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50. 母の愛を知らない二人

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 遠夜は根香寺から飛んで帰ると、ここ数日は美桜の事が心配で店を開けていないのにも関わらず、急遽うどんを打ち始めた。

 今から打てば、晩には食べられる。食欲が無くあまり食事が摂れていない美桜は母屋の方で横になっていて、遠夜が戻った事に気付いていない。

 夕方になって久しぶりに麺切り包丁を手にすると、遠夜の横顔は真剣そのものになる。
 トントントン……という小気味良い音が店の方からしたからか、母屋との境の引き戸がそっと開けられた。

「遠夜さん? 戻っていたの?」

 珍しく寝巻き姿のままで一日を過ごしていたらしい美桜が、麺を切り終えた遠夜の姿を目に映す。

「どうしたの? 今日お店は休みじゃあ……」

 言い終わる前に、美桜は遠夜に抱きすくめられた。遠夜の身体からふわりと漂う小麦の香りに、美桜はそっと目を閉じる。

「美桜、具合はどうだ?」
「え……っと、今日はあまり良くなかったから、寝てばかりいてごめんなさい」

 少し前に美桜が仕事中にふらついて倒れてから、遠夜は店を閉めている。
 
 美桜はそれが申し訳ないと思いつつも、原因不明の体調不良が続いてなかなか治らない事に不安を覚えていた。
 咳は出ていないものの、また持病がぶり返したのかと思ったのだ。

「気にしなくていい。今朝はうどんなら食べられそうだと言っていたから打ってみたんだ。食べられそうか?」

 遠夜は何か他に言いたい事があるのにも関わらず、はっきりとそれを口にするのを躊躇っているのだと美桜は感じ取る。
 
 自分の為に今日遠夜が根香寺にお参りに行ってくれたのは知っていたが、そこで何か良くない事があったのだろうかと思った。
 
 今すぐ詳しく聞きたいけれども、せっかく遠夜が打ってくれたうどんを食べてからでも遅くはない。
 何だか久しぶりにうどんの麺を見たらお腹が空いてきた気がする。

「ええ、食べられるわ。何だか遠夜さんのうどんを見たらお腹が減ったみたい」
「そうか! 良かった!」

 思わず美桜の両肩を手で持ち、嬉しそうに笑う遠夜を見て美桜も笑い返す。
 ここのところ続いていた胃のむかつきも、今は嘘みたいに落ち着いていた。

 久しぶりに店の釜に火を入れ、うどんを茹でる。グラグラと沸く湯から立ち昇る湯気が、誰も居ない店内に充満した。

「さあ、食べようか」

 二人で奥の座敷に座り、うどんを前にして向かい合う。店で二人して食事を摂る事は初めての事だった。

「美味しそう」

 均等の幅の捻れた麺が黄金色の出汁に絡み、とても美味しそうだ。思わず美桜の腹がグウゥと鳴る。
 美桜が恥ずかしさで耳まで真っ赤にすると、遠夜はそれすら「可愛らしい」と褒めた。

「いただきます」

 湯気が上がるうどんを箸で掴み、口へと運ぶ。いりこ出汁の香りが鼻をくすぐり、強い弾力が舌を弾いた。

「美味しい……」

 空腹だった美桜が夢中になって半分ほど食べ終わった時、何気なく遠夜の方を見るとじっと自分を見つめている。
 遠夜の前にあるうどん鉢はまだ手が付けられていないようだった。

「遠夜さん、どうしたの?」

 空腹だったとはいえ、一人だけ夢中になって食べてしまった事を恥じた美桜が尋ねると、遠夜は畳の上を移動して美桜の隣へと近付いた。

「子が……」
「え?」
「子がいるんだ。美桜の……ここに」

 はじめ遠夜が何を言ったのか美桜には分からなかった。遠夜の声はひどく掠れていて、しかも涙声になっていたので聞き取れなかったのだ。

 それでもまだ膨らんでいない美桜の腹にそっと手をやる遠夜の仕草を見て、美桜は「あっ」と小さな声を上げた。

「まさか……本当に?」
「ああ、千手観音菩薩様がそう言っていた。すまない、早く気付けなくて」

 遠夜と夫婦になったのは秋のはじまりの頃。人間のような祝言はあげず、ただ静かな月夜に夫婦になる事を産土神の前で二人して誓った。
 その時牛鬼の角を一人一本ずつ手に取り、胸に抱いて夫婦になる事を報告をしたのだ。

「そうだったの……。おかしな病じゃ無かったのね」

 美桜はポロリと眦から涙を落とした。頬を伝ったそれは、胸元を濡らし黒いシミを作る。

「私、本当は不安だったの。持病がまたぶり返したのかと思って。それか、またおかしな病に侵されたんじゃないかって」

 美桜は泣き顔を隠すようにして、遠夜の硬い肩に顔を埋める。遠夜は美桜の身体を抱き、背中をそっと撫でてやった。

「遠夜さんをひとりぼっちにしてしまったらどうしようって……」
「美桜……」

 遠夜は切れ長の瞳をすうっと細め、唇を噛む。泣くのを堪えているようだ。

「でも、そうじゃなかった。ひとりぼっちどころか、家族が増えるんだわ」
「ああ、そうだ」
「嬉しいの? それとも……」

 子が出来たと知って一度は喜んだ美桜だったが、遠夜の反応が今ひとつなのが気掛かりであった。
 もしかすると子を持つ事が嫌なのか、それとも親になる決心がまだついていないのか。

 どちらにせよ、美桜は遠夜の気持ちが知りたいと思った。

「美桜は良い母親になれると思う。慈愛に満ちていて、美しい母に。私は……」

 そこまで言って、遠夜は美桜のこめかみに口付けを落とした。一見して美桜を宥めるようだが、恐らくは自分の心を落ち着ける為に。

「私は……死んだ父のようにひどく不器用な男だが、不器用なりに美桜と子を大切にしようと思っている。だから、どうか無理をせず、私を頼ってくれ」

 子を宿した母性からだろうか。美桜は拙いながらも懸命に自分の気持ちを伝えてくれる遠夜が、心から愛おしくて愛おしくてたまらない。

 美桜はすぐ間近にある端正な顔立ちに自分の顔を近付け、そっと自分から唇を重ねた。
 いつもなら恥ずかしくて出来ないけれど、自然とそうしていたのだ。

「ありがとう、遠夜さん」

 緊張でガチガチに強張っていた遠夜の顔が、やっと大輪の花が綻ぶかのような笑顔になる。

「私は美桜も、子も愛おしい。どうか健やかにいてくれ」

 母の愛を知らない二人が、これから育つ二人の子を思って手を取り合った。
 
 遠夜はこれまで絶対に美桜以外入れなかった厨房に手伝いの者を入れる事を決心し、身重の妻の為にしばらくは店を昼過ぎで閉める事を決めた。

 その事を常連客達に報告した際、厨房の手伝いを申し出る者が多くい過ぎて困ったほどだ。
 けれどもおかげで美桜は無理をせず済んだ。時々調子の良い時は店先に立つ事もあるくらいで、無事に腹の子は成長していったのだった。
 

 
 

 
 
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