此処は讃岐の国の麺処あやかし屋〜幽霊と呼ばれた末娘と牛鬼の倅〜

蓮恭

文字の大きさ
上 下
28 / 53

28. 千手観音菩薩

しおりを挟む

 数日後、美桜は一日休みを貰った。その間の弥兵衛の世話はあやかしの有志達が申し出てくれたので、有り難く甘える事にしたのである。

「それでは、行って参ります」

 千手観音が祀られている寺の敷地に入る事が出来ない産土神は、少し離れた所から美桜を見送った。
 
 山深いこの場所に存在するこの根香寺ねごろじは、花蔵院と千手院の二院から成り立っている。
 
 まずは五色の名の付いたこの山々に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師空海が、密教修行の地として此処に五大明王を祀った花蔵院を建立したのが始まりであった。

 その後智証大師が訪れたとき、霊木から千手観音像を彫造して千手院に祀った。霊木が香木だった事から、この寺は根香寺という名になったという。

 立派な門を抜け、本堂へと続く石造りの急な階段を、美桜は無心で登り続ける。
 美桜の他に人影は一つもない。辺りは木々のざわめきと、鳥の囀りだけに包まれている。
 
 はやる気持ちを抑えつつ、美桜は目的の千手院へ向かう途中で花蔵院へ寄って五大明王にお参りする。そして、やっとの事で千手観音が祀られている千手院へと辿り着いた。

「辿り着いたはいいけれど、どうしたら……」

 寺の外で待つ産土神は「行けば何とかなる」と言ったが、先程のようにただお参りするだけでは駄目だろう。
 美桜は此処にある牛鬼の角を取りに来たのだから。

「中へ入りなさい」

 不思議な声だった。美桜の頭の中に直接語りかけてくるような穏やかな声がしたのと同時に、お堂の扉が静かに開く。

 誘われるがままに美桜は中へと足を踏み入れた。

 目の前に鎮座する千手観音像は美桜よりも大きい。当然ながら観音像の口元や身体が動いている気配は無く、どこから声がしているのか分からない美桜は戸惑ってしまう。

「もっと奥へ」

 また声が聞こえ、美桜が躊躇いつつお堂へと入るなり、背後でパタリと小さな音を立てて扉が閉まる。
 同時に、一瞬にしてこの場所が外と完全に遮断されたような気がした。

 まだ早朝。格子窓から入る明かりだけでは薄暗く、お堂の中では蝋燭の炎がチラチラと揺めきながら並んでいる。
 豊かな白檀の香りが美桜を包み込み、昂る気持ちを落ち着けてくれた。ゆらゆらと白煙を燻らせている線香の香りだろう。

「名を」

 頭の中に響く声から短い言葉で尋ねられ、戸惑いつつも美桜は素直に答えた。

「美桜と申します」
「美桜。ああ、美しい名だね」
「あ……ありがとうございます」

 美桜に声の主の姿を確認することは出来ないが、すぐ近くに空気が澄み切った朝のような、何だか心地良い気配を感じる。

「私はこの国で千手観音と呼ばれているもの。サハスラブジャ・アヴァローキテーシュヴァラとも、あるいはまた別の神の名でも呼ばれている」

 穏やかで優しいけれどどこか恐ろしい。不思議な声を聞いているうちに美桜はその場に跪き、千手観音の像に向かって頭を低く下げていた。

「余談だが、目の前にある像は人々が信仰する為に作ったただの仏像でしか無く、そこに私は居ないよ」

 くくく、と喉の奥で笑うような声がする。

 ぶわり、と美桜の全身の毛が逆立つような感覚がし、同時に何かが美桜の頬を、頭をサラリと撫でた。

「顔をお上げ」
「は、はい」

 産土神や山の主、それに麺処あやかし屋には名だたるあやかしや神も客として訪れている。
 それとは全く違う、思わず不安になるような圧倒的な力を美桜は感じ取っていた。

 自然に美桜の細い手が震える。指先が冷たくなるのを感じながらゆっくりと顔を上げた美桜は、千手観音像を背後にして立つ異様な人影を視界に収めたのである。

 千手観音の皮膚は藍色に近い程青い。しかし数えきれないほどある手のひらだけは薄桃色のような肌色をしており、それらにはもれなく人と同じ形の眼があった。
 
 美桜を見下ろすその顔は非常に彫りが深く、鼻が高い上に目が大きい。
 美しい女のような顔とは裏腹に、見た事がないような意匠の着衣に隠された身体は筋肉質で男の身体のようだ。

「産土神が遣わした可愛い娘。お前も牛鬼の角が欲しいのかい?」
「はい! どうしても牛鬼の角が……記憶が必要なのです!」
「牛鬼の子の為に、かい?」
「はい。遠夜さんの為に、牛鬼が人間を食べたりしていないという証拠が必要なのです」

 それぞれがバラバラの動きをする千手観音の手に意図せず目が釘付けになりながらも、美桜は此処に来た理由を必死に訴える。
 千手観音は黙って話を聞き、美桜の視線に気付くとまた喉の奥でくぐもった笑い声を上げた。

「ふぅん。随分と前に産土神がそんな事を言っていたけれど、その時私はそれを渡さなかった。何故だと思う?」

 楽しそうに、歌うように告げる千手観音の言葉に、美桜は身体をギュッと強張らせる。
 思わせぶりな千手観音の態度は美桜を急に不安にさせたのだ。

 千手観音の口ぶりからして、万が一にも美桜や産土神の求めているものと実際に起きた事が違っていればと思ってしまう。確かな真実を知るまで、どうしたって恐ろしくて堪らない。

「分かりません。どうしてでしょうか?」

 震える声で答えた美桜の頬を、千手観音はニ本の手を使って捕える。
 人間とは違う青い色をした手で、何度も美桜の柔らかな頬を撫でさすった。それはさも愛おしそうに、まるで我が子を慈しむような動作で。

「人々の苦しみの声を聞き、その人に合った救いの手を差し伸べる。そして、生きとし生けるもの全てを漏らすことなく救済するのが私の慈悲」

 千手観音の言葉に、何故か美桜の眼からは自然と涙が溢れていた。
 
 胸の奥から溢れてくる、大波の激しいうねりのような感覚。
 それはきっと、千手観音菩薩のとてつもなく偉大な慈悲の心を前に、小さな慈悲しか知らない人間が感じた畏怖の念から来るものかも知れない。

 美桜の涙を青い指先で掬い取った千手観音は、穏やかな笑みを浮かべて言葉を続ける。

「だからこそ、美桜が来るのを待っていた」
 

 

しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

世迷ビト

脱兎だう
キャラ文芸
赤い瞳は呪いの証。 そう決めつけたせいで魔女に「昼は平常、夜になると狂人と化す」呪いをかけられた村に住む少年・マーク。 彼がいつも気に掛ける友人・イリシェは二年前に村にやって来たよそ者だった。 魔女と呼ばれるイリシェとマークの話。 ※合同誌で掲載していた短編になります。完結済み。 ※過去話追加予定。

皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜

菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。 まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。 なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに! この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

神様の御使いに、婚約指輪の約束を

月ヶ瀬 杏
キャラ文芸
天河彩寧の左薬指の付け根には、子どもの頃から指輪を嵌めたような茶色い痣がある。 彩寧が高校生になった年の春。母親に買い物を頼まれてスーパーに向かう途中、彩寧は不思議な鈴の音を聞く。その音に導かれるように、彩寧は神社に辿り着く。 彩寧がお詣りをしていると、突然、銀髪で青紫の目の和装の少年が現れる。彼は智颯と言い、十年前に彩寧の神様へのお願い事を叶える代わりに彼女を「嫁にする」契約をしたという。

【長編】座敷童子のパティシエールとあやかしの国のチョコレート

坂神美桜
キャラ文芸
ショコラティエの穂香は、京都に自分の店を持つことになった。 開店準備をしていると、求職中だというパティシエールの瑠璃にこの店で働かせてほしいと猛アタックされる。 穂香は瑠璃の話を聞いているうちに仲間意識を感じ、そのまま採用してしまう。 すると突然あやかしの住む国へ飛ばされてしまい、そこで待っていた国王からこの国に自生しているカカオでチョコレートを作って欲しいと頼まれ…

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...