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35. 弥兵衛の決意

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 季節は巡り、麺処あやかし屋の売れ筋は身体を温める『しっぽくうどん』から、冷たくて精の付く『山かけうどんの冷やし』に変わった。

 茹で上がったうどんを冷たい湧水でしっかりと締め、その上に山の芋のとろろをかけて醤油の効いた濃いめの出汁を少量。
 この山かけうどんの冷やし、はじまりは常連客の発案で麺処あやかし屋の夏の風物詩となっている。

「山かけ冷やし一つ! あと茗荷みょうがの天ぷらもな!」

 暑い日差しの中を山奥のこの店まで辿り着いたあやかしや物怪は、皆同じように山かけうどんの冷やしと各々が好きな天ぷら等を注文する。
 茗荷の天ぷらも、とある常連客がお土産にと取って来てくれたものを揚げたところ、いつの間にやら夏の定番となっていた。

「はぁー! やっぱり夏はこれだねぇ。人間相手に驚かすにも、あんまり暑いといくら俺達でも伸びちまう。これを食べればまた、お役目が果たせるってもんだ」

 近くを通った美桜にそう話しかけて来るのは、『うわん』というあやかしだ。
 頭にまばらにしか髪が生えていないうわんは、生え揃った真っ黒な歯を見せながら、三本の指で器用に箸を持ち、丼を持ち上げている。

「ありがとうございます。遠夜さんにも伝えておきますね」

 美桜はそんな客達の声がとても嬉しくて、鬼のように恐ろしい顔立ちをしたうわんに向かって優しく微笑み掛けた。

「ここには久しぶりに来たが、牛鬼の倅は面で顔を隠すのを辞めちまったのかい?」
「はい。もう随分と前から」
「そうか……そりゃあ良かった。アンタみたいな看板娘も増えてるし、牛鬼の倅は顔を晒しているし、長いこと来なかっただけですっかり変わっちまったなぁ」
「これからもどうぞご贔屓にしてください」
「そうだな、また近いうちに来るよ。俺は地べたから身体を生やして人を驚かせるあやかしだからなぁ。夏は地べたが陽に焼けて、どうにも苦手だ。ここの山かけで元気を出すさ」

 そこまで言ってうわんがまたうどんを食べ始めたので、美桜はぺこりと頭を下げてからその場を離れる。
 もうすぐ店は仕舞いの時間を迎えるので、既に客席はまばらになっていた。

 いつもと同じように遠夜と仕込みを終えた美桜は、二人揃って弥兵衛の部屋へと足を運ぶ。
 今朝方美桜が部屋を訪れた時、どこかいつもと違った様子の弥兵衛に、店仕舞いをしたら大事な話があると言われていたのだった。

「おととさん、入るわよ」
「おお! すまんな!」

 返事をした弥兵衛の声は明るく思えたが、改めて呼び出されると何事かと美桜は不安になってしまう。
 そんな美桜の気持ちを汲み取ったのか、遠夜はそっと美桜の手を握り、ゆっくりと頷いて見せた。

「遠夜さんも、仕事終わりに呼び出しちまって悪いな。実は二人に話があってよ」
「いいえ、構いません」

 万年床になっていた布団を部屋の片隅に折り畳み、畳に座った弥兵衛の身体は、はじめに比べたら随分と回復していた。
 まだ少し片方の手足の不自由さが残っているものの、時間をかけさえすれば身の回りの事を自分で出来るまでになっている。

「実はな、もうそろそろ家に戻ろうかと思っているんだ」
「え! 本当に?」

 美桜は思わず大きな声を上げてしまい、慌てて口元を手で押さえた。
 弥兵衛はそんな娘の様子が可笑しかったのか、肩を揺らし、声を上げてひとしきり笑ってからまた話を続ける。

「ああ。もう自分の事は自分で何とか出来るようになったし、昨日産土神様がおっしゃったのにはとうとう百合に子が生まれたらしい」
「百合姉さんが……」
「どうやら母子共に健やかだそうだが、やっぱり初孫ってやつは可愛いと言うし、どうにも気になるんだよなぁ。それにいつまでも家を空けている訳にもいかねぇし」

 美桜は昨日産土神とは会っておらず、店にも来ていない。どうやら美桜が店に立っている間に、弥兵衛にだけ会いに来たらしい。

「そう。百合姉さんが……。きっと可愛い赤子でしょうね」
「おう。美桜も叔母さんになるんだぞ」

 自力で剃ったせいで無精髭がまだちらほら見える弥兵衛の笑顔を見て、美桜は急に百合に会いたくなった。
 優しくて美しい姉。それに、どうしてかいつも自分に冷たかった椿も、紛れもなく血の繋がった姉なのだ。
 二人はあれからどうしているだろうかと考えているうちに、急にその顔が見たくなって来る。
 
「私も……姉さんに会いたい……」

 此処での暮らしは楽しく実り豊かなものではあるが、やはりもう半年以上も山で過ごしていると、慣れ親しんだ集落の様子が気になってしまう。

 けれどもそうなると遠夜の事が気になった。店だって、美桜の手が無くなればまた大変になるだろう。
 
 色々と考えを巡らせている様子の美桜に弥兵衛はフッと目を細め、遠夜の方へと向き直る。

「遠夜さん、これまで本当に世話になったな。山の主様がおらを家まで送ってくれると言うし、十日後には此処を出る事にするよ」
「十日後……ですか」
「その間に、世話になったあやかし達に出来るだけ挨拶しようと思ってる。おらも店先に出させてもらって、皆に声を掛けていくつもりなんだが。構わねぇか?」
「それは構いません。皆もきっと喜びます」

 平静を装ってはいるものの、ほんの少し俯きがちになってしまった遠夜の声はどこか元気が無く、明らかに動揺しているように聞こえた。
 
 弥兵衛はそんな遠夜の面を外した素顔をじいっと眺めてから、元気な方の手で肩をバンバンと叩いてみせる。流石は元々田畑を耕していた手だけあって、その力はズンと重く遠夜の肩へ伝わった。

「遠夜さん、えらく分かりやすく落ち込んでるじゃねぇか! 美桜が居なくなるのがそんなに寂しいのかい?」

 その言葉に美桜と遠夜が同時に顔を見合わせたものだから、弥兵衛は可笑しくて堪らないといった風に笑い声を上げる。
 すると同時に、行灯の炎がまるで弥兵衛の笑い声に合わせるようにしてゆらゆらと揺れ、ひとときの沈黙が降りた。

 炎がまた大人しくなった頃、弥兵衛は真面目な顔になって口を開く。

「悪いがほんの少しでいい。美桜を姉さん達に会わせてやりてぇんだ。百合がどうしても美桜に会いたがっているらしくてな。それが終われば、美桜は此処で遠夜さんと夫婦になるなりして、ずうっと一緒に暮らせばいいさ」

 そう弥兵衛が言い終えた時、美桜と遠夜は強張らせていた顔をみるみるうちに真っ赤に染め上げ、口をぱくぱくとさせる。
 
 確かに二人は恋仲であったが、日々の仕事が忙しいあまり『夫婦』というものになるのは何となくまだ先のような気がしていたので、突然弥兵衛に口にされて気恥ずかしさが込み上げて来たのだ。

「おととさん……っ」
「美桜、店には看板娘のお前が居なきゃ駄目だろう。此処で遠夜さんと一緒に幸せになるんだぞ」

 やがて「どうか美桜を頼む」と未だ不自由さの残るぎこちない動きで頭を下げた弥兵衛の身体を、遠夜が慌てて抱き起こす。
 そして姿勢を正した遠夜はゴホンと咳払いを一つして、躊躇いがちに口を開いた。

「弥兵衛さん、いや……、お……おととさん。これからはおととさんに代わって、美桜さんは私が守ります」

 遠夜にはもう本当の父が居ない。

 この言葉には、弥兵衛を父と思って大切にするという意味と、これからは弥兵衛に代わって美桜を守り続けるという決意がしっかりと込められていた。

「ああ。おらには娘しか居なかったが、またもう一人、こんなに頼もしい息子が出来て嬉しいよ」

 百合が嫁いだ時と同じように、弥兵衛は息子が出来た事を心底喜んでいる。
 美桜はそんな二人のやり取りを感慨深げに眺めながら、自然と零れてくる涙を袖で何度も拭き取るのだった。 
 
 

 

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