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夏至前六日(一)
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「何よそれっ。ユキ!あんたの母さん、勝手すぎ。相変わらず過ぎて言葉もないわっ。あんたも行くことないわよ!」
人気のない昇降口に照美の声が響いた。
「ありがと。」
あたしは力なく微笑んだ。
「……あーもー。ユキはいっつもそうなんだから」
やれやれ。という顔で照美は完璧なカーブを描いた眉をひそめた。
「そうって?」
「自分の気持ちよりお母さんを優先するってとこ」
そうかも。あたしは言葉につまった。
「今回は、兄の兵役明けのお祝いもかねてるから……兄さんにも全然会ってないし」
「まあねえ……小学校入る前だったけ。お国に帰ったの。あんときは村の女がこぞって泣いてたわよね。え、それから会ってないの?一度も?」
あたしは頷いた。
兄さんが帰ってこないだけじゃない。
母さんだって一度もアバダンに帰っていない。
家族全員が揃うのは、本当に久しぶりだった。
「兄貴がいたなんて知らなかった」
照美の傍にいた泰治の顔が急に近くなった。
あたしの声が小さいのと、泰治の背が高いのを合わせると、結果、泰治がかがむことになる。
「泰治は途中から転校してきたもんね。有名だったんだよ。ユキのお兄さん。めちゃめちゃかっこよくて。ね、ユキ」
照美はふわふわの茶色の髪を片手で膨らませながら言った。
「……そうかなあ?」
兄さんの顔はともかくとして、とにかく性格がひどかった。
家族じゃなかったら絶対にお近づきになりたくない。
「ふうん……ま、しょうがないんじゃね?早く帰ってこいよ」
泰治はそう言うとあたしの頭にその大きな手を乗せた。
あたしの心臓が喉のあたりまででかかった。
泰治は、あたしの循環器系の体内大移動も知らずに「帰ってきたらお祝いしようぜ」と能天気に言った。
「じゃな」
泰治は片手をあげると、試験期間中に繰り広げられている草サッカーに走り出していった。
「……泰治ってばかだよね……」
照美は、泰治が触ったあたしの髪を見ながら言った。
「……そうだね」
あたしは心臓を元の位置に戻しながらあいまいに答えた。
「まあ、しょうがない。行っといで。あんた初めてじゃない?家族に誕生日祝ってもらうの。よかったじゃん」
あたしは自分の耳が熱くなるのを感じた。照美に、子供じみた希望を見透かされたのが恥ずかしかった。
「お土産買ってくるね」
「楽しみにしてる」
「アバダンって何が名産だったかな」
あとで兄さんに聞こうか。
「アバダンってどこにあるの?」
照美は持っていたスマホの画面をスクロールした。
「え、太平洋の真ん中にない?」
「あるよ。ハビヤーン大陸の真ん中でしょ。あるけど、真っ白よ」
照美のスマホに映し出された地図には、国の名前が書いてあるだけだった。
「う……そうなんだよね」
あたしは言葉に詰まった。
母さんの故郷、アバダン王国は、地球の歩き方どころか、外務省の海外安全ホームページにすらのっていない。
どこの国とも国交を結んでおらず、国連にも加盟していない。
それでも、高度な軍事力と政治力で他国を圧倒し、独立国として認められている希有な国だ。
昨日、母さんにパスポートがないんだけど。と言ったら、いらないと言われた。
それで、どうやって飛行機が飛んでいるのかわからない。
どうやって、母さんが日本に住み続けていられるのかも。
そのことについては、ちょっと怖くて考えないようにしている。
アバダン王国が世界史に登場するのは、戦争の時だけだ。
その戦いの残虐性は他国を圧倒し、アバダンから生きて戻った兵士は一人もいないと言われている。
ただ、アバダンは、厳格な永世中立国で、世界大戦の時、スイスは中立のテーブルを用意したけど、アバダンはそれすらしなかった。
徹底的に自国は守るが、戦いはしかけない。
その精神のせいか、戦い方のせいか、大陸ハビヤーンの他の国々は、アバダンを神の王国と呼び、冷酷無比なアバダン人を神の使いと恐れていた。
奴隷制が敷かれているとか、人権が侵害されているとか、アバダンについては、まことしやかに噂されているけど、本当のところは誰も知らない。
何人ものジャーナリストがアバダンに入国を試みているけど、たいてい失敗に終わるか、消息を絶っている。
彼らは、まさかアバダン人が、日本の山奥、人間の数よりはるかに牛の数のほうが多い榛の木村なんかに生息しているとは思うまい。
一ミリも愛くるしさはないけれど、母さんはパンダより希少生物だった。
「まあ、でも、今、兄さんがアバダンに住んでいるんだし、飛行機も飛んでいるみたいだし、母親の生まれた国だからね……一応、言葉も喋れるし、行ったら何とかなるんじゃないかな。」
「え、知らなかった。ユキってバイリンガルなの?……の割に英語の成績悪くない?」
「英語とアバダン語は文法から何から全然違うんだよー」
あたしはよよと泣き崩れた。
「バイリンガルって言っても、母親が、家ではアバダン語以外で話そうとしないから喋れるだけで、読み書きはあやしいし。そもそもアバダン語喋れても何も得なことないんだよ。日本語と一緒。アバダン以外でアバダン語を使う国がないから、アバダンに行かなきゃ使わない。さらに、アバダンは鎖国しているから、将来役に立つこともないんだよ」
「そうか。」
照美は心底気の毒そうにあたしを見た。
「まあとにかく、早く帰ってくるんだよ。泰治とすずおばさんとあんたの誕生日の準備をして待っているからね」
「……てるみー。絶対すぐ帰るよー」
泣きつくあたしの頭をよしよしと撫でながら、照美はにんまり笑った。
「まあ、お土産とか気にしないで。あんたの兄さんの写真とか送ってくれたらいいから。」
あたしの記憶では、照美と兄さんは仲良くない。
どちらかというと犬猿の仲だった。
コミュニケーションの化け物みたいな照美が兄さんにだけはその能力を発揮しなかったので、変に覚えていた。
それなのに写真だって?
「いまだに、女が集まればあんたの兄さんの話題は出るからね。さぞかし成長なさっているでしょうよ」
美少女がうひひと笑った。
転売する気だな。
あたしはこめかみ辺りが急に痛くなった。
「佐藤!すぐ来いって言っただろー」
廊下の向こうから大きな声が照美を呼んだ。
「あ、まさやん先生に呼ばれてたんだった」
照美はしまったという顔をした。
「山田は明日英語だろ!早く帰って勉強しろ」
その瞬間、昇降口にいた生徒全員にあたしの不得意教科がばれた。個人情報保護法が聞いて呆れる。
あたしたちは顔を見合わせた。
「明日も試験だし、まさやん先生もああ言ってるし、ユキは先帰ってて」
照美はそう言うと、足早に職員室の方に向かっていった。
校庭からは楽しそうな泰治の笑い声が聞こえてくる。
あたしは母親に置いてかれた子供のような気分になって、埃っぽい昇降口を後にした。
一人で帰る道は静かだった。
夏至が近いせいで日は長く、牧場がつくるなだらかな稜線は、重なり合って青い空にくっきりと浮かんで見えた。
遠くから牛の鳴き声が絶え間なく聞こえ、砂利道の間からは、雑草が勢いよく生えていた。
崩れかけた牛舎の向こうには、古びた家が建っている。
ここ何年かで榛の木村の人口減少は加速しており、空き家はもう珍しくない風景になっている。
村の人達は誰もかれもが働き者で、家の手入れはきっちりするので、人が住んでいない家は嫌に目立っていた。
人の手が入っていない荒れた庭では、うるさいくらい虫が鳴いている。
二階の窓は割れていて、日に焼けたカーテンが風に膨らんでいた。
あたしは後ろめたい気持ちで荒れたその家を見上げた。
まだ小学校に上がる前のことだ。
あたしはこの家に住んでいた男の子にいじめられていた。
そいつは、あたしの何が気に入らないのか、からかい、髪を引っ張り、いつも仲間はずれにした。
体が大きくて、乱暴で、でも、人を従わせる何かを持っていた。
みんな、口ではなんと言っても、彼の言動をつねに意識した。
この狭い田舎の子どもにとって、仲間はずれは人生の崖っぷちに立たされるのと同じことだった。
あたしは毎日必死で戦った。
でも、そいつは強くて、したたかで、意地悪で、小さくて泣き虫なあたしは、まるで歯が立たなかった。
その年の梅雨は長かった。
雨は毎日降ったりやんだりを繰り返し、道路には大きな水たまりがいくつもあった。
その日は、その男の子のいじめがいつもよりしつこくて、あたしは水たまりの中に何度も転ばされ、泥まみれで泣きながら家に帰った。
いつも森の中をふらふらしている兄さんが、その日はめずらしく、家にいた。
兄さんはあたしを見ると、無言で抱き上げ、風呂場に連れて行った。
泥だらけだったあたしの足をシャワーで洗い流すと、痛みも傷も、嘘のように消えていた。
あたしはしゃっくりをあげながら、今日会ったことを全部話した。
兄さんはあたしの話をじっと聞いていた。
その時の兄さんの目を、あたしは忘れない。
母よりもずっと濃い紫の瞳の奥に、見落としようがない狂気があった。
兄さんは湯気のたつミルクの入ったコップをあたしの手に握らせると、黙って家から出ていった。
それからしばらくして、気がつくとその男の子の一家が村からいなくなっていた。
一家が住んでいた家はいつのまにか空き家になっており、急にいなくなった家族を、村の人たちは最初からいなかったように受け入れていた。
この田舎で、誰にも何も告げずに家族ごと目の前から消えたのに、誰もそのことを不思議に思っていなかった。
ヒロだ。ヒロがやったんだ。
あたしは、ケガをしたあの日の兄さんの、あの紫の目が何度も頭に浮かんでは消えた。
兄さんの名前はヒロと言う。
生粋のアバダン人で、もう覚えていないが、本名はえらく長かった気がする。
あたしと兄さんは半分だけ血がつながっている。
母さんが、あたしの父さんと出会って、夫とその子どもを忘れた。母さんはそのまま自分の国に一度も帰ることなく、私を産んだ。
あたしの父さんはあたしが生まれてすぐ死んだけど、あたしが生まれたことで、兄さんの家族は修復不可能になった。
兄さんは、母さんが去って、暴力を振るうようになった自分の父親から、逃げるように母さんの元に来たと聞いている。
真相はどうだかわからない。
あたしは、兄さんが母さんの育児放棄を見かねて、帰るに帰れなかったのだと思っている。
お腹が空いたときご飯をくれたのも、母さんが物を投げたとき体を張って守ってくれたのも兄さんだった。
学校に行く年齢だったと思うけど、村の学校には行っていなかった。
村で不登校児は珍しかった。
彫りの深い顔立ちと濃い紫の目、透き通るような白い肌をした兄さんは、ベンガルトラが放し飼いで歩いているぐらい目立っていた。
村の女の子もおばさんも、みんな兄さんと話したがったけれど、兄さんのコミュニケーション能力は控えめに言ってもボルボックス以下、単細胞生物がゆるーくひとつの集合体をつくる程度だから、ほとんど意思疎通ができない。
女の子たちがどんなに騒いでも叫んでも、彼は無視するか、ボウフラの浮き沈みを見ているみたいな冷めた目で見ていた。
その傲慢な性格のせいか外見のせいか、榛の木村にちっともなじもうとしない態度のせいか、多分その全部だったと思うけど、差別も区別もひどかった。
兄さんは意に介さなかったけど、つねに不機嫌そうに生きていた。
兄さんにとっては、村の人達の態度うんぬんより、アバダンから離れて日本に、榛の木村に住んでいることそのものが、苦痛だったのだと思う。
兄さんは、アバダン人であることに誇りを持っていた。
生きていくのに大事な、拠り所というやつだ。
兄さんの話す低く流れるようなアバダン語は歌を聴いているかのように耳に心地よく、兄さんが語るアバダンの自然や生活は夢のように美しかった。
あたしは寝る前によくアバダンの話をせがんだ。
食べ物の話が特に好きだった。
あふれるくらいの蜂蜜を入れた糖蜜パン、色鮮やかな果物が焼き込んである甘いパイ、味の濃い野菜を煮込んだクリームシチュー。それらを作る家つき妖精ブラウニーの茶色い小さな手。
そんなおとぎ話を聞きながら、暖炉の前でうとうとした。
兄さんの菫色の瞳が細く笑うと、あたしはすぐに眠りに落ちた。
朝起きるとなぜか必ずベッドの中にいて、あたしはいつも不思議に思っていた。
小さい頃は、昼間もほとんど離れず過ごした。
兄さんは大抵、あたしたち子どもが遊んでいる側の草むらか大きな木の陰で、昼寝をするか寝転がって本を読んでいた。
夕方五時になると、村に流れるチャイムに急き立てられるように帰る子供の群れの中から、あたしだけを拾い上げ、二人で手をつないで帰った。
たまに一人で遊びに出かけて、帰りが遅くなると、すごい形相で玄関の階段で待ち伏せしていた。
赤ちゃんの時から自分で育てたせいか、責任感からか、あたしに対しての独占欲がとても強く、あたしは兄さんの閉鎖性がしんどかった。
でも、兄さんがいないと生きていけないこともよく知っていた。
小さい頃のあたしは、彼の機嫌を損ねないように細心の注意を払って生きていた。
人気のない昇降口に照美の声が響いた。
「ありがと。」
あたしは力なく微笑んだ。
「……あーもー。ユキはいっつもそうなんだから」
やれやれ。という顔で照美は完璧なカーブを描いた眉をひそめた。
「そうって?」
「自分の気持ちよりお母さんを優先するってとこ」
そうかも。あたしは言葉につまった。
「今回は、兄の兵役明けのお祝いもかねてるから……兄さんにも全然会ってないし」
「まあねえ……小学校入る前だったけ。お国に帰ったの。あんときは村の女がこぞって泣いてたわよね。え、それから会ってないの?一度も?」
あたしは頷いた。
兄さんが帰ってこないだけじゃない。
母さんだって一度もアバダンに帰っていない。
家族全員が揃うのは、本当に久しぶりだった。
「兄貴がいたなんて知らなかった」
照美の傍にいた泰治の顔が急に近くなった。
あたしの声が小さいのと、泰治の背が高いのを合わせると、結果、泰治がかがむことになる。
「泰治は途中から転校してきたもんね。有名だったんだよ。ユキのお兄さん。めちゃめちゃかっこよくて。ね、ユキ」
照美はふわふわの茶色の髪を片手で膨らませながら言った。
「……そうかなあ?」
兄さんの顔はともかくとして、とにかく性格がひどかった。
家族じゃなかったら絶対にお近づきになりたくない。
「ふうん……ま、しょうがないんじゃね?早く帰ってこいよ」
泰治はそう言うとあたしの頭にその大きな手を乗せた。
あたしの心臓が喉のあたりまででかかった。
泰治は、あたしの循環器系の体内大移動も知らずに「帰ってきたらお祝いしようぜ」と能天気に言った。
「じゃな」
泰治は片手をあげると、試験期間中に繰り広げられている草サッカーに走り出していった。
「……泰治ってばかだよね……」
照美は、泰治が触ったあたしの髪を見ながら言った。
「……そうだね」
あたしは心臓を元の位置に戻しながらあいまいに答えた。
「まあ、しょうがない。行っといで。あんた初めてじゃない?家族に誕生日祝ってもらうの。よかったじゃん」
あたしは自分の耳が熱くなるのを感じた。照美に、子供じみた希望を見透かされたのが恥ずかしかった。
「お土産買ってくるね」
「楽しみにしてる」
「アバダンって何が名産だったかな」
あとで兄さんに聞こうか。
「アバダンってどこにあるの?」
照美は持っていたスマホの画面をスクロールした。
「え、太平洋の真ん中にない?」
「あるよ。ハビヤーン大陸の真ん中でしょ。あるけど、真っ白よ」
照美のスマホに映し出された地図には、国の名前が書いてあるだけだった。
「う……そうなんだよね」
あたしは言葉に詰まった。
母さんの故郷、アバダン王国は、地球の歩き方どころか、外務省の海外安全ホームページにすらのっていない。
どこの国とも国交を結んでおらず、国連にも加盟していない。
それでも、高度な軍事力と政治力で他国を圧倒し、独立国として認められている希有な国だ。
昨日、母さんにパスポートがないんだけど。と言ったら、いらないと言われた。
それで、どうやって飛行機が飛んでいるのかわからない。
どうやって、母さんが日本に住み続けていられるのかも。
そのことについては、ちょっと怖くて考えないようにしている。
アバダン王国が世界史に登場するのは、戦争の時だけだ。
その戦いの残虐性は他国を圧倒し、アバダンから生きて戻った兵士は一人もいないと言われている。
ただ、アバダンは、厳格な永世中立国で、世界大戦の時、スイスは中立のテーブルを用意したけど、アバダンはそれすらしなかった。
徹底的に自国は守るが、戦いはしかけない。
その精神のせいか、戦い方のせいか、大陸ハビヤーンの他の国々は、アバダンを神の王国と呼び、冷酷無比なアバダン人を神の使いと恐れていた。
奴隷制が敷かれているとか、人権が侵害されているとか、アバダンについては、まことしやかに噂されているけど、本当のところは誰も知らない。
何人ものジャーナリストがアバダンに入国を試みているけど、たいてい失敗に終わるか、消息を絶っている。
彼らは、まさかアバダン人が、日本の山奥、人間の数よりはるかに牛の数のほうが多い榛の木村なんかに生息しているとは思うまい。
一ミリも愛くるしさはないけれど、母さんはパンダより希少生物だった。
「まあ、でも、今、兄さんがアバダンに住んでいるんだし、飛行機も飛んでいるみたいだし、母親の生まれた国だからね……一応、言葉も喋れるし、行ったら何とかなるんじゃないかな。」
「え、知らなかった。ユキってバイリンガルなの?……の割に英語の成績悪くない?」
「英語とアバダン語は文法から何から全然違うんだよー」
あたしはよよと泣き崩れた。
「バイリンガルって言っても、母親が、家ではアバダン語以外で話そうとしないから喋れるだけで、読み書きはあやしいし。そもそもアバダン語喋れても何も得なことないんだよ。日本語と一緒。アバダン以外でアバダン語を使う国がないから、アバダンに行かなきゃ使わない。さらに、アバダンは鎖国しているから、将来役に立つこともないんだよ」
「そうか。」
照美は心底気の毒そうにあたしを見た。
「まあとにかく、早く帰ってくるんだよ。泰治とすずおばさんとあんたの誕生日の準備をして待っているからね」
「……てるみー。絶対すぐ帰るよー」
泣きつくあたしの頭をよしよしと撫でながら、照美はにんまり笑った。
「まあ、お土産とか気にしないで。あんたの兄さんの写真とか送ってくれたらいいから。」
あたしの記憶では、照美と兄さんは仲良くない。
どちらかというと犬猿の仲だった。
コミュニケーションの化け物みたいな照美が兄さんにだけはその能力を発揮しなかったので、変に覚えていた。
それなのに写真だって?
「いまだに、女が集まればあんたの兄さんの話題は出るからね。さぞかし成長なさっているでしょうよ」
美少女がうひひと笑った。
転売する気だな。
あたしはこめかみ辺りが急に痛くなった。
「佐藤!すぐ来いって言っただろー」
廊下の向こうから大きな声が照美を呼んだ。
「あ、まさやん先生に呼ばれてたんだった」
照美はしまったという顔をした。
「山田は明日英語だろ!早く帰って勉強しろ」
その瞬間、昇降口にいた生徒全員にあたしの不得意教科がばれた。個人情報保護法が聞いて呆れる。
あたしたちは顔を見合わせた。
「明日も試験だし、まさやん先生もああ言ってるし、ユキは先帰ってて」
照美はそう言うと、足早に職員室の方に向かっていった。
校庭からは楽しそうな泰治の笑い声が聞こえてくる。
あたしは母親に置いてかれた子供のような気分になって、埃っぽい昇降口を後にした。
一人で帰る道は静かだった。
夏至が近いせいで日は長く、牧場がつくるなだらかな稜線は、重なり合って青い空にくっきりと浮かんで見えた。
遠くから牛の鳴き声が絶え間なく聞こえ、砂利道の間からは、雑草が勢いよく生えていた。
崩れかけた牛舎の向こうには、古びた家が建っている。
ここ何年かで榛の木村の人口減少は加速しており、空き家はもう珍しくない風景になっている。
村の人達は誰もかれもが働き者で、家の手入れはきっちりするので、人が住んでいない家は嫌に目立っていた。
人の手が入っていない荒れた庭では、うるさいくらい虫が鳴いている。
二階の窓は割れていて、日に焼けたカーテンが風に膨らんでいた。
あたしは後ろめたい気持ちで荒れたその家を見上げた。
まだ小学校に上がる前のことだ。
あたしはこの家に住んでいた男の子にいじめられていた。
そいつは、あたしの何が気に入らないのか、からかい、髪を引っ張り、いつも仲間はずれにした。
体が大きくて、乱暴で、でも、人を従わせる何かを持っていた。
みんな、口ではなんと言っても、彼の言動をつねに意識した。
この狭い田舎の子どもにとって、仲間はずれは人生の崖っぷちに立たされるのと同じことだった。
あたしは毎日必死で戦った。
でも、そいつは強くて、したたかで、意地悪で、小さくて泣き虫なあたしは、まるで歯が立たなかった。
その年の梅雨は長かった。
雨は毎日降ったりやんだりを繰り返し、道路には大きな水たまりがいくつもあった。
その日は、その男の子のいじめがいつもよりしつこくて、あたしは水たまりの中に何度も転ばされ、泥まみれで泣きながら家に帰った。
いつも森の中をふらふらしている兄さんが、その日はめずらしく、家にいた。
兄さんはあたしを見ると、無言で抱き上げ、風呂場に連れて行った。
泥だらけだったあたしの足をシャワーで洗い流すと、痛みも傷も、嘘のように消えていた。
あたしはしゃっくりをあげながら、今日会ったことを全部話した。
兄さんはあたしの話をじっと聞いていた。
その時の兄さんの目を、あたしは忘れない。
母よりもずっと濃い紫の瞳の奥に、見落としようがない狂気があった。
兄さんは湯気のたつミルクの入ったコップをあたしの手に握らせると、黙って家から出ていった。
それからしばらくして、気がつくとその男の子の一家が村からいなくなっていた。
一家が住んでいた家はいつのまにか空き家になっており、急にいなくなった家族を、村の人たちは最初からいなかったように受け入れていた。
この田舎で、誰にも何も告げずに家族ごと目の前から消えたのに、誰もそのことを不思議に思っていなかった。
ヒロだ。ヒロがやったんだ。
あたしは、ケガをしたあの日の兄さんの、あの紫の目が何度も頭に浮かんでは消えた。
兄さんの名前はヒロと言う。
生粋のアバダン人で、もう覚えていないが、本名はえらく長かった気がする。
あたしと兄さんは半分だけ血がつながっている。
母さんが、あたしの父さんと出会って、夫とその子どもを忘れた。母さんはそのまま自分の国に一度も帰ることなく、私を産んだ。
あたしの父さんはあたしが生まれてすぐ死んだけど、あたしが生まれたことで、兄さんの家族は修復不可能になった。
兄さんは、母さんが去って、暴力を振るうようになった自分の父親から、逃げるように母さんの元に来たと聞いている。
真相はどうだかわからない。
あたしは、兄さんが母さんの育児放棄を見かねて、帰るに帰れなかったのだと思っている。
お腹が空いたときご飯をくれたのも、母さんが物を投げたとき体を張って守ってくれたのも兄さんだった。
学校に行く年齢だったと思うけど、村の学校には行っていなかった。
村で不登校児は珍しかった。
彫りの深い顔立ちと濃い紫の目、透き通るような白い肌をした兄さんは、ベンガルトラが放し飼いで歩いているぐらい目立っていた。
村の女の子もおばさんも、みんな兄さんと話したがったけれど、兄さんのコミュニケーション能力は控えめに言ってもボルボックス以下、単細胞生物がゆるーくひとつの集合体をつくる程度だから、ほとんど意思疎通ができない。
女の子たちがどんなに騒いでも叫んでも、彼は無視するか、ボウフラの浮き沈みを見ているみたいな冷めた目で見ていた。
その傲慢な性格のせいか外見のせいか、榛の木村にちっともなじもうとしない態度のせいか、多分その全部だったと思うけど、差別も区別もひどかった。
兄さんは意に介さなかったけど、つねに不機嫌そうに生きていた。
兄さんにとっては、村の人達の態度うんぬんより、アバダンから離れて日本に、榛の木村に住んでいることそのものが、苦痛だったのだと思う。
兄さんは、アバダン人であることに誇りを持っていた。
生きていくのに大事な、拠り所というやつだ。
兄さんの話す低く流れるようなアバダン語は歌を聴いているかのように耳に心地よく、兄さんが語るアバダンの自然や生活は夢のように美しかった。
あたしは寝る前によくアバダンの話をせがんだ。
食べ物の話が特に好きだった。
あふれるくらいの蜂蜜を入れた糖蜜パン、色鮮やかな果物が焼き込んである甘いパイ、味の濃い野菜を煮込んだクリームシチュー。それらを作る家つき妖精ブラウニーの茶色い小さな手。
そんなおとぎ話を聞きながら、暖炉の前でうとうとした。
兄さんの菫色の瞳が細く笑うと、あたしはすぐに眠りに落ちた。
朝起きるとなぜか必ずベッドの中にいて、あたしはいつも不思議に思っていた。
小さい頃は、昼間もほとんど離れず過ごした。
兄さんは大抵、あたしたち子どもが遊んでいる側の草むらか大きな木の陰で、昼寝をするか寝転がって本を読んでいた。
夕方五時になると、村に流れるチャイムに急き立てられるように帰る子供の群れの中から、あたしだけを拾い上げ、二人で手をつないで帰った。
たまに一人で遊びに出かけて、帰りが遅くなると、すごい形相で玄関の階段で待ち伏せしていた。
赤ちゃんの時から自分で育てたせいか、責任感からか、あたしに対しての独占欲がとても強く、あたしは兄さんの閉鎖性がしんどかった。
でも、兄さんがいないと生きていけないこともよく知っていた。
小さい頃のあたしは、彼の機嫌を損ねないように細心の注意を払って生きていた。
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読んでくださって、お気に入りに入れてくださって本当にありがとうございました。毎日励みになりました。暑いのでお身体くれぐれも大事になさってください。
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