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9. 血濡れの剣
しおりを挟む「う、うわあ……ッ!! グスタフ様⁉︎」
「ヘンリー⁉︎ 何故!」
冷たい床に無造作に転がるグスタフの首からは、どす黒い血が次々と溢れてくる。
あっという間に体と切り離されたグスタフの頭。その表情は驚いたように目を開き、ほんの少し口を開いている。
口々に叫び声を上げ、反射的にその場から逃げようとする黒ずくめの男達。
彼らはグスタフの首を一太刀で斬り落としたヘンリーという男の力量を知っているのか、剣を手に取る事なく慌てて背を向けた。
けれどもヘンリーは逃げ惑う背を遠慮なく斬り、またある者は逃げられぬようにと脚を斬られてしまう。
「どうして……?」
もはや誰の口から漏れ出た言葉かは分からない。
呆然と座り込む丸腰の農夫達は、目の前の惨劇をただ見つめることしか出来ないでいた。
グスタフやヘンリーをはじめとした男達と違い、ただの農夫でしかない彼らは人が斬られる場面など見た事がないのだから、それも仕方がないだろう。
けれども年嵩の農夫だけは、年齢の割にがっちりとした背中でアネットの視界を遮るように、アネットを守るようにして状況を見ていた。
アネットは農夫の背の陰で、辺りに充満する鉄臭い血の匂いが、森の小屋で遅れて現れたヘンリーが纏っていた匂いなのだと知る。
「や、やめろ!」
「ぐ……あぁ!」
「ひ……っ」
ヘンリーはグスタフとその部下を斬った後、今度は農夫達にも斬りかかる。
混乱する丸腰の彼らはろくに逃げる事も出来ないままに、ヘンリーによって次々と斬り伏せられていく。辺りはあっという間に血溜まりで真っ赤になった。
目の前で人が殺される光景を目にし、勝手に全身がガクガクと震え、動けなくなっていたアネット。
先程まで叫び声や呻き声で包まれていたその場所は、いつの間にかシンと静かになっている。
聞こえてくるのはアネットを守る年嵩の農夫の乱れた息遣いと、離れた所からこちらへと近づいて来るヘンリーの足音だけとなった。
「聖女よ、こちらへ来い」
扉の方からはこのような状況でも全く動じていない冷静な男の声がアネットを呼ぶ。それはヘンリーを労った声と同じだった。
アネットは未だ公爵の姿を確認していなかったので、農夫の背中からそっと扉の方へと顔を覗かせる。
そこには凍てつく氷のように冷たい表情をした男が立っていた。歳の頃は分からないが、整った面立ちはまるで美しい女性のようだ。
けれどもここに居る誰よりも豪奢な身なりからして、間違いなくその人物が件の王弟であり公爵なのだと分かる。
美しいが神経質な顔立ちとひょろりとした細身の身体は、森の草むらでしばしばアネットを驚かせた毒蛇を思い起こさせた。
「何度も言わせるな。早くこちらへ来ないか」
公爵の持ついやに赤みの強い唇は、蛇の先割れ舌がチロチロと動いているように思えて、アネットは余計に恐ろしくなり身体を硬くさせる。
混乱するアネットがかろうじてこの場で頼れるのは、自分に関する真実を教えてくれた目の前の農夫だけだと思っていたので、呼び声に苛立ちを滲ませた公爵に呼ばれてもすぐに動く事が出来ない。
なにより、ヘンリーが血濡れの剣を手にこちらへとゆっくり近付いて来ている事が怖かった。
「ヘンリー。他の奴らと同様、さっさとそのジジイの口封じをしてしまえ。だが、聖女は傷つけるなよ」
そう公爵に命じられたヘンリーは小さく頷く。そして大きく息を吐き、右手で持った剣をビュンと振って見せた。刀身を妖しく光らせる血と脂は、真っ白な石造りの床へ点状のシミをいくつも作る。
それを見たアネットはより一層身体を震わせて、自然とカチカチ歯が鳴った。顔色はまるで紙のように真っ白になり、唇も青い。
ふと、農夫が首と肩を回して振り返る。
「聖女様、彼らは決して貴女に手を出す事はしません。子爵家に出入りしていたという理由で、しがない農夫の我々を頼るほど、血眼になって貴女を探していたのですから」
「でも……っ、あなたはどうなるのですか? 皆……殺されてしまったのに」
アネットは今にも泣きそうな表情と声色で農夫に訴えかける。視界の端にはついさっきまで人間として動いていたはずの身体が、生気を失っていくつも倒れていた。
ヘンリーは二人のすぐ近くで立ち止まり、こちらの様子を窺っているようだ。周囲の血生臭さが一層濃くなった気がする。
「公爵様に声を掛けられ、他の農夫達を誘ったのは私なのです。聖女様を見つけ出せば貰えるという大金に目がくらみ、仲間達に声を掛けました」
よせと言う家族の声に耳を傾け、これまでのように地道に暮らしていればこんな目に遭わずに済んだのだと、自嘲の笑みを漏らす農夫の背中は震えていた。
恐怖からか、それとも斬られた仲間への想いからか。
「『聖女探しは亡くなられた領主様への恩返しだ』ともっともらしい理由をつけ、無理に皆を巻き込んだのです。こうなってしまえば、同じところへ……行かねばなりません」
「そんな……」
「最期に、成長なさったアネット様に再びお会いできて、本当に良かったです。さぁ、貴女はあちらへ……」
ヘンリーはこちらの様子を窺いつつも、今は動く気配が無い。
それを確認し、くるりと振り返った農夫はそっとアネットの手を引くと、立ち上がらせる。農夫の持つゴツゴツとした豆だらけの硬い手のひらに、アネットは確かな温もりと力強さを感じた。
「ふん……別れは済んだか? 聖女よ、早くこちらへ。私も気が長い方では無い。充分に時間は与えただろう」
仲間への贖罪と後悔で死を覚悟した農夫と、未だ恐怖と混乱に支配されたままのアネット。
別れを惜しむかのように手を取り合う二人の様子に焦れたような声を上げた公爵は、とびっきりの猫撫で声でアネットを呼ぶ。
口元には艶やかな笑みさえ浮かべていた。
「聖女アネット。私の元へ来なさい。さぁ、こちらで美味い菓子と果実水をやろう」
アネットは未だ唇と歯を小刻みに震わせながら、恐怖と悲しみでぐちゃぐちゃになった心を、何とか平常に保とうとしていた。
「私……」
「アネットお嬢様、突然不幸な目に遭われたご両親の為にも、貴女は生きねばなりません」
そう言って笑みを浮かべ、眦と口元に皺を作る農夫はアネットの身体をそっと公爵のいる扉の方へと押す。同時に農夫越しにヘンリーが止まっていた足を進めるのが見えた。
「いや……っ、そんな……」
泣き笑いのような表情を浮かべた農夫の力強い腕に押された事で、アネットは思わずたたらを踏んだ。
その隙に一気に距離を詰めたヘンリーが、鈍い音と共に農夫の身体を貫く。
「あ……」
驚愕の表情で目を見開く農夫の胸から突き出した血濡れの切先を見た瞬間、アネットは強制的に意識を手放した。
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