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52. 店を任される

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「いらっしゃいませ! あ、なぁんだ。緋色のおじさんかぁ」

 開店して間がない朝早い時間。客はまだ誰も来ていないようだ。

 いつもは美桜が店先に立つ時間にも関わらず、その姿は店内をぐるりと見渡しても見えない。
 代わりに息子の緋色が厨房から顔を覗かせ、赤シャグマの顔を見るなり「なぁんだ」と来た。

「おい、緋色。『なぁんだ』とは何だよ。それで、遠夜と美桜はどうした?」
「おととさんとおかかさんは昨日の晩からじいちゃんの所へ行ってるよ。だから今日は俺が店を任されてるんだ」

 齡十六になった緋色は幼い頃から遠夜にうどん作りを習い、今では立派にこの店の跡取り息子として、遠夜の代わりに厨房に立つ事もある。

「……あの中風のおっさん、どうかしたのか?」

 赤シャグマは相変わらず弥兵衛の事をそう呼ぶ。今更名前を変えるのは気恥ずかしいのだろうと、赤シャグマ以外の皆はこっそり納得していた。

「実は……良くないらしいんだ」
「はぁ? 本当かよ! そんな時にお前は呑気に店をやってて、会いに行かなくていいのか!」

 しょんぼりした様子の緋色の肩をガクガクと揺らしながら、赤シャグマは必死になって訴える。

「うん。おととさんは俺に店を守れって言うから。じいちゃんの事はおととさんとおかかさんに任せろって」
「何だと? 遠夜がそんな事を言ったのか⁉︎ 緋色、それでお前はいいのかよ!」
「だって……店番は誰かがしなきゃならないし」
「はぁぁぁ⁉︎ んなもん、俺がしてやるからお前は中風のおっさんの所へ行け!」

 赤シャグマは緋色の着けていた前掛けを横取りすると、襷も取り上げて身につけ始めた。

「緋色のおじさん、うどん茹でられるの?」
「うどんの茹で方くらい、遠夜のやってるのをずっと見て来たから分かる! それにほら、常に暇な山の主もちょうど来たみたいだからな。お付きの二人共々手伝わせるさ!」
「わぁ! ありがとう! 俺じいちゃんが心配で、本当は仕事が手につかなかったんだ!」

 緋色があんまり嬉しそうに言うものだから、赤シャグマは満足げに胸を叩いて「任せろ」と言う。
 
「おい、山の主! 緋色を中風のおっさんの所へ連れてってやれよ! こんな時だっていうのに、店に一人で残されて可哀想だろ!」

 緋色に礼を言われ気分が良くなった赤シャグマは、ついでにとばかりに来たばかりの山の主にそう告げ、山の主も「やれやれ」と肩をすくめつつも素直に緋色を連れて店を出た。
 
 残されたお付きの二人はというと、いつも以上に声の大きな赤シャグマに急かされて客席に立つ。
 やがて山の主達を呼び水にしたかのように、次々と来店する常連客達の接客を任されたのである。

 そのうち緋色を送り届けた山の主が戻って来ると、赤シャグマはどうしても様子を聞かずにはいられなかった。

「それで、中風のおっさんの具合はどうなんだよ?」

 そっぽを向きながら尋ねる赤シャグマが可笑しくて、山の主は喉の奥から堪えきれない笑いが漏れ出る。
 赤シャグマはそんな山の主の態度に腹を立て、金色の瞳をぎらつかせた。

「おい、何が可笑しいんだ⁉︎」
「いやあ、お前も緋色にはなかなか優しいなと思ってな」
「別にそういう訳じゃねぇよ! それで中風のおっさんの具合はどうなんだよ! 今日か明日が峠なのか?」

 やけに呑気な山の主に苛立ちを隠せない赤シャグマは、しまいには怒鳴るようにして尋ねる。
 
「まさか。ただのぎっくり腰で大袈裟な奴だな」
「は……? ぎっくり……腰?」
「そうだ。ぎっくり腰をやったらしい。それで美桜達は見舞いがてら世話をしに行っているんだ」

 赤シャグマはヘナヘナとその場に座り込んでしまった。赤い髪を自分の手でグシャグシャと乱し、長く大きく息を吐き出す。

「そんな事かよ……」
「緋色にとってみればそれでも心配なのだろう。自分一人で店を任されるのも、実は不安だったに違いない」

 いつも百合夫婦にばかり弥兵衛を任せきりにも出来ないと、美桜達は店を一日だけ緋色に任せて見舞いに行ったのだ。

「でもあのおっさん、あやかしや物怪を上手い事言いくるめて友は多いだろう。そいつらに面倒を見させたらいいじゃないか」
「近くに住む人の目があるからな、そう度々あいつらが出入りするのも難しいようだ。かと言って、ずっと滞在出来るほど暇な奴も居ない」

 山の主の言葉にしばらくの間じっと考え込んでいた赤シャグマは、すっと立ち上がると何やらボソボソと口にする。
 あまりに小さい声に山の主が聞き返すと、赤シャグマは顔をピクピクさせながら叫んだ。

「だから! 赤シャグマの俺がおっさんの所へ行ってやるって言ってんだよ! ちょうど前の家を没落させてやったばかりで、次に住み着く家を探してた所だったんだ!」

 赤シャグマは座敷童子の仲間とも言われるあやかしだった。座敷童子と同様で住み着いた家は栄え、居なくなると没落する。
 そこで嫌な人間を見つけては勝手に住み着き、適当な所で出ていくというのが赤シャグマなりの人間への嫌がらせだったのだが……。

「赤シャグマよ、弥兵衛の家に一度住み着けば去る事は出来ぬぞ。去れば弥兵衛が不幸になるのだからな」
「別に構わねぇよ! どうせ人間なんて寿命が短い生き物なんだ。少しの間くらいおっさんに付き合ってやるさ」

 山の主はわざと威嚇するような顔でそう言う赤シャグマの事を微笑ましく思え、笑いが込み上げて勝手に頬が緩む。

「何が可笑しいんだよ!」
「いいや、別に。ほら、お前は今日この店を預かったのだろう。さっさと我の為にうどんを茹でてくれ」

 チッと大きな舌打ちをしつつ赤シャグマは釜の前へと立つ。ぐらぐらと沸き立つ湯に入れた麺を、真剣な眼差しで見つめる赤シャグマがいじらしい。
 
 山の主はいつもの席へと腰掛け、お付きの二人と顔を合わせてからも、なかなか笑いが止まらなかった。
 
 

 

 
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