もってなさいよ!」

「待て!ユキ!」

 切羽詰まったレイの声が聞こえた時にはもう地を蹴っていた。

「今日はもう落ちないはずだったんだけどねーー」

 大声でそういいながら、落ちていく。

 湖は思ったより透明度が高く、深かった。

 飛び込んですぐ後悔した。

 水面の下では、緑色の長い髪をもつ、身長50cmくらいの小さな人間のような生き物が、溺れている女の子を水底に引きずり込もうとしていた。

 生き物はあたしの登場に心底驚いた顔をした。

 あたしはその隙をついて、持っていたロープを女の子の胸にくくりつけ、あらん限りの力で水面に引き上げた。

「あげて!」
 
 男三人。必死の力をふりしぼったんだろう。あたしと女の子と小さな生き物の、三人が一気に釣れた。

 女の子の足にひっついている生き物の指の間には透明な水かきが見えた。

 髪と同じ色の緑色の顔の真横にくりくりと丸く開いた瞳孔と銀色の目がついている。魚眼だ。

 鋭い歯は女の子の足をがぶりと噛んだ。赤い血が湖の中に滴り落ちていった。

 あたしはその生き物を蹴落とそうとしたが、女の子の足に深く歯が食い込んでいて、離れない。

 あたしは懸命に足を動かした。

 次の瞬間、ロープをくくりつけていた枝が折れ、弾みで崖壁に激突した。

「ぎゃうっ」

 小さな魚人間の厚い唇から聞いたことのない声が漏れた。

 その拍子に魚人間は湖に落ちていった。

「はやく!はやくあげて!」

 ぐったりとして反応のない女の子を背中から抱きしめながらあたしは必死で言い続けた。

 ゆっくりとだが、確実に湖から離れていく。

 あたしはほっとして下を見た。

 落ちた羊牛が水面に首だけだしていた。

 先ほどの緑色の魚人間がさらに集まってきており、羊牛の周りを大きな藻が取り囲んでいるようだった。

 羊牛は荒い鼻息を出しながら鳴きもせず静かに水の中に消えていった。

 あたしたちの足元には何本もの水かきのある手が誘うように湖から突き出ている。

 今度落ちたら絶対に助からない。

 心底ぞっとした瞬間、太い節くれ立った手があたしの腕をつかんだ。

「よくやった」

 大人の男の人だった。青い目に涙をためている。

 あたしはようやく力を抜いた。

「ユ、ユキ……何やってんだよ!ここがどこだと思ってんの。黒の森なんだよ。この湖はルサールヤの巣窟なんだよ!あいつら湖に落ちてくるもの、なんでも食べるんだよ。ユ……ぼ、僕、今ほとんど『力』使えないって言ったよね!何かあったらどうすんだよ。ユキの命は僕のものなんだよ。僕に何かあった時は、命かけて助ける契約したよね?ねえ、ほんとに何で僕、こんなに何回も君の事助けちゃうのかなあ。教えてくれる?」

 レイが肩で息をしながら、思いっきり叫んだ。

 無謀なのは確かだったし、心配してくれたのはわかったので、ユキの命は僕のモノ云々は置いといて、とりあえずあやまっておく。

「……あの……ごめんね。知らなかったんだよ……ルサールヤって言うの。あの、魚のお化けみたいなの。そういうの、早く行ってよね」

 こんな綺麗な湖に、脳みそつまったピラニアみたいな危ない生き物がいるとは、思わないじゃない。

「マリー、マリー、ローズマリー、しっかりしろ」

 二人の男が助けた女の子の頬をぺちぺち叩いている。ぐったりした女の子の腕や足からは血が流れていた。

「カイ。やばいよ。マリー、目をあけないよ。水飲ませたらどうかなあ」

 不安そうに小さな男の子が言った。

 カイと呼ばれたあたしを引き上げてくれた背の高い男の人が、無言で女の子の呼吸を確かめると慣れた手つきでおもむろに胸を押した。

 ほどなく、女の子が水を吐きながらせきこんだ。

「マリーわかるか」

「カイ……」

「そうだ」

 男の人はほっとした顔で女の子の体を抱きしめた。

 女の子は紫の唇を振るわせながら、カチカチと歯を鳴らしている。

「着替え、何かない?あんたたち、後ろ向いて脱いで!レイも!」

「え?」

「早く!」

 あたしは抱きしめている男の人から女の子を奪い取ると、急いで女の子が着ている服を脱がした。

 素直に後ろ向いて脱ぎ始めた男たちの服をかき集めて、乾いた服に着替えさせる。

「何か、服か毛布ない?」

「ある。とってくる」

 カイと呼ばれた背の高い男の人がはじけるように走りだした。

 しばらくすると、暖かそうな茶色い毛布を手に持ってきた。

 女の子をくるくるとその毛布で巻くと、青白い顔にほんのり赤みが差してきた。

「ユキも着替えて」

 レイがあたしの服を集めてきてくれた。

「ありがとう」

 レイが苦虫をつぶしたみたいな顔をしたので、また「言ってはいけないその言葉」を言ってしまったことに気がついた。
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読んでくださって、お気に入りに入れてくださって本当にありがとうございました。毎日励みになりました。暑いのでお身体くれぐれも大事になさってください。
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