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37. 椿との再会
しおりを挟む「椿! 椿じゃねぇかぁ! 元気だったかぁ⁉︎」
嬉しそうに椿の方へと駆け寄ろうとする弥兵衛だったが、麻痺が残った片足はまだ自由に動かせる状態では無い。
ただ久しぶりに娘に会えた喜びではやる気持ちだけが、足を引き摺りながら進む弥兵衛の歩みを支えていた。
「元気だったか、じゃないわよ。突然居なくなったおととさんのせいで、私は百合姉さんの嫁ぎ先で下女の仕事をさせられる羽目になったんだから」
椿は弥兵衛を追いかけて近付いた美桜を見る事もせず、至極不機嫌な表情で弥兵衛を睨みつける。
弥兵衛に見せつけるようにして差し出した指先は、美桜がこの屋敷に居た頃と違って荒れているように見えた。
「ほら、この手を見て。美桜が居なくなったせいで私の仕事が前よりうんと増やされたの。これも跡取り息子を産んだからって、今やこの屋敷では大きな顔をしている百合姉さんの嫌がらせなのよ」
そう言って椿は差し出していた右手の親指の爪をガリリと噛む。
居なくなった自分のせいで椿への負担が大きくなった事を美桜が申し訳なく思っていると、弥兵衛が口を開いた。
「百合はそんな事しようと思ってないと思うが、確かにおらのせいで苦労させてしまって……すまない。もうおらは戻って来たから、お前ももしおらと一緒に家に帰りてぇなら……」
「とんでもない! 百合姉さんにこき使われて大変だって話してるのに、今度は中風の父親の世話を私に押し付けるつもり? 美桜! それはアンタの役目でしょう!」
激昂した椿は弥兵衛の隣で身体を支える美桜にやっと視線を向け、眦を吊り上げて怒鳴りつける。
あまりの剣幕に美桜は思わず身体をすくめたが、確かに今後弥兵衛は家に戻り自分は山へと戻る予定なので、何も言い返す事は出来ない。
「おらはもう随分と回復して一人で暮らせるくらいまでにはなったから、世話する心配はいらねぇぞ。だが椿が家に戻るのが嫌だって言うなら、好きにしたらい」
再会の喜びから一転して弥兵衛の声は段々と尻窄みになり、とうとうガックリと肩を落として俯いてしまった。
ぶっきらぼうに擦った眦には、涙がチラッと光っている。
「はぁ! 辛気臭い顔はよしてよ! まるで私がおととさんを虐めているみたいじゃない」
忌々しげにそう言い放ち、ほつれた髪を耳にかけた椿の襟元は着崩れている。
細い首元に紅い瘢痕のようなものを幾つも見つけた美桜は、椿が何匹もの蚊にいっぺんに食われたのかと心配になって、いつの間にやら目が釘付けになっていた。
「美桜ったら、何をじっと見てるのよ」
どうやら弥兵衛もそれに気付いたようだが、気まずげに顔を顰めるだけで何も言わない。
美桜が「椿姉さん、そんなに蚊に食われて……大丈夫なの?」と椿の首元を指差したので、椿もやっと視線の意味が分かったらしくいかにも馬鹿にしたように笑った。
「あはは! うぶなアンタには分かんないわよねぇ! あぁ、可笑しい!」
「椿、お前……」
元から椿は我が儘で跳ねっ返りで、父親の弥兵衛に対しても常に反抗的な娘だった。
けれども流石の弥兵衛も嫁入り前の身体に口吸いの痕がある事や、どうみても下女の仕事で屋敷の外に出ていたのでは無さそうな椿の様子に、心配と怒りの入り混じった感情が込み上げてしまう。
「なぁに? おととさんには関係が無い事よ。私だってもう良い年頃だもの。鈍臭い美桜と違って、人目を忍ぶ関係の一つや二つあったって構わないでしょ」
「椿!」
溜まりかねた弥兵衛が声を荒くして名を呼ぶが、椿はそんなのはへっちゃらだと言わんばかりに意地悪な笑みを浮かべる。
やがて慣れた手付きで門の横にあるくぐり戸を開け、するりと身体を潜り込ませた。
「ほら、そんなに目くじら立ててないでさっさと屋敷に入ったら? 百合姉さんに会いに来たんでしょう?」
さっぱり堪えた様子の無い椿に、弥兵衛は頭が痛いと言ってからブルブルと首を二、三度横に振り、大きく溜息を吐いてからくぐり戸の方へと歩み始める。
「おととさん、気をつけて……」
美桜が弥兵衛の身体を支えながら、やっとの事で二人は屋敷の門を潜ったのだった。
するといつの間にやら椿は居なくなっていて、建屋の方からドタドタという慌てた様子の複数の足音が聞こえてくる。
そのうち百合とその夫、そして庄屋の夫妻が姿を現した。皆幽霊でも見るかのように弥兵衛達の方を見て驚いている。
いや、それと同時に弥兵衛と共にいるのが美桜だという事も信じられなかったのかも知れない。幽霊などと呼ばれていた美桜の痩せ細った体付きが、至って健康的になっていたからだ。
「おととさん!」
「弥兵衛さん!」
声を上げたのは百合と庄屋が同時だったが、縁側から庭に裸足で駆け降りて来たのは百合だけだった。
「ゆ、百合ぃぃぃ……っ」
「おととさん! 美桜! おかえりなさい!」
父親と妹に勢い良く抱きつく百合は、ほんの少し以前とは表情が違っている。
姉妹の中で一番冷静で、常日頃から感情を表に出して来なかった百合が、ボロボロと涙を零しながら笑っているのだ。
しばらくの間は親子水入らずの再会を喜んでいた三人だったが、そのうち弥兵衛はハッと思い出したかのように飛び上がる。
「ああ! おらあんまり娘に会えたのが嬉しくて、庄屋さん達にろくに挨拶もせず、申し訳ねぇ!」
そう言って弥兵衛は後ろでじっと控えてくれていた庄屋夫妻と百合の夫に頭を下げ、たどたどしくも何度も感謝の言葉を述べた。
「お義父さん、見てやってください。百合の子です」
頃合いを見ていたらしい百合の夫が、腕の中に抱いた我が子をすっと前に差し出す。
赤子はクゥクゥと寝息を立てて眠っていたが、ふくふくとした頬の丸みや伏せられたまつ毛が愛らしい。
「おお! おお! ほんっとに可愛い赤子だぁ!」
眠る小さな赤子を見て、弥兵衛はまたおいおいと泣き始めたのである。
そのせいで赤子はパッチリと目を開け、泣く事もなく何事かと祖父の顔を見上げた。
中風になったせいか、それとも弥兵衛の元からの性質が再会によって刺激されたのかは分からないが、とにかく今日の弥兵衛の変化は目まぐるしい。
「あぁ……目が開くと余計に可愛いなぁ。百合、お前もよく頑張ったなぁ」
「ありがとう……おととさん。会いに来てくれて本当に嬉しい」
百合は夫から我が子を受け取り、手の不自由な弥兵衛の代わりにそばへ近付けてやる。
赤子は母親の胸に抱かれて安心したのか、また瞼をゆるゆると閉じた。
「おらなんか、こんなんになっちまってよぉ。手も足も不自由だが、何とか生きて孫の顔が見られて幸せ者だ」
「生きていてくれただけで良かった……。本当に良かった……おととさん」
赤子を見つめる柔らかな眼差しから、心の底からそう思っているのだと分かる弥兵衛の言葉に、百合はまた声を詰まらせ、肩を震わせる。
「お前もこの子も、庄屋さん達に大事にして貰ってるみてぇで、本当にありがてぇなぁ。それだけでなく、美桜や椿まで世話になって……」
「うん。そうなの」
「ありがてぇ、ありがてぇ」
弥兵衛は再び庄屋夫妻の方へ向き直ると、頭を下げ、片手で拝むような仕草をする。
「弥兵衛さん、顔を上げてください。私達も百合さんのような良い娘さんが嫁いでくれて、大変助かっているのですよ」
ただ美しいだけでなく、働き者でしっかり者の百合は、庄屋の息子の嫁として申し分ないよく出来た娘だった。
そして弥兵衛も、この辺りでは有名なお人好しで、世話焼きの善人である。
庄屋夫妻はそれを見込んで、一人息子に百合を貰ったのだ。
「さあさあ弥兵衛さん、お疲れでしょう。奥の座敷にお茶を準備しておりますので。美桜さんも、ご苦労だったね」
庄屋の申し出にまた弥兵衛は涙ぐみ、美桜は「滅相もありません」と恐縮して頭を下げる。
「それに、どうかしばらくはこちらへお泊まりになってください。百合と久しぶりに会ったのですから、積もる話もあるでしょう」
「そんな、申し訳ねぇなぁ」
「構いません。家に帰る前に初孫との時間も十分に取ってくだされば良い」
「本当に、何から何までありがとうございます」
弥兵衛は孫と過ごす時間が持てるのが余程嬉しかったらしく、寝ている赤子の頬をツンツンと突いている。
その様子をしばし目を細めて見ていた庄屋だったが、今度は美桜の方へと向き直ってから尋ねた。
「美桜さんも、弥兵衛さんと家に帰るのはそれからでもいいね?」
「はい、勿論です。お気遣いありがとうございます」
「それと、美桜さんは今後下女としてでなく、客人としてこの屋敷に滞在してくれ」
「えっ、でも……」
「私は産土神様から、二人の事をくれぐれも頼むと言われているんだよ」
美桜はその後も客人として迎えられる事に恐縮しきりだったが、しまいには庄屋の申し出を有り難く受け入れる事にしたのだった。
「それでは数日お世話になります」
そうして美桜と弥兵衛は、ほんのしばらくの間ではあるが、庄屋の屋敷で客人として過ごす事になったのである。
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