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13. 囚われの姫君と奪う者

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 満月の夜から三日が過ぎた。アネットの真っ白な胸元の咬み傷は未だ痛々しく、瘡蓋と内出血でしっかりと公爵の歯形を残している。

 相変わらず昼も夜も分からない窓無しの石造りの部屋で、夜着姿のアネットはいつものように本を読んで過ごしていた。
 もうそろそろ空が白み始めた頃だろうか。サンドラが部屋に起こしに来るまでの時間はあと少しだというのに、今日はどうしてか全く眠気がやって来ない。
 昨日昼間に午睡を取りすぎたせいかも知れない。
 
 そうなるとアネットが時間潰しに出来る事といえば、本を読むくらいしか無かった。

「……!」

 遠くで人の声のようなものが聞こえた気がして、アネットは本を閉じる。机に置いてそっと扉に近づいた。
 恐らくヘンリーや公爵では無さそうだけれど、そうだとしたら何事だろうかと不安になる。
 満月の夜からまだ三日。彼らがここを訪れる事は無いはずだった。
 
 鍵が掛けられた重厚な扉に頬と耳をピッタリと付け、部屋の外の様子を窺うが、しばらくしても何も聞こえてこない。気のせいだったのかと思い直し、また机の方へと歩みを進めた。
 と、その時、ガチャガチャとドアノブが動く音がして思わずアネットが振り返る。すると何者かが大きな音を立てて扉を蹴破り、部屋に侵入した所だった。

「……っ、えらく頑丈な扉だな。足先が痛ぇ」
「……!」

 侵入者が壊した扉の向こうから、激しく鳴り響く笛の音や数多くの怒号が部屋の中まで一気に流れ込んでくる。
 複数の足音がそこら中を走り回っている気配もした。

 アネットは突然の出来事に思わず身体を硬直させ、侵入者の方を向いたままじっと動けないでいた。相手は鼻と口を布で覆い隠した男で、手には血濡れの剣を持っている。
 怖くなったアネットがサンドラを呼ぼうかどうしようかと悩んでいるうちに、先に侵入者が口を開いた。

「お前……」

 それだけ言って男はツカツカと真っ直ぐに立ちすくむアネットの方へと近づく。手を伸ばせば届くところまで距離を詰めると、少し長めの黒い前髪の間から覗く瞳で、じっとアネットを見つめたのだった。

「アネットか?」

 突然問われたアネットは、呆然としたまま一度だけ頷く。信じられない思いで、アネットは全身が震えた。勝手に涙が溢れて来て、胸が苦しい。

「来い」

 短くそう告げられるのと同時にアネットは侵入者の男によって強引に手を引っ張られ、扉の方へと急かされる。

「ぁ……」

 掠れた声が僅かにアネットの喉を震わせた。この部屋の扉を潜るのは三年ぶりのことで、一歩出ればどうなるのか分からずに怖かったからだ。
 扉を潜る時、知らず知らずのうちに足がすくんで男の手を離してしまう。

「せ……アネット様!」

 廊下から息を切らしながら駆けて来たサンドラが、ギュッとアネットの両手を握った。

「息子は……とっくの昔にヘンリーによって殺されていました。亡くなったのは、二年前だそうです。私がこれまで貴女にして来た仕打ちは、全くの無意味な事だったのです」

 男は突然現れたサンドラとアネットが話せるように、何故かその場でじっとしている。けれども辺りを十分に警戒するのは怠らず、視線をあちこちに巡らせていた。

「この人達は義賊です。公爵様の弱みとなる書類の在処を教える代わりに、貴女を助けて貰えるよう頼みました。アネット様……私をお許しください」

 それだけ言うと、サンドラは力無くその場に座り込んでしまう。初めて「アネット」という名前をサンドラから呼ばれた事で、アネットはこれまでサンドラが自分の為にしてくれた事を思い出していた。
 
 息子を人質に取られながらも、出来る範囲でアネットに優しくしてくれたのは、ここでの三年間でサンドラだけ。

「ぁ……ぅ」

 ありがとうと伝えたくても、アネットの声は言葉を紡ぐ事が出来ない。サンドラの姿がじわりと滲む。目から涙が溢れて鼻が痛い。

「言ったでしょう。この方は公爵様にとって急所も同然の方。それこそ宝飾品などとは比べ物にならないほど、換えが効かない存在なのです。どうか手荒な真似はなさらないでください」

 そう言ってサンドラは男に向かって懇願した。ピッチリとまとめられた白髪頭を深々と下げる。

「アイツは男にしか興味が無いと思っていたが……」

 ごく小さな声で呟いた男はサンドラから視線を移し、アネットの方を見ると何故か呆れたような笑みを浮かべた。

「物好きな女だな。あんな男のそばに居たいだなんて。しかし確かに、公爵の急所となれば……この女には悪事の証拠や宝石よりも十分な価値がありそうだ」

 やがてそれだけ言うと、硬直して動けないアネットをさっさと縦抱きにし、石造りの部屋の外へと出る。アネットにとっては初めて見た廊下の景色だった。

「アネット様……!」

 サンドラがアネットをいつものように「聖女」と呼ばなかったのは、もしかすると聖女というだけでまた理不尽な辛い目に遭う事を懸念していたのかも知れない。
 つまり、アネットにも聖女である事を知られないようにと警告しているのも同じ。

 アネットはこちらへと手を伸ばし涙を流すサンドラに向かって頷いた。感謝の気持ちがサンドラに伝わったかどうかは分からない。
 
 男はアネットを抱いたまま、長い階段を素早く駆け降りた。アネットはてっきりあの場所が地下にあるのだと思っていたけれど、どうやら独立した塔の上にある部屋だったようだ。

 やがて男に抱かれたまま塔を出たアネットは、三年ぶりに空を見た。多くの星が瞬き、満月からほんの少し欠けた月がアネットを祝福するように白い月光を注いでいる。
 少し離れた場所でヘンリーと同じ服を着た騎士達が何人か倒れているのが見えた。それと、見たことが無い男達が大勢庭を走り回り、手には宝石や布袋を持って笑い合っている。

「しっかり掴まれ」

 アネットを抱く男の低い声が、触れ合う部分を通して直に伝わってくる。そしてたちまち男は駆け出した。
 
 塔を離れると男達の怒号や剣の交わる音が辺りを覆った。
 恐ろしくて目をギュッと瞑ったアネットは、男に何度か抱き直されながら、その中を進んでいく。振り落とされないようにと無意識に自分から男に抱きつくようにすると、男は一瞬動きを止めた。
 
 けれどもすぐにまた駆け出して仲間らしき者達と合流すると、止まっていた幌馬車の荷台にアネットを放り込んだ。
 よほど慌てていたのか乱暴に投げ出されたようになったアネットは、硬い板張りの荷台に身体をしこたま打ち付けてしまう。

 ふと見れば、幌馬車に積まれたたくさんの布袋からは、豪華な装飾品や金貨がこぼれ落ちている。

「ジャン!」
「頭領! そちらの首尾は?」
「やはり、老婆の言った通り塔の部屋に居た。それで、公爵は見つかったか?」
「馬で逃げられました。追いかけましたが、護衛の男が非常に手強く……」

 アネットが肩をさすりながら起き上がると、幌馬車のすぐ近くで声がする。先程の男が誰かと話しているようだ。
 金属のぶつかる音や怒声が行き交う中で、その声だけはよく通った。
 
「そいつが公爵の『お気に入り』だろう」
「恐らく。しかしあの老婆のお陰で、不正の証拠はある程度かき集める事が出来ました」
「今はそれでいい。アイツとの直接対峙はもう少し先だ」

 アイツというのが公爵の事を指しているのだというのは、いくら世間知らずなアネットにも分かる。
 この二人は公爵が手を染めた何らかの不正を暴こうとして、早朝で警備が手薄な時間帯に屋敷を襲ったのだという事も。
 
「仲間の皆には悪徳公爵が貯め込んだ、数々の宝飾品を奪うのだと伝えてありますからね。私一人、あまり深追いすることも出来ませんでした」
「だから気にするな。アイツの大事にしている女を捕らえただけでも十分な成果だろう」

 少し落ち込んだような口ぶりの男を、アネットを攫った男が励ました。

「ええ、まぁそうですね。きっと公爵はあの綺麗な顔をひどく歪めて悔しがるでしょう」

 男はクククと意地悪げに笑う。
 
「だろう? さあ、悪いが俺は先に行く! ジャン、後は頼んだ!」
「えぇー、まーた私がしんがりですか?」
「お前にしか頼めないだろう」
「分かりましたよ。それじゃあまたあとで! 新頭領!」

 そう返事が聞こえると、幌馬車はガタガタと揺れながらゆっくり進み始める。真っ直ぐに進まず、あちこちに曲がりながら進む馬車はまるで暴れ馬のようだ。
 アネットはその辺にある布袋に捕まって、荷台で転がらないように身体を保つのに精一杯だった。

 途中、男達の怒号や剣の交わる音が近づいたり遠のいたりしながら、アネットを乗せた馬車は速度を上げて進んで行く。
 どうやら馬車のすぐ近くを大勢の馬が走っているようだ。

 幌馬車の幌はぴったりと閉じられていたので、アネットが外を見る事は叶わなかったが、ずっと出たいと思っていた公爵家を今まさに逃げ出そうとしているのだと思うと、不思議と怖くは無かった。

 それどころか、アネットは今嬉しくてたまらないのだ。頬も胸も熱くて、ぎゅっと苦しい。

 アネットを抱いて逃がしてくれた男……荷台で必死に布袋に捕まるアネットにはまだはっきりとした確信は無いけれど、あれはラウルだった。

 漆黒の闇のような髪と、濡れ羽色の神秘的な瞳。ずっとアネットが恋焦がれて来たラウルが、どういう訳かアネットを助けに来たのだ。

 憧れていた本に出て来る王子のように、はたまた勇者のように突然現れたラウルが、アネットをあの地獄のような日々を過ごした部屋から救ってくれた。
 先程の会話から、もしかしたらサンドラが塔に囚われたアネットの存在を彼に知らせてくれたのかも知れない。

 そのうち近くを走る馬の蹄の音と馬車の車輪の音だけが聞こえるようになると、いつの間にか寝不足のアネットはウトウトと意識を遠のかせていった。
 

 
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