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2. シェラン子爵家の悲劇

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 王都から隣国との国境までのちょうど真ん中あたり、国の西側に位置するシェラン子爵の領地は、周囲を他の領地が所有する山々に囲まれた盆地にあった。

 様々な宝石が豊かに採れるこのルメルシェ王国にありながら、この場所では高価な宝石が採掘出来るような場所は無い。
 けれども周囲を山に囲まれた土地は地下水が豊富な事もあって、領民は小麦やトウモロコシを作ったり放牧をして暮らしていた。高価な宝石が採れる他の領地と比べれば決して裕福では無いものの、ここでの生活は平和でのんびりとしたものである。

 それにこの地を治めるシェラン子爵は大変温厚な性質で、平民出身の子爵夫人と共に常に領民に寄り添う領主であった為に、領民からの支持も厚い。
 よって領主夫妻の間に『聖女』の赤子が誕生したと知った民達の喜びようといったら、シェラン領地全体がひと月もの間お祭り騒ぎになるほどであった。

 その赤子ももうニ歳。よちよち歩きで大好きな乳母の後を追い、ふと絨毯の毛足に足を取られて転んでは、青みの強い緑色の瞳を潤ませる。
 振り返った乳母はそっと跪き、白いヴェール越しに自分を見上げるキラキラとした瞳を覗き込んだ。

「うう……マリアぁ……」
「あらあら、アネットお嬢様。またすぐに泣いてしまわれて。そこはフカフカの絨毯の上ですから、痛くはないでしょう?」
 
 シェラン子爵家の長女として生まれたアネットは、眉毛の位置で切り揃えられた蜂蜜色の前髪の下に、クリクリとした丸い瞳が愛らしい娘だった。

 ただし、その素顔は帽子に付けられた真っ白なヴェールによって隠されている。

「痛いよー」

 アネットはこの国の誰もがその力を欲する聖女として生まれたが、はなから欲というものが無い子爵夫妻は、ただ無事に娘が生まれて来た事を心から喜んだ。

 愛娘には深い愛情を持って接していた夫妻も、赤子の頃に神殿へと連れて行き、神使によって聖女として認められた日からはなお一層愛情を注ぐのだった。
 と言うのも、十二の歳を迎えた他の聖女達と同様、リュミエール神殿に預けられた後のアネットは、誰かと婚姻を結ぶまでこの領地に戻って来る事は叶わないからだ。

「本当に痛いですか? お嬢様は聖女なのですから、嘘はいけませんよ」

 乳母のマリアはそう言って、今にも声を上げて泣き出しそうなアネットの頬を優しく両手で挟む。

「ううん……ご、めんなひゃい」
「はい。宜しいです」

 アネットは乳母のマリアが大好きで、たとえ叱られても後を追うのをやめない。領主としての多忙な日々の合間に、惜しみなく愛情を注いでくれる両親と同じくらいに、マリアの事が好きだった。
 しかし今日は新しく造られた堤防の視察へと出かけた両親に置いていかれ、朝から少々不機嫌なアネット。少しのことでいじけたり、泣いたりして不満を表すのだ。

「いいですか、お嬢様。本当に痛い時、悲しい時以外は無闇に泣いてはいけません」
「どうして?」
「お嬢様の美しい瞳が、瞼が腫れてしまえば見えなくなってしまうからです」

 そう言うと、マリアはヴェールの下へ手を差し入れ、アネットの瞳からこぼれ落ちる涙を優しく指で掬い上げた。
 
 アネットをはじめとした聖女と呼ばれる娘達は、ヒスイ、ルビー、エメラルド、サファイアなど鮮やかな色の虹彩を持つ。
 そして幼女から少女に変わる年頃になれば、その瞳はまるで宝石をはめ込んだように美しく煌めくようになるのが特徴であった。
 
 神使アンドウはまだ赤子の時分に聖女達を『鑑定』し、その子が何の宝石の加護を持つ聖女かを両親に伝える。
 中でもごく稀に生まれる聖女が持つ瞳の色が、ダイヤモンドである。透き通るような銀色の瞳は多くの人々を魅了し、神が与えた奇跡だと言われた。
 
 宝石色の瞳は神秘的で、どの色味も大変美しいものだが、実はその色によって聖女としての価値は決まってしまう。
 何故ならば、宝石の種類によって加護の内容や程度が変化すると言われていたからだ。
 
 はっきり言ってそれについて真偽のほどは確かではなかったが、多くの人は希少な物を有り難がる傾向があったので、珍しい色味を持つ聖女ほど皆が欲し、優遇された。
 
 妻に貰えば一族の繁栄と富、そして栄誉を授かると言われる聖女の嫁ぎ先は、リュミエール神殿の神使アンドウしか決める事が出来ない。そして神使がどのようにして嫁ぎ先を決定しているのかは非公開である。
 
 けれども希少な存在であるダイヤモンドの聖女だけは、生まれれば必ず王族に嫁ぐ事が慣例となっていた。実際に適齢期を迎えたダイヤモンドの聖女が、ついニ年ほど前に現国王の元へ後添えとして嫁いでいる。

「前王妃様がお亡くなりになってから新しく王妃様になられた方は、百年ぶりにお生まれになったダイヤモンドの聖女様なのですよ」
「だいや……」
「ええ、とても希少で美しい宝石です」
「へぇ」

 穏やかな微笑みを浮かべたマリアは、アネットを抱き抱え膝に乗せた。そしてこの屋敷で一番日当たりの良い場所に置かれたソファーに腰掛け、聖女についての話を言って聞かせる。
 
 まだ幼いアネットが話の全てを理解出来るのは先だろう。それでも聖女として生まれたからには、自分の置かれた状況をなるべく早く理解する必要があった。
 
 他の令嬢が十六歳で大人の仲間入りとされるデビュタントを迎えるところを、この子は十二歳で親元を離れ、聖女として生きねばならないのだから。

「忘れないでください、お嬢様。お嬢様はこの国にとって、とてもとても大切な存在なのです。何故ならばお嬢様はいずれ神使様の決めたお相手に嫁がれ、聖女としての務めを果たされるのですから」
「つとめ……」
「お嬢様は民にとっての希望なのですよ」
「きぼう……?」
「ええ、そうです」

 アネットは「うう……」と小さく唸り声を上げて、マリアの言う事を一生懸命に理解しようと努力した。が、まだ三歳にも満たない子には難しいようだ。
 さんさんと射し込む陽の光を浴びて深い青緑に輝くの瞳を、ヴェール越しではあったがマリアはさも愛しげに見つめる。

「私の可愛いアネットお嬢様、貴女が素晴らしいお方に嫁がれます事を祈っています」

 実のところ、この子の嫁ぎ先は赤子の頃から既に決まっていた。けれども両親はそれを誰にも告げていない。
 アネットは大好きな乳母が口にした言葉の意味を理解できずに、柔らかな膝の上からぐいと顎を持ち上げ上を見上げる。マリアはそんなアネットの様子に笑みを深めた。

「お嬢様が十二歳を迎えるまでもう十年足らず……。ご主人様や奥様、それに私にとっての残り時間としては短過ぎます」

 マリアは苦々しい表情で独りごちると、ハッとしたように胸の中に抱いたアネットを見下ろす。
 一方のアネットは小さな手をマリアの腰に回し、しっかりと抱きつくようにして豊かな胸に顔を埋めている。これはアネットが眠い時のサインだ。

「さぁ、お嬢様。もうお昼寝の時間ですよ」
「んん……」
 
 いつもの通りに乳母は幼子を寝かしつけようと、小さな背中を優しく叩いてやる。その表情は、まるで我が子に向けるような慈愛に満ちたものだった。


 ◆◆◆
 

 同じ日の夜更け、町の酒場ですっかり酔っ払い、ロバに乗って家に帰ろうとしていた領民が、森の向こうにある子爵家の屋敷が大きな炎に包まれているのを目撃する。

 一気に酔いが覚めた男はすぐに近くの家々に駆け寄り、辺りは男の叫び声と、各家の扉を叩く音が響いていた。
 集まった領民達の懸命な消化活動にも関わらず、子爵家は全焼。その焼け跡からは領主夫妻をはじめ、使用人と思われる多数の亡骸が見つかったのだった。
 
 ただ、エメラルドの聖女として領民から親しまれた娘の亡骸だけはどうしても見つからない。
 
 悲嘆に暮れた領民達は、まだ幼かった小さな体は猛火によって全て焼かれてしまったのだろうと考えた。けれども、もしかすると危機一髪逃げ出せた使用人の手によって、領主の娘アネットは何処かで生き延びているのでは無いかと希望を持つ者もいたのだ。
 
 そうして事件後しばらくの間、幼い聖女がどこからか姿を現すのを領民達は首を長くして待っていたのだが、結局ひと月待ってもふた月待ってもアネットは現れない。
 
 そのうち諦めの空気と深い悲しみに包まれたシェラン領は、亡くなった領主の遠縁の者が引き継ぐ事になる。
 燃えた屋敷跡に夫妻とヴェールを纏った幼い女の子の銅像を建てる事で、領民の鬱々とした憂いを払う事にしたのだった。
 

 

 
 

 
 

 
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