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3. 夜の森の少女
しおりを挟むあどけない少女がぐっすりと眠る部屋の入り口。そこに取り付けられた南京錠が、早く起きろと言わんばかりにガチャガチャと不快な音を立てた。
その耳障りな音は、心地良さそうに眠る少女を夢の世界から現実へと勢いよく引き戻す。
「もう……夜?」
眉間に皺を寄せる少女の細い喉元からは、掠れた声が漏れた。
未だ頭の芯はぼうっとしたまま、何とか重い身体を起き上がらせる。と、同時に扉が勢いよく開き、目を吊り上げて眦に皺を作った中年女が少女の部屋に足を踏み入れた。
「マリア! 寝てたのかい⁉︎ もうすっかり森は暗くなってるっていうのに。怠けるのも大概におし!」
寝台のへりに腰掛けしぱしぱと瞬きをする少女の耳に、ヒステリックに怒鳴る中年女の声が遠慮なしに響く。
「ほら、さっさと起きて薪拾いに行きな!」
何やら今夜は女の機嫌がすこぶる悪いらしいのだと分かると、少女は慌てて返事をした。
「ごめんなさい、お母さん。すぐに行きます」
しおらしい少女の返事に満足したのか、ピクリと眉を持ち上げた母親は、フンと鼻を一度鳴らしてから部屋を出る。
いつもなら、一度開けられた少女の部屋の扉は一晩中開け放しておく。しかし今日に限っては、何故か母親が出て行くと同時に扉は閉ざされたのである。
「何か、あったのかな?」
閉ざされた扉の向こうでは、何やら少女の両親が言い争いをしているようだ。
しかしそれはいつもの事なので、少女はさほど気にせず普段通りの身支度を始めることにした。
寝台と小さな机、粗い造りの小ぶりなチェストしか無い狭い部屋で、着古した綿の寝巻きを脱ぐ。
寝巻きの下から現れた十三歳の少女の身体はそこら中に骨が浮き、同世代の娘達よりも随分と成長が遅れていた。
少女は肩につくくらいにまで伸びた黄金色の髪を、申し訳程度に何度か櫛で梳く。母親が適当に切った髪の先はあちらこちらを向いていて、毛先の長さも明らかにまちまちだった。
手早く身支度を終えた少女がそっと扉を開けると、両親はすぐそこにある机でそっぽを向いてパンを齧っていた。
「行ってきます」
「薪拾いを終えたら寄り道をせず帰るんだ。分かってると思うけど、決して他人と口は聞いてはいけないよ。まぁこんな夜の森じゃあ、しけた動物以外居ないだろうけど」
「はい、分かりました」
少女と母親が毎日同じやり取りをする中、華奢な二人とは対照的にでっぷりと腹が出た父親は、パンで膨らんだ頬を僅かに歪ませた。
「マリア、気をつけて行くんだぞ。薪拾いが終わったら、お前にもパンをやるからな」
「はい、お父さん」
乾いたパンを咀嚼しながら、少女に優しい声色で話し掛ける父親。ふくよかな身体付きも相まって、太ったウサギがエサをモグモグとしているようにも見える。
二人のやり取りでなお一層機嫌が悪くなった母親は、間髪入れずに鋭い眼差しでキッと父親を睨みつけ、出口に向かう少女を急かす。
「ほらほら、早く行っておいで!」
少女は母親の声を後ろに聞きながら粗末な造りの小屋を出ると、少し離れた所にある小川の方へと向かう。
先日大雨が降ったせいで川の水位が上がり、その場所に流木が打ち上げられていた事を知っていたからだ。あそこならばいつもより早く薪拾いを終えられるだろう。
ざんばらの髪を揺らしながら、少女は歩き慣れた森の獣道を進む。今宵はあいにく満月では無かったが、いつも人気の無い夜にしか外に出してもらえない少女は、暗がりで物を見る能力に長けていた。
ここはとある国の深い深い森の中。両親と少女はあの小さな小屋にもう何年も前から三人で住んでいる。
少女は父親から母親が極度の人間嫌い故にここに移住したと聞いていたが、人里離れた場所での暮らしは不便で貧しかった。特に少女は満足な食事を与えられずに働かされるので、起きがけはすぐに動くのが辛い事も多い。
少女は幼い頃からこの森で両親以外の人間とはほとんど会った事が無い。以前に何度か森で迷った狩人や商人を見つけたけれど、どうしたら良いか分からずに両親に報告したらひどく叱られたのだった。
それからは森の中で人を見かけても、見つからないようにしてすぐに逃げなさいと教えられた。
母親からは「お前のように貧相で顔が醜い人間は、近付くだけで他人を驚かせてしまうから」と、何度も言い含められていたので、素直な少女はその言いつけを守っている。
幸いにも、それからは誰にも出会う事なく過ごしていた少女。元々夜の森を訪れる者は少ない。
けれども森の中にはウサギやリス、キツネ、それに鳥など、少女に寄り添ってくれる様々な動物達が居るから寂しくは無かった。
「やっぱり、もうすっかり乾いてる」
先日は濁った水が轟々と流れていた川も、今はサラサラと涼しげな音をさせながら澄んだ水を滑らせている。まん丸からスッパリ半分に欠けた月がゆらゆらと水面で煌めいていた。
緩やかな流れの小川に沿って視線を動かすと、少女が求める薪がゆうに半月分ほどは並んでいる。
大雨から日にちが経っている事もあり、すっかり湿り気の取れた薪を集める少女は、持って来た籠が一杯になる頃にそれを見つけた。
「あれって……人?」
少し離れた所に生えている下草の陰から、暗い色をした髪の毛と伸びた腕のような物が見える。たとえ月明かりだけでも、夜目が利く少女にははっきりと確認できた。どうやら誰かが倒れ込んでいるようだ。
「どうしよう……」
とはいえ、パッタリと倒れてしまった人は病気かも知れない。または怪我をして動けないのかも知れないと、元来心の優しい少女は心配になった。
意を決し、薪が入った背中の籠を一度背負い直す。ついでに手頃な薪を一本右手に取った少女は、恐る恐るといった様子で倒れた人に歩み寄った。
「あの……大丈夫ですか?」
控えめに問うてみるも、返事も無ければ動きも無い。反応が無い事にホウッと肩の力を抜くと、少女は薪を両手にしっかりと持ち直し、そろそろと距離を詰める。
「あ……」
下草に隠れるようにしてうつ伏せに倒れていたのは、少女と同じくらいの年頃の少年だった。
袖から出た手は少女に負けじと痩せ細り、顔中に小さな擦り傷や切り傷がある。着ている服もみすぼらしく、所々が破れたりほつれたりしている。
濡羽色をした前髪の下に見え隠れする目は、瞼をしっかりと閉じられていた。けれどどうやら気を失っているだけらしく、呼吸に合わせて背中が上下しているのが確認できる。
「ねぇ、大丈夫?」
少女は相手が自分と同じ子どもである事に安心したのか、いざという時の武器である薪を籠へと戻して、少年の骨ばった身体を揺すった。
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