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49. 千手観音菩薩からの

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 山かけうどんの冷やしが売れる夏が終わり、また熱いしっぽくうどんが売れる季節となった。
 
 大晦日は多くの常連客が揃って年越しうどんを食べ、新しい年を賑やかに迎えた麺処あやかし屋だったが、春の芽吹きを感じるここ数日は店を閉めている。

「え……」

 真面目で働き者ゆえ、近頃体調を崩す事の増えた美桜を心配した遠夜が、病気平癒のご利益がある根香寺の千手観音菩薩を頼って千手院を訪れていた。
 
 そこで千手観音菩薩から、遠夜は信じられない言葉を聞かされたのだ。

「美桜は腹に子を宿している」

 藍色の肌と彫りの深い顔立ちをした千手観音菩薩は、遠夜が恐る恐る千手院を訪れるなり姿を現し、聞いてもいないのに美桜の事を口にした。

「子……」

 香木から彫られた千手観音菩薩像に向かって懸命に祈りを捧げていた遠夜は、突然現れた千手観音菩薩の不思議な姿に驚きを隠せず、言われた言葉を繰り返すしか出来なかった。
 
「ああ、勿論身に覚えがあるだろう。お前達は夫婦なのだからね」

 美桜は遠夜に心配するなと言っていたが、食欲も無く毎日朝が辛そうな表情で起きてくる妻を、夫が心配せずにはいられない。
 一時は働き者過ぎる美桜の為、店を開ける日や時間を減らそうかと考えていた程だ。
 
 しかしまさか子を宿していたとは。

 遠夜は自分をじっと見つめてくる千手観音菩薩を前にして落ち着かず、それでも何とか渇いた喉を唾で潤すようにゴクリと上下させる。
 
「そのせいで……美桜は体調が悪いのですか?」

 極度の緊張から遠夜はひどく掠れた声で尋ねた。美桜の体調が悪い事を、誰よりも不安に思っていたのは遠夜だった。
 美桜に何かあればどうしようかと、夜も眠れぬ程心配だったのだ。

「ああ、そうだ。子を宿すというのは不思議なもので、身体中を作り替えられるかのように大変な変化が起こる。今はその変化に必死になって馴染もうとしている時期なのだよ」
「そう……ですか。美桜が……」
「本人も子が腹に居るとはまだ知らないだろう。単なる疲れかと思って、あの真面目な娘ならば無理をするかも知れないな」

 くくく、と喉の奥で笑うような声がする。

「牛鬼の倅、私が何故お前の前に姿を現したか分かるかい?」

 豊かな白檀の香りが遠夜を包み込む。遠夜は千手観音菩薩の質問にすぐには答えられなかった。
 すると千手観音菩薩は言葉を続ける。

「お前は此処に来るのを嫌っていたね。父親を嫌っていたからだ」

 実は店からそう遠くはない場所にも関わらず、遠夜はずっと此処に来るのを避けていた。
 父親である牛鬼の角が保管されていたこの場所は、遠夜にとっては幼い頃から何となく近付くのが憚られる場所であったのだ。

「はい。その通りです」

 実はもうこの場所に牛鬼の角は無い。

 本物は遠夜が大切に持っていて、千手観音菩薩がどこからともなく用意した偽物の角だけが、さも本物のように保管されているのだった。
 
「けれど今は違うんだね。父親への思いは変わった。良かったよ、私はお前を救えたようだ」

 ぶわり、と遠夜の全身の毛が逆立つような感覚がした。同時に何かが遠夜の頬を、頭をサラリと撫でる。

「あの時は美桜という人間が、お前を救う鍵だった。今度はお前が、美桜とその子を守るのだよ」

 全てを見通すといわれる千手観音の眼は、今此処に遠夜が来る事すらも分かっていた。
 無限の救いを与える手は、今日のこの時の為にずっと遠夜を待っていたのだ。

「牛鬼の倅よ、お前の周りには助けてくれる者達が多く居る。牛鬼の友だった者達は、助けを求めれば喜んで手を差し伸べてくれるだろう」
「……私の考えが分かるのですか?」

 以前なら考えもしなかった店の在り方。近頃遠夜は無理をしがちな美桜を見て、これまで頑なに守って来た自分のこだわりを捨てるべきか悩んでいた。

「人々の苦しみの声を聞き、その人に合った救いの手を差し伸べる。そして、生きとし生けるもの全てを漏らすことなく救済するのが私の慈悲」

 差し出された無数の藍色の手のひらにある眼の全てが、遠夜の方を見ている。

「ありがとうございました。私と美桜と、私達の子を救ってくださって」

 自然と口をついて出た感謝の言葉。自分はもう一人ではない。
 両親に置いて行かれ、たった一人でこの世に残された遠夜は新たな家族を得たのだ。

「いつか私も食べに行こう。産土神と並んで食べるうどんはさぞや美味かろうな」

 千手観音は遠夜の頭を二本の手で左右から包み込むようにして優しく撫で、「私はお前のように不器用で、それでも懸命に愛を欲する可愛い者が好きだよ」と囁く。
 そして最後に、「牛鬼もそうだった」と付け加えたのだった。

 

 
 
 
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