此処は讃岐の国の麺処あやかし屋〜幽霊と呼ばれた末娘と牛鬼の倅〜

蓮恭

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30. 牛鬼の角を前にして

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 美桜と産土神が店へ戻った時、太陽はもう真上を通り過ぎていた。
 まだ幾人かの客が店内に居るらしく、何やら賑やかな話し声は店の外まで聞こえてくる。

「昼時を過ぎたというのに、繁盛しておるのぅ」
 
 険しい山道を歩いた事もあり、少し前から美桜の腹はネズミの子の鳴き声のように、キューキューと切なく鳴っている。
 
 その度に産土神は眦の皺を深めながら笑い声を上げるので、居た堪れなくなった美桜は途中から腹を押さえて歩く羽目になったのだ。

「もう、笑わないでください」
「いやぁ、可愛いのぅと思ってな」
「うどん、食べて行かれますよね?」
「ああ、そうさのぅ」
「是非、食べて行ってください」

 産土神と共に店へと足を踏み入れると、美桜の代わりに接客をしていた遠夜が、一瞬驚いた顔をした後にふんわりとした笑顔を浮かべる。

「いらっしゃいませ」

 穏やかな遠夜の声に安心感を覚えた美桜は産土神を席へと案内し、自らは胸に風呂敷に包んで隠した木箱を抱えたまま、急ぎ足で母屋へと向かった。
 
 山道を登った着物はところどころ汚れていて、急いで着替えてからたすき掛けをする。牛鬼の角が入った木箱は、風呂敷に包んだままそっと部屋の片隅に安置した。
 
 その後弥兵衛の部屋を覗いたが、昨晩は千手観音の所へ向かう美桜の事が心配で眠れなかったらしく、高鼾をかいてよく眠っている。

 安心した美桜は遠夜に借りている紺色の前掛けをしてから、また急ぎ足で店の方へと向かったのだった。

「今日くらい、お休みでも良かったのですよ」

 実は休みを貰いたいと伝える際、産土神の口からは千手院へ弥兵衛の病気平癒をお願いしに行くと伝えてあったので、何も知らない遠夜は美桜を労る言葉を掛ける。
 その時当の美桜はというと、遠夜に嘘をつくのが憚られて黙って頷くしか出来なかったのだ。

「いえ! お手伝いさせてください」

 美桜は遠夜を騙している事が心苦しくなって、本人も知らず知らずのうちに胸に手を当てたまま訴える。

「それは助かりますが……。そう遠くは無いとはいえ、山道を歩いたので疲れたでしょう? 平気ですか?」
「平気です。先程部屋を覗いたら、おととさんも今はよく眠っていましたし」
「そうですか。それならよろしくお願いします」
「はい!」

 その後は閉店まで二人で店を切り盛りし、珍しく長居する産土神に遠夜は不思議そうな表情を浮かべながらも、麺処あやかし屋は暖簾を下ろしたのである。

「遠夜、こっちへ来い。美桜はあれを」

 産土神がいつまでも店に残っているのを気にしつつも、それはこれまでも時々ある事なので、遠夜はいつも通りに翌日の仕込みに取り掛かろうと手を伸ばしているところだった。

 呼ばれた遠夜は一度美桜へと視線を向けたが、その後素直に産土神が居る座敷の方へと向かう。
 美桜は産土神に向かって頷いてみせると、すぐに母屋へと繋がる引き戸へ手を掛けた。

「遠夜さん……」

 何も知らない遠夜が牛鬼の角を前にして、どんな風になるのだろうかと美桜は心配でならない。
 騙し討ちのような状況になってしまったのも、美桜は不安だった。

 遠夜に嫌われてしまったらどうしようかと、余計な事はするなと怒られたらどうしようかと考えると、胃がキリキリと痛むような心地がする。

 部屋に戻り、置いた時と変わらないままそこにある風呂敷包みを見た途端に、ホッとしたような不安になるような不思議な感覚を覚えた。
 とにかくこれを持って遠夜と産土神の所へ早く行かねばならないと、美桜は早足で母屋を後にする。

「美桜、それをこちらへ」

 どうやら美桜が居ない間に産土神は遠夜へ全ての事情を話してしまったらしく、美桜が胸に抱えた風呂敷包みに目をやった遠夜の顔は硬く強張っている。
 それを見た美桜の胸は、ギュッと引き絞られるような心地がした。

 産土神に言われるがまま、美桜は牛鬼の角を産土神と遠夜の前へとゆっくり置き、風呂敷包みを解いたのである。

「牛鬼角……双角」

 遠夜は木箱にしたためられた文字を噛み締めるようにして口にし、唇をギュッと噛んだ。心なしか顔色も紙のように白い。

「遠夜、お前はこれまでワシがいくら牛鬼の濡れ衣を訴えても信じようとしなかった。もうこうするしか無かったんじゃ」
「この角には、父の記憶が込められているのですよね」
「ああ、そうじゃ。この角はたとえ身体を離れても、死ぬまで牛鬼と繋がっている。すなわち、牛鬼の生き様が全てこの角に込められておる。ワシも牛鬼が居なくなった後にどうしていたのか、何故姿を消したのかまでは知らぬ。これから一緒に見るとしようじゃないか」

 部外者である美桜は、今は黙って遠夜の様子を見つめるしか出来ない。遠夜の隣に座って寄り添うくらいしか自分に出来る事は無いような気がしていた。

「分かった。産土神がそこまで言うのなら。それに、私にこれを見て欲しいという美桜さんの気持ちを汲み取って、今ここで父の記憶を確かめよう」

 そう言って遠夜は隣に寄り添う美桜の方を見つめ、緊張から冷たくなった美桜の手を、そっと握りしめたのだった。

 
 
 
 
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