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33. 牛鬼の記憶〜楓〜

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 冷たい地面のような水面に思い切り身体を叩きつけられ、やがて水の中で息が出来なくなった。
 滝壺に落ちた牛鬼は自分の命がここで終わるのだと覚悟を決める。

 一年にも満たない月日だったが人間と同じ暮らしをした日々は確かに楽しく、自分が本当に人間になったつもりにさえなっていたのだ。

『馬鹿馬鹿しい。これでは赤シャグマに笑われるな』

 口から吐く言葉は冷たい水の中を上ってゆく泡になる。
 
 産土神も山の主も赤シャグマも皆、人間から敬われこそすれ、嫌われてなどいない。
 仲の良い仲間達の中で、自分だけが人間から遠い所に居た。

 人間から崇められ、好かれていた友に密かに憧れを抱いていた。恥ずかしくて、口に出した事は無かったが。

 それでも、友だと思っていた山田蔵人に裏切られ、こんな死に様を迎える羽目になったのに、未だ人間への未練がある。
 馬鹿馬鹿しいと思いつつも、嘘でも自分に親切にしてくれた山田蔵人に殺されるのなら、まあいいかと考えてしまう。

『俺は……どこまでも馬鹿だ……』

 牛鬼は冷たい水の中で、死が迎えに来るのを待っていた。



 ◆◆◆



 硬い頬を叩く者がいる。

 そこで身体を少しでも動かそうものならば、そこら中がバラバラになるかのように痛み、あまりの痛さに息が出来ない。

 どうやら牛鬼は瀕死ながらも生き延びたようだ。

 ――「もし……! もし! 起きてください!」

 月夜に鳴く鈴虫のような、心地良い声だった。

 ――「お願い……お願い、私を食べてください」

 切実な声に突き動かされ、何とかして返事をしたくても、身体が泥になったように重くて声が出ない。瞼が重く、声の主を見る事すらかなわない。
 
 今の牛鬼は指の先を動かす事すら出来ないようだった。

『無理だ……動けない……』

 ――「私があなたを助けます。だから、元気になったら……私を食べてください」

 ころころと小さな鈴の音にも似た声が、一層顔の近くで聞こえる。

 もうどうにでもなれと思ったのか、牛鬼はされるがまま身を任せる事にしたらしい。
 放っておいても死ぬ。今更どうなっても構わないと思った。



 ◆◆◆



 あの時はもう死ぬのだと覚悟を決めたのに、流石は化け物と言うべきか、牛鬼は身体の動きに少しの不便を残してすっかり元気になったのだった。

 今は元居た山から離れた所にある山中の洞穴に根城を構えている。

かえで、どこだ?』

 ついさっき昼寝から目覚めたばかりの牛鬼は、そばに居るはずの姿が見えない事に焦りを覚えた。
 その恐ろしげな顔からは想像も出来ない程不安そうな声は、また裏切られるのでは無いかという恐怖を孕んでいる。

 ――「私はここよ。ごめんなさい、外へ用を足しに行っただけなの。牛鬼を不安にさせるつもりは無かったわ」

 楓と呼ばれた女は白い頬に楓の葉のような暗赤色の痣があるものの、まるで天女のように美しい顔立ちをしていた。
 そして細い腕が抱えている腹はぽっこりと大きく膨らみ、どうやらもうすぐ赤子が産まれるようだ。

『楓は身重だ。こんな山奥で何かあったら困るのだから、此処を離れるのなら俺と一緒にといつも言っているだろう』

 ――「そうは言ってもよく眠っていたから。起こすのが可哀想だったの」

 ふふふ、と笑う楓の顔は本当に美しく、深い慈愛に満ちたものだった。
 もうすぐ赤子が産まれるのだという事もあって、その顔は既に母親のそれになっていたのだ。

 牛鬼は楓を赤子がいる腹ごと大切そうに抱き抱え、ゆっくりと大きな岩に腰掛ける。

『産まれて来る赤子が人間の姿形をしているといいが』

 ――「どうして? あなたみたいに強い身体の方が良いと思うわ。滝に飛び込んで、死にかけたって生き延びたのだから」

 擦り切れて薄汚れた楓の着物をそろそろ新しいものにしてやりたいなどと考えながら、牛鬼は赤子の居る腹を出来る限り長い爪を引っ込めるようにして優しく撫でた。

『姿形が人間の方が、友が多く出来るだろう。そうしたら俺達が居なくとも寂しい思いをしないだろうから』

 ――「あら、どうして私達が居なくなるの?」

『あやかしや物怪というのは、そのほとんどが生まれてすぐに一人で生きていくものだからさ。人間のように親が子を育てる事はない。俺だってそうだった。親の顔など知らん』

 ――「それでも、私はこの子と一緒に居たいわ。あなたとも」

 牛鬼は楓の頬にある痣にそっと触れ、ギリリと牙を食いしばる。
 それでも爪先だけは楓の肌を傷付けないよう、しっかりと引っ込めていた。

『楓だってたかがこの痣のせいで、親に捨てられたんだろう。人間が行う口減しとは、なんと残酷なものだろうか』

 牛鬼は初めて会った時に食ってくれと頼んで来た楓から、様々な事情を聞いている。

 楓の居た集落や他のいくつかの集落では、口減しが行われており、年寄りや育てる事が出来ない赤子、それに働けなくなった者などをいるのだと言う。

 それを牛鬼をはじめとしたあやかしの仕業とし、居なくなった人々は彼らが喰ったと言いふらし、恐れるふりをして自らの罪を無かった事にしたがるのだと。

 実際、楓だってずっと牛鬼が人を喰らっていたのだと思っていた。
 
 牛鬼の姿は度々人里で目撃されていたし、弓の名手である山田蔵人が牛鬼を退治したという話が伝わってきてからというもの、集落の人々が突然居なくなる事がパッタリと無くなったからだ。

 

 ◆◆◆
 

 
 だからまさか自分が頬の痣のせいで嫁に行けないからと、ある夜飲んだくれた父親の手によって深い井戸の中へ捨てられるなどとは、つゆ程も思っていなかった。

 正確には、井戸の中へ捨てられそうになった所をたまたま通りがかったと言う集落の若い男に助けられたのだが。

 助けてくれたはずの男に納屋へ連れ込まれ、押し倒された楓の身体は穢された。
 生きるのがとことん嫌になった楓は男が満足して去った後、痛む身体をおして集落から逃げ出し、死に場所を探した。

 そんな時、楓は山奥の川に流れ着いた牛鬼を見つけたのだ。
 身体は傷だらけ、噂に聞く牛鬼が瀕死の状態で目の前に現れたのだから驚いた。

 どうせ死ぬつもりだからと、この世で最後の気まぐれのつもりで助けてやった。
 牛鬼の重い身体を楓の細腕では運べず、その場で食べ物を口に運び、水を飲ませてやったのだ。

 幾日かそうしているうちに月のものが来た時、楓は「良かった」と心底安堵した。
 いつ死んでも良いと思っていたのに、万が一にも赤子が腹にいては死にきれない。いくら自分を無理矢理に襲った相手の子だとしても、道連れにする勇気は無い。
 
 そうして牛鬼と一緒に過ごすうち、いつの間にやら夫婦になった。
 はじめは恐ろしいと思った牛鬼の顔も、見慣れて見れば存外愛らしいとさえ思えてくる。

 やがて楓は牛鬼の子を授かった。本当に愛した相手との子が出来たと知った時、楓は嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
 山奥での生活に不安もあったが、牛鬼はどこからともなく楓の為に必要な物を揃えてくれる。あやかしの友に頼んだのだと言っていたが、楓にはあまり会わせてくれない。

 そしてとうとう産気づいたあの日、楓は男の子を産み落とした代わりにその儚い命を失ったのだった。
 
 

 
 

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