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8. 人魚の呪いを受けたあの日に思いを馳せて
しおりを挟む「フィリップ、ピエール様は大丈夫かしら? あのお方、随分とジュリエットに執着してらしたから」
「大丈夫だろうがなかろうが、もう決まったことだ。また近々グロセ家にはお詫びに伺う」
メノーシェ伯爵邸の夫妻の居室では、疲れ果てた様子の伯爵と心配気な表情の夫人が今日あった怒涛の出来事を振り返っていた。
「やはりジュリエットは一筋縄ではいかない娘でしたわね」
「はあ……誰に似たのか。まさか大切に育ててきた娘が本当に平民と婚姻を結ぶなどと思いもしなかった。ピエール殿はジュリエットのことを心から望んでおられたからこそ、私は彼の計画に乗ったんだ。ジュリエットのことを一番に愛してくれる伴侶こそ、娘の幸せに繋がる者なのだと」
品の良い上質な生地でできたソファーに腰掛けた伯爵はがっくりと肩をおとし、その肩を夫人が優しく撫でていた。
「フィリップ、きっと私たちが決めることでは無かったのよ。運命的な出会いというのは案外このようなものなのだわ、きっと」
「ソフィー、あの娘は平民の暮らしなど出来るだろうか? 辛い思いをするのではないか?」
確かに呪いのことを考えて、平民でも良いと言った伯爵。
しかしまさかこのような結末になるなんてと落ち込み、そしてこれから苦労するであろう世間知らずな愛娘の心配で心を痛めていたのだ。
「大丈夫よ、きっと。ジュリエットは私に似て頑固で執念深くて努力家だから。私たちが信じてあげないと可哀想よ。あの子もキリアン様の為ならばきっと何でも頑張れるでしょう」
伯爵夫人は、元々伯爵とは幼馴染であった。
ソフィーの兄とフィリップが友人で、幼い頃から三人で遊ぶうちにソフィーが淡い恋心を抱いた。
しかしフィリップはソフィーのことを可愛い妹のようにしか思えず、ソフィーからの猛烈なアタックを何度もやんわりと突き放したのだった。
そうこうしている間に、フィリップには人魚一族の令嬢セレナとの婚約話が持ち上がる。
それは完全なる政略結婚であったので、フィリップ自体は先代伯爵に言われるがままに話を進めていた。
しかし、それでも諦めきれないソフィーはしつこくしつこく兄に会いに邸を訪れるフィリップに話しかけたり、度々手紙を書いたりしたのだ。
元々セレナのことも、ただの政略結婚相手候補としか思えず特に恋心などはなかったフィリップだったが、あまりにも友人の妹であるソフィーが諦めないので、結局最後はその押しの強さと彼女の愛情の深さに負けたのだ。
「私は意図せずセレナ嬢を傷つけた。そのせいでセレナ嬢は君のお腹にいたジュリエットに呪いをかけた。全ては私の罪のせいだ」
ジュリエットが人魚の呪いを受けた日のことを思い出して、伯爵は胸が痛むのか右の拳でグッとそこを押さえた。
「それを言うならば私のせいでもあるわ。セレナ嬢はきっと貴方よりも私を恨んでいたのよ。私は貴方を婚約者にしたがっていたセレナ嬢のことを知っていながら無理矢理奪ったようなものだもの」
思いを巡らせるソフィーの紫目には分厚く涙が張っている。
フィリップとソフィーの二人は横に並んで腰掛けたまま、あの頃より歳を重ねた手をそっと取り合って、人魚の呪いを受けたあの悲しい出来事に思いを馳せたのだった。
――人魚の令嬢セレナ嬢は美しい人だった。
明るい水色の髪は波打つ海面のように風に靡き、好んで身につけていた濃い青色のドレスは深い海の底のようであった。
「フィリップ様、何故ですの? 何故私と婚約を結んでくださらないの?」
「すまない……」
「ご友人の妹さんとかいうあのソフィーとかいう令嬢のことを愛してしまわれたのですね」
まだ婚約を結んでいた訳ではないというのに、常に婚約者気取りであったセレナは、フィリップからすれば面倒な令嬢であった。
父から紹介された時には確かに美しい令嬢だとは思ったが、それだけだった。
特に好意を持つこともなく、ただの婚約者候補であるとしか思っていなかった。
そうこうしているうちに、親しい友人の妹であるソフィーが熱烈に愛を叫んでくるので、そのうちそんなソフィーのことを自分も愛するようになった。
それをどこからか聞きつけたセレナは、その日フィリップを問い詰めたのだ。
「しかし、君は私の婚約者でも何でもないだろう。文句を言われる筋合いはないはずだ。それに、裕福な貴族であるセレナ嬢にはもっと相応しいお相手が見つかるだろう」
セレナの婚約者気取りにいい加減辟易としていたフィリップはつい今までに見せた事がないほどの冷たい態度と声音で答えた。
「フィリップ様……。そうですか。よく分かりましたわ」
そう言ってフラフラと去って行くセレナを見送ったフィリップは、やっと分かってくれたかとホッと胸を撫で下ろしたのだった。
それがあの日、再びセレナが現れたのはフィリップがソフィーと婚姻を結んで暫く経った頃、ソフィーがそのお腹にジュリエットを身籠っている時であった。
「セレナ嬢? 何故君がここに?」
彼女の明るい水色の髪は今日も風に靡いている。
ここは伯爵邸の庭園で、妊娠中の妻ソフィーを連れてフィリップは散歩をしているところであった。
そこに突然現れたセレナは狂気に満ちた表情で二人を睨みつけている。
美しい真珠をポロポロと眼から零しながら、セレナはソフィーの腹の子に向かって呪いの言葉を浴びせたのだった。
『お前のその腹の中の子が十八になるまでに真実の愛を見つけ婚姻を結ぶ事ができなければ、その子は人魚病となりやがてその苦痛から息絶えるだろう』と。
恐怖に恐れ慄くソフィーをフィリップは咄嗟に背中に隠した。
「フィリップ様……、私は許せません。その女のことも、その赤ん坊も。だからあなた方には人魚の呪いを授けますわ」
「セレナ嬢、何を……」
「さようなら、フィリップ様」
そう言ってセレナは声高く笑いながら庭園に造られた池に飛び込んだのだ。
フィリップが急いで駆け寄れば、一瞬でセレナの身体は煌めく無数の泡となりやがて消えてしまった。
目の前で起こった出来事に、フィリップもソフィーもひどくショックを受けたのだった。
すぐに当時の伯爵であったフィリップの父へ報告し、人魚一族であるセレナの父との話し合いの場を持った。
そこでセレナの父は人魚の呪いと人魚病について伯爵とフィリップに詳細を話したのだった。
そしていつしか心を病んでそのような愚かな行いをしてしまった娘について謝罪はしたものの、呪いを解く方法はやはり一つしかないのだと言った。
このセレナの父というのは娘セレナが泡となって消えたことよりも、この国の中枢で勤め伯爵位を持つフィリップの父とフィリップに責を負わされることを気にするような冷たい心の持ち主であった。
人魚の一族とは根本的に人間とは違う常識で生きている生き物なのかも知れないと、セレナの生家からの帰り道伯爵とフィリップはつくづく思ったものだ。
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