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38. 百合の不安
しおりを挟む百合の息子は庄屋によって司郎と名付けられていた。
弥兵衛は初孫の司郎可愛いさに、片時も離れたくないようだ。
座敷の畳に座り片腕だけで器用に抱く事を覚えると、近くで百合と美桜がお互いの近況を話し合っているのもそっちのけで司郎をあやしている。
百合はそんな弥兵衛の方をチラリと見て、司郎がご機嫌である事を確認すると、再び美桜の方へと視線を戻したのだった。
母になった百合の横顔は慈愛に満ちているようで、以前にも増して美しい。
「それじゃあ美桜は、いつか遠夜さんと祝言をあげるの? すぐというわけではないのよね?」
今は美桜が麺処あやかし屋について、それに牛鬼の倅である遠夜と恋仲になった事を話し終えたところだった。
「祝言だなんて! とてもそんな事までは考えていなかったわ」
改めて口にされた「祝言」という言葉に頬を染める美桜に対し、百合は真面目な顔を崩さない。
「でもいつかはそうするものでしょう。けれども遠夜さんのような半妖の存在に、祝言だなんて概念はあるのかしら」
「それは……分からないけれど、牛鬼と楓さんが夫婦になったのだから、私達も望めばいつかは夫婦になる事が出来るとは思うの」
百合はいつまでも子どもだと思っていた末っ子の美桜が一人前に恋愛を知ったのを嬉しく思う反面、その相手がこの辺りでは悪名高い牛鬼の倅だという事に戸惑っていた。
牛鬼の過去については美桜からかいつまんで説明を受けたものの、人とは異なる存在……半妖が相手だという事に、どうしたって得体の知れない不安が付き纏うのだ。
「美桜、本当に遠夜さんでいいの? とても良い人だというのは分かるけれど……不安はないの?」
そう尋ねておきながら、百合の方が余程不安そうな表情になっている。
美桜は自分を思う百合の心配ももっともだと思って、湧き上がる恥じらいを捨てて自分の素直な気持ちを口にした。
「不安はないわ。私は遠夜さんがいいの。あの人以外の他の人を選ぶ事なんか、絶対に考えられない」
長年一緒に過ごして来た百合も、美桜がこんなにも強い眼差しで言葉を紡ぐのを見た事がない。
姉妹の中で誰よりも病弱で華奢で、生まれ持った優しさも相まってどこか危うい儚さを持ち合わせていた美桜。
それが今や姉達のように健康な身体となっただけでなく、これまでの美桜にはどこか足らなかった、しなやかな強さや自信のようなものを感じさせる。
「そう。決心は固いのね」
「心配をかけてごめんなさい。小さい頃からずっと、いつも私を心配してくれる百合姉さんの気持ちは、本当にありがたいわ」
そう口にして心から幸せそうに笑った美桜を見て、百合はやっと険しい表情を緩めた。
「当然よ、美桜は大切な妹だもの。でも、もう美桜には遠夜さんがいるのだから、少しくらい私が手を離しても大丈夫ね」
「うん。ありがとう」
はにかみつつも大きく頷く美桜を見て、百合は再び視線を我が子の方へと向ける。
「あと私が心配なのは、椿よ」
百合によれば椿は相変わらずらしい。
近頃は朝早く出掛けて男と逢引きしている姿を度々人に見られているというのだから、この家の嫁である百合にしてみれば頭が痛い問題であった。
「椿の相手のシンさんという人は、かなり自堕落な生活を送っていて、暫くは椿を嫁に貰うつもりは無いそうよ」
「まぁ。そうなの?」
「ええ。椿の方はその気だけれど、相手の方はなかなか重い腰を上げないみたい」
心底困り果てたというように百合は眉尻を下げ、溜め息を吐きつつ軽く肩をすくめる。
「それと、おととさんの事も……」
庄屋の家に嫁に来た百合は、気軽に弥兵衛の住む家に行く事も出来ない。赤子が居たら尚更だろう。
かといって椿も恋仲のシンと離れて隣の集落に住む弥兵衛と暮らすというのは考え難い上に、これまでの様子から、とても家事をするとは思えない。
長女である百合の心配は尽きなかった。
そんな心配を知ってか知らずか、先程と変わらずしっかりと片腕に司郎を抱いている弥兵衛は、飽きる事なくまだ目もよく見えていない赤子に延々と話しかけている。
「ん? 司郎、暑いのか? 眉間にプツプツと汗をかいて」
「おととさん、暑いようなら障子を開けましょうか?」
百合が声を掛ける。けれども弥兵衛は、自分で出来るから構わないと答えた。
「でも、大丈夫かしら……」
百合と美桜が見守る中、弥兵衛は一度司郎を畳に寝かせて自ら立ちあがろうとする。
健康であったならすぐに出来る動作も、身体に麻痺が残った今の弥兵衛には難しい。
「やっぱり手伝いましょうか?」
立ち上がり、美桜と百合は揃って弥兵衛に近付いた。
「いいや、構わねぇ。家に帰ったら一人で何でもしなきゃならねぇからな」
「そう……」
弥兵衛に向かって差し出した手を、百合は行く場を失って引っ込めた。
とはいえ、ずっとそばにいた美桜と違って、百合は未だ身体が不自由そうな父親の様子を見慣れていない。
弥兵衛のおぼつかない動きにハラハラして、つい手助けをしたくなってしまうのも仕方がない事だろう。
「まぁ見てろ」
動く方の手足で身体を支え、弥兵衛は不自由な片足を引き摺りながら姿勢を起こす。あらかじめ用意してもらっていた踏み台に手を掛け、じわじわと立ち上がっていく。
「おととさん、頑張って……」
百合は思わず口にしていた。隣で美桜も固唾を飲んで見守っている。
「よ……っと」
弥兵衛は踏ん張りで顔を真っ赤にしながらも、麻痺が残っている方の足も使いつつ、とうとう一人で立ち上がる事が出来たのだった。
「はぁ……はぁ。こんな事も前に比べりゃ一苦労だが、これから色々考えて工夫していけば、おら一人でも暮らしていけるさ。なぁ!」
胸を叩き、歯を見せて笑う昔と変わらない父親の笑顔は、娘二人の心を強く揺さぶった。
百合が嫁ぎ、美桜も遠夜の元へと帰って行く。椿は自由に生きるだろう。
弥兵衛はそんな娘達の幸せの邪魔を決してするまいとして、自分は大丈夫だと見得を切ったのだ。
弥兵衛が開けた障子から、涼しい風が舞い込んでくる。
「いいか、おらは大丈夫だ。いざとなったら新しく出来た友が大勢いるし、呼び付けたら飛んで来てくれるとさ。だから百合、お前もこれからは司郎とこの家の心配だけしとけ」
中風を患う前よりも一回り程身体が小さくなった弥兵衛だが、亡くなった妻の分もと娘達に惜しみなく向けられる愛情は変わらない。
美桜と百合の頬に、揃ってツウと一筋光るものがあった。
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