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51. 和解

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 里では黄金色の稲がたわわに実り、稲刈りを待つ田んぼと、もうしっかりと稲が刈られた田んぼが混在する時期。

 その日は世にも珍しい皆既月食で、緋色の月が空に登った夜だった。

 美桜が元気な男の子を産んだ。

 それまで気丈に妻を労い、元気付けていた遠夜が、出産後に母子の無事を確認した途端に泣き崩れたのが印象深い。
 
 山奥での出産、しかも予定よりも早いものだった。勿論産婆はそばにおらず、美桜は一時血の気が引いてしまって遠夜を心底心配させたのだ。

 けれどもそんな時に突然光に包まれた千手観音菩薩が美桜達の前に現れ、不思議な言葉を呟いた。
 すると青白い顔をしていた美桜が急に血の気を取り戻し、無事に子を産む事が出来たのだった。

 子どもの名前は「緋色ひいろ」と名付けられ、今ではもう三歳になる。


 
 ◆◆◆
 

 
「ほうら、緋色。水が冷たくて気持ちいいわね」

 暑い最中、山を流れる小川の流れが一層緩やかで、岩肌に生えた苔やシダが美しい場所。ここは美桜と緋色がよく水遊びに訪れる水場だった。

 近頃美桜は昼過ぎまで遠夜と共に店に立ち、その後は店を手伝いの者に任せて緋色の世話と家事に力を注いでいる。

 水辺に座って足首が浸かるか浸からないか程度の深さの小川にはしゃぐ息子を見つめていると、百合の息子である司郎を思い出した。
 そうなると急に百合や弥兵衛に会いたくなり、久しぶりに山を下りてみようかと考える。

「椿姉さんは、何処で何をしているのかしら」

 産土神に尋ねても、椿はまだ見つからないのだという。

 美しい姉の事だから、もしかしたら遠い場所で良い人に出会い、嫁いだのかも知れないと美桜は考えていた。
 もしも苦労しているのなら、椿の性格であれば何事も無かったかのように弥兵衛や百合を頼って来るだろうから。

 ほんの短い時間、物思いに耽っていた美桜はハッとして緋色の方を見る。
 つい先程まですぐ真横で水に足を浸けていた我が子が、忽然と姿を消していた。

「緋色……ひいろ……っ!」

 幼い子は近頃自分で歩いて何処かへ行こうとするので、いつもなら絶対に目を離さないのに。
 美桜は顔を青くして立ち上がり、辺りを見渡した。

 ざわざわと風に揺れるシダや木の葉が、緋色の姿を隠しているのではないかと目を凝らす。
 小川はごく浅く、向こうの方まで見渡せるので溺れたという事はない。

「緋色! 緋色!」

 美桜はしばらく辺りを駆けずり回った。草履が食い込み、指が痛んだけれど気にしていられない。

 どうしよう、と思うと胸が大きく脈打ち、騒がしい。もしも緋色が見つからなければ、遠夜に何と言えばいいのだろう。

「緋色! 返事をして! ひいろ……っ!」

 いつもと変わらない、美しい山の景色が疎ましく思える。

「ひいろぉ……っ!」

 とうとう美桜はその場にしゃがみ込み、泣き崩れてしまった。
 この時は産土神に助けを求める事も思いつかず、とにかく目の前が真っ暗になったように思えたのだ。

「かぁか」

 自分を呼ぶ緋色の声がした気がして、美桜はガバリと顔を上げる。

「かぁか、泣いてるの?」
 
 目の前に立っていたのは、燃え立つような赤い髪を持つ幼子だった。金色に光る目が三角に吊り上がり、美桜を睨み付けている。
 そしてその幼子が、美桜を心配して「かぁか」と呼ぶ緋色を腕に抱いていたのだった。

「赤シャグマさん!」

 美桜はずっと会っていなかった赤シャグマの事をよく覚えていた。
 初めて会ったあの日から一度も姿を見せず、遠夜と仲違いしたままの赤シャグマを、美桜はずっと気にしていたからだ。

「息子を見つけてくださって、ありがとうございます!」
「はぁ? 見つけたって何だよ? コイツ、俺がちょっと誘うとすぐついて来たぞ。自分に危害を与える奴は居ねぇって思ってんじゃねぇのか? こんなんじゃすぐに悪い奴に攫われちまうのがオチだ」

 相変わらず口の悪い赤シャグマだったが、緋色を抱く腕は優しく見えた。

「すみません、ほんの少し目を離した隙に居なくなってしまって」
「危ねぇなぁ! こんな馬鹿正直に他人を信じて、ホイホイついて来る子どもなんか危なっかしいだろ! ちゃんと躾しとけよな!」
「はい……本当にすみません。ありがとうございました」

 確かに赤シャグマの言う事はもっともなので、美桜は言い返す事が出来ない。
 一人で勝手に動き回る年頃の息子から、一瞬でも目を離したのがいけないのだ。これまでが大丈夫だったからと言って、これからも大丈夫とは限らない。

 美桜は情けなくなったのと安心したのとで、勝手に目から涙が溢れてくるのを止められなかった。

「かぁか、泣いてる……泣かしたらだめ!」
「おい、人間の女! 泣くなって! コイツに俺が泣かしたと思われちまう!」
「かぁか……う、う、うわぁぁぁぁぁぁん!」

 涙の止まらない美桜を見た緋色は、とうとう泣き出してしまう。
 慌てた赤シャグマは緋色をさっさと美桜に手渡すと、そっぽを向いてチッと舌打ちをした。

「ま、まぁこれから気をつけたらいいんじゃねぇの! コイツに何かあったら遠夜が悲しむだろ!」
「そうですよね……ごめんない。ありがとうございました」

 既に泣き止んだ緋色を胸に抱いた美桜がもう一度礼を述べると、赤シャグマはガシガシと赤い髪の毛を掻く。
 美桜はまた拒絶される事が怖かったが、それでも勇気を出して赤シャグマを誘った。

「あの、これからお店に来てくれませんか? お礼にうどんをご馳走します」
「はぁ? 俺に? そんなの遠夜が許さねぇだろ。俺はあの店を出入り禁止にされてるんだからな」
「大丈夫です! 私から遠夜さんに話しますから! それじゃあ、必ず来てくださいね! 先に戻っていますから!」

 赤シャグマの返事も聞かず、美桜は緋色を連れて急いで店の方へと戻って行く。
 店はそう遠くないから、きっとすぐに事の顛末が遠夜の耳に入るだろう。

「はぁぁぁぁ……何でこうなるんだよ」

 赤シャグマはその場に座り込み、再びガシガシと強く頭を掻きむしる。

「おい、山の主。お前そこであの女の事見てたんなら、ちゃんと息子の事も見てろよな」

 そう言ってじっとりとした目を木陰に向けた赤シャグマは、視線の先に現れた山の主を改めて睨みつけた。
 山の主は猪の姿で、牙を剥き出して笑う。

「我はちゃんと二人とも見ていたぞ。確かに美桜はほんの少し目を離したが、その隙にお前が勝手に息子を連れて行ったんだろう。腕に抱いて山を駆け回って、随分と楽しそうだったな」
「な……っ! 見てたんならそう言えよな! くっそ! 本当に嫌な奴だよ、お前は! それに山の主とやらは暇なんだな。毎日あの女と息子の事見てるのか?」

 ギャーギャーと喚く赤シャグマの声がうるさいのか、山の主は鼻を顰めてフンと息を吐く。

「我は決して暇では無い。たまたまうどんを食べに行こうとして、此処に居る美桜達を見つけたまで」
「どうだかな! そういえばあの女の姉、お前が白峰山の天狗に女房として渡してやったらしいな。天狗は屋敷に女房を隠して、前の女房との間のガキの面倒を見させてるらしいじゃないか」
「ほう、そうか。それは知らなんだ。白峰山の天狗が新しい女房を欲しいと言うものだから、ちょうど良いのが居るぞと教えてやったまでの事」

 赤シャグマはキーーッと声を上げてから地団駄を踏む。

「お前、天狗がどれだけ女に残酷な奴かを知っててやっただろう。きっとその女、そのうち気が狂っちまうぞ」
「まあまあ、美桜も牛鬼の倅も知らない話だ。赤シャグマも口を滑らせるなよ。もしも喋れば……」

 そこまで言って、山の主は毛に覆われた目をギラリと光らせた。
 赤シャグマはグッと息を呑み、それから「言わねぇよ!」と言い放つ。

「よしよし、お前は良い子だな。我が頭を撫でてやろうぞ」
「馬鹿にするなよ! それに猪の姿でどうやって撫でるんだよ! しかも、こう見えて俺はお前より少し若いくらいだぞ」

 クククとさも可笑しそうに笑う山の主をギンと睨みつける赤シャグマは、少しして気を取り直したように肩の力を抜く。

「それにしても、産土神も悪い奴だよな。あの女の姉の行方を知ってる癖に、知らないふりをしているんだから。すぐそこの天狗の所に居るのなら、知ってるはずだろ。それを遠夜達に黙ってるなんてさ」
「牛鬼の倅も美桜も人を疑う事を知らぬからな。産土神が知らないと言えば、椿はもう近くには居ないのだと信じるのさ」

 それが皆にとって一番平穏なのだと山の主は言った。
 
「うわぁ、ひでぇ……」
「何が酷い。美桜を傷付けようとしたあの女は、天狗の女房にでもなるのが一番だろう。しかしそれを知れば牛鬼の倅も美桜も心を痛める。我らは良い事をしているのだ」

 そう鼻息を荒くして訴える山の主に、赤シャグマは首を横に二、三度振って、言い返す事をやめた。

「お前、あの女にこれ以上懸想するなよ。あれは遠夜のなんだからな」
「おお、ついに赤シャグマも美桜を牛鬼の倅の妻だと認めたか。それは重畳ちょうじょう
「五月蝿いぞ。……それで、あの遠夜の息子の名前は……何て言うんだ?」

 赤シャグマはもじもじと両手の指を遊ばせながら山の主に尋ねる。
 どうやらずっと気になっていたようだ。

「ああ、あの子は緋色という」
「は……? ヒイロだって?」
「そうだ。牛鬼の倅が名付けたらしいぞ」

 緋色という名を聞き、赤シャグマは金色の目をまんまるにし、口をパクパクとさせる。

「それって……」

 ヒイロの字は緋色かと赤シャグマが問えば、山の主はニヤリと笑う。
 
「おお、そういえば昔赤シャグマは牛鬼の倅に『緋色のおじさん』と呼ばれてなかったか?」

 赤シャグマは元々は牛鬼の友だったから、幼い頃の遠夜は緋色の髪を持つ赤シャグマの事を「緋色のおじさん」と呼んで大層懐いていたのだ。

「やめとけ! 何で息子の名前が緋色なんだよ! 遠夜の奴! バッカじゃねぇの!」

 プリプリと怒りながらも赤シャグマは山の主と並んで店の方へと歩く。
 そして店の前には緊張した面持ちで待つ遠夜と、その腕に抱かれた緋色、その隣で微笑む美桜が居た。

「赤シャグマ、久しぶりだな。息子が世話になった」

 遠夜がそう声を掛けた途端、赤シャグマはまるで子どものように泣き出してしまったのだった。

「やれやれ、『緋色のおじさん』はいつまで経っても子どもみたいな奴だ」

 いつの間にやら人の姿に変わった山の主は、遠夜と抱き合って泣きじゃくる赤シャグマの背を見てそう呟く。
 しかしその表情はいつもの皮肉さが一切見られない非常に穏やかなものであったのを、残念ながら知る者は居ない。

 
 
 
 
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