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11. 満月の夜

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「まだ読んでいたのですか? 朝からずっとでしょう」

 ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりを頼りに本を読むアネットにそう言ったのは、相変わらず皺ひとつないお仕着せを着たサンドラだ。
 以前に比べるとその表情には時々変化が見られるが、それでも感情を押し殺したような雰囲気は変わらない。
 
 アネットがこの屋敷に来てからもう早三年もの月日が経っていた。
 十三歳だったアネットは十六歳になり、成長が遅れ気味の痩せぎすだった身体は、年齢相応の女らしさを取り戻している。

 アネットは黙って本を閉じ、食事を載せたワゴンを押しながら部屋に入って来たサンドラに小さく頷く。
 幼い頃から伸びては無造作に切られてざんばら髪だったプラチナブロンドは、サンドラの念入りな手入れによって艶を取り戻し、複雑に編み込んで結えるほど伸びた。

「外では既に太陽が真上に登っております。さぁ、お召し上がりください」
 
 実はあの日からずっと、アネットはこの場所に監禁状態なのである。
 夫婦と暮らしていた頃は夜だけとはいえ、森に出る事が許されていたアネットだったが、今では外に出るどころか、部屋から出る事すら許されていない。

 窓一つなく、外の光が一切入らないこの部屋では、年がら年中燭台の灯りだけが頼りだった。
 
 けれどもサンドラが根気よく文字を教えてくれ、本を読めるようになってからというもの、アネットはこの場所で退屈する事なく過ごせている。
 本の世界はアネットの知らない事ばかりだった。
 
 ここでは食事もきちんと運ばれて来るし、森で食べていた物よりも遥かに美味しい物だ。
 きつい仕事も言いつけられないし、ただ一日を窓一つないこの石造りの部屋で過ごすだけの日々だとしても、アネットは本との出会いによって自分が不幸だとは思っていなかった。

「聖女様、今宵は……満月です」

 サンドラはまるで満月というものを恨んでいるかのような苦々しい表情でそう告げる。
 ここに監禁されているアネットは、この三年満月どころか月も太陽も見ていないので、森で暮らしていた頃に見た柔らかな月光を思い出していた。

 そこにあるだけで自然と落ち着くような不思議な感覚をもたらす満月を、ラウルと共に指差した夜もあった。
 戻りたくても戻れない、既に遠くなりつつある過去の日々を思い出すだけで、アネットは美しい赤紫色の瞳に涙を滲ませる。

「ですから今日は食事が終わりましたら、すぐに湯浴みのお時間です。お辛いでしょうが……」

 満月の日は午後になると早々に湯浴みをさせられると決まっていた。
 サンドラによって隅々まで磨き上げられ、香油を撫でつけられ、いつもと違い薄くて心許ないような夜着を着せられるのだ。

 アネットは「嫌」と言いたかった。
 サンドラとはもう随分と一緒に過ごしていて、たとえ無表情で心が読みにくかったとしても、初めて出会った頃よりは仲が深まったような気がしていたからだ。
 嫌だと言って湯浴みもせず、いつもの夜着を着て夜の時間を静かに本を読んで過ごしたかった。

 けれどもアネットは、サンドラに自分の気持ちを伝える事が出来ない。
 ありがとうと伝える事も、どうしてと尋ねる事も。
 アネットは、もうずっと前に声を失っていたからだ。

「私の事を恨んでおいででしょう」

 思いがけないサンドラの言葉に、アネットはフルフルと首を振った。
 サンドラはアネットが文字を読み書き出来ないと知ってすぐに教えてくれたし、ある頃からは無表情で冷たい印象の顔つきにも、僅かな感情の変化を感じ取れるようになったのだ。
 
 この部屋に出入りする人物はたった三人だけ。その中でもサンドラは、アネットにとって訪問を待ち侘びる唯一の相手だったので、恨むなどというサンドラの言葉は不本意だった。
 だからアネットは何度も首を振り、懸命に声を出そうと喉を震わせるのだが、やはり白くて細い喉から声らしい声が出る事は無い。

「この国では奇跡の存在と言われる聖女様を、息子の為とはいえこのように苦しい目に遭わせ、私にはいつ天罰が下ってもおかしくはありません」

 サンドラは長年この屋敷に仕える侍女長で、七十を越えた老婆に見える外見だが、実際のところはまだ六十を過ぎた頃だった。
 早くに夫を亡くし、女手一つで育て上げた一人息子は、騎士として公爵に尽くしている。

 これまでの月日にサンドラがポツポツと話したのには、何も知らない息子は騎士として王弟でもある公爵に仕える事を誇りに思っているということ。
 
 けれども実のところは同じく公爵家の騎士であり、死亡したグスタフの後釜の位置に収まったヘンリーによって、いつ生命を奪われてもおかしくはない状況にあるのだという。

 アネットがこの公爵家に居る事を知る者は、公爵とヘンリー、そしてサンドラだけ。サンドラは何も知らない息子の生命と引き換えに、アネットの身の回りの世話を命じられているのだった。

「聖女様、お食事の後には必ずこちらをお飲みくださいね。いつものお薬です」

 そう言ってサンドラが手渡して来た青色の小瓶には、無色透明の液体が入っている。
 花のような香りとほんの少し甘い味がするそれは、飲めばしばらくして身体が熱くなり、頭がぼうっとしてしまう。

 今日のアネットは初めてサンドラに「飲みたくない」と目で訴えた。それだけでなく、この後に自分の身に降り掛かる事を思って、「嫌」と拒否の気持ちを込めて。

「聖女様……毎回満月の夜が来る度にあのような酷い仕打ちを受けられ、お辛いでしょうが……」

 これからアネットの身に起こる不幸を誰よりも良く知るサンドラは眉を下げ、眉間と眦の皺を深める。
 同じ女として酷い仕打ちに加担していると分かっていても、サンドラだって一人息子の生命を守る為、アネットを助けてやる事は出来ない。

「けれどこのお薬が無ければ、もっと辛い思いをされるのです。お願いします。きちんと飲んでください」

 公爵から満月の夜になるとアネットへ飲ませるようにと預かっている小瓶。
 アネットにとって毒薬にも思えるそれは、サンドラの優しさでもあった。はじめはそれが分からなかったアネットも、もう幾度も満月の夜をここで過ごすうちに、自分の身と心を守る為の薬なのだと理解した。
 
「う……うぅ……っ」

 泣く時さえ、声を失ったアネットは嗚咽を漏らす事しか出来ない。いつからか原因不明の喉の痛みと熱感に悩まされ、そのうち声が出なくなってしまったのだから。
 
「また後で食器を下げに参ります。きちんとお召し上がりくださいね」

 サンドラは震えるアネットの肩に皺だらけの手を伸ばそうとして、やめた。気休めの励ましなど意味をなさないと思ったからだ。
 ましてや自分はアネットを苦しめている側の人間だと思っているから、なおのこと手を差し伸べる資格など無いと。

 サンドラが出て行った扉をしばらくの間見つめていたアネットだったが、じっとしていても時間は刻一刻と過ぎていく。
 
 自分が食事を摂らなければ、また公爵がサンドラを叱るだろう。狡猾な公爵は、これまでアネットが反抗的な態度を取れば代わりにサンドラを折檻した。
 その方がアネットにとって効果的だと判断したからだ。

 アネットがここでの辛い生活で何とか生きる事を諦めないでいられるのも、ごく短い期間ではあったが、初めて出来た友人ラウルとの楽しい思い出があるから。
 ラウルの事を考えている時だけは胸がホワっと温かくなる気がして、今頃どんな暮らしをしているのだろうかなどと想像する。
 親父さんと呼ぶ人や、仲間とは無事に合流出来たのだろうかと。

 サンドラが持ち込んでくれた本の中には、囚われの姫君を勇敢な王子が助けに来るという物語があった。それに、恐ろしい魔物に囚われた姫君だって、勇者が現れ颯爽と助け出されるのだ。
 
 アネットもこの薄暗い石造りの部屋から、いつか誰かが助け出してくれるのでは無いかと夢見た事が幾度もある。
 けれども窓一つないこの部屋の扉から現れるのは、いつも意地悪なヘンリーと恐ろしい公爵、そしてサンドラだけだ。

 アネットはしょっぱい砂を噛んでいるかのような食事を済ませると、サンドラが残して行った小瓶の薬を一息に飲み干した。
 
 甘くて、後味に苦味が残るこの薬。これが本当の毒薬で、このまま眠りにつき目覚めなければ、もしかすると楽になれるかも知れないと願ってしまう。
 
 けれど何故かその度にラウルの力強い眼差しと、「マリアは俺の命の恩人だから、逃げたいって言うなら俺が森の外へ連れてってやる」と言われた事を思い出すのだった。


 

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