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17. 麺処あやかし屋のはじまり
しおりを挟む上紺の空に山吹色の月が浮かぶ頃、麺処あやかし屋は暖簾を下ろす。
美桜にとっては一日中新しい事づくめで、とにかく言われるがままに動いて終わった初日だった。
「どうじゃ? 看板娘としての初日は疲れたじゃろう?」
店じまい後の店内に客はたったひとり。
真っ白な長い眉毛と髭を持つ産土神が、熱心に縁台を拭く美桜に向かって話し掛ける。
ちょうど全ての縁台を拭き終わるところで、それが終われば母屋に戻っても良いと遠夜から言われていたのだった。
「少しだけ。でも、それより私でお役に立てたかどうか……。何だか夢中で仕事をしているうち、あっという間に夜になってしまいましたから」
「あやかしや物怪達が訪れる事が出来る唯一のうどん屋。だからこの店は朝早くから晩の遅くまで、ずうっと忙しいからのぅ」
多くの店が暮れ六つには店じまいをする中、麺処あやかし屋はもっと遅く、宵五つまで店を開けている。
遠夜によれば、日が落ちてからでなければ来られないあやかしも居るから、だそうだ。
「そもそも、どうしてこの場所であやかし達の為のうどん屋を開く事になったのですか?」
あやかしや物怪しか訪れない、深い山奥にある隠れ家のようなこの店を遠夜が開いた理由。
厨房で明日の仕込みをし始めた遠夜の方をチラリと見つつ、美桜は縁台に腰掛けた産土神に問うた。真剣に仕込みをしている遠夜に、二人の会話は聞こえていないらしい。
「おぉ、それを知りたいか?」
産土神は既に出された山かけうどんをすっかり平らげていて、満足げに食後の茶を啜っている所だった。
「はい。私は何の力も持たない人間ですから、あやかしや物怪の事情や理屈を全く知りません。けれど、それではこの店で働く上で不都合もあると思うのです」
「なるほどのぅ、確かにそれも一理ある。この店の看板娘になる美桜には、色々と知ってもらっておかねばならぬ事もあるわなぁ」
うーむ、と唸った産土神は目を瞑り、髭をゆっくりと撫でる。皺が寄った口元は一文字に結ばれて、なかなか開こうとしない。
「産土神様?」
「いや、此処に遠夜が店を開いた理由というのは、なかなか複雑な話でのぅ。恐らく、一から話せば一晩中かかるじゃろうな」
「そんなに……ですか」
「単純に『あやかし達の為のうどん屋を開いた理由』だけならば、それは簡単な事じゃ。讃岐の人間は事あるごとにうどんを食うじゃろう? それを見た奴らが、『あんなに度々食べる程美味い物ならば自分達も食べてみたい』と言ったのが始まりじゃよ」
美桜は産土神の口から聞く意外な答えに驚いてしばらくの間ぽかんとしていたが、やがての如く口元を押さえてクスクスと笑い始める。
「ふふふ……。確かにこの辺りではお正月やお祭り、麦刈りや田植えの後にもうどんを食べますね。ああ、それに仏事やお客様が来られた時にも。確かに、事あるごとに食べていると言われればそうかも知れません」
「そうじゃろう。あやかしや物怪というのは、元来好奇心が旺盛な奴らじゃからな。時々やけに人間の真似事をしたがるんじゃ」
「それで遠夜さんがうどん屋を……」
「美桜も知っての通り、人間に化けるのが上手い奴らばかりでは無いからのぅ。そういうあやかしや物怪が遠慮なくうどんを食べられるように、と遠夜が始めた事じゃ」
確かに今日美桜が接客した中には人間と見間違う程見事に化けている者居れば、明らかに異形の者も居た。
うどん食べたさにあやかしや物怪が突然人間達の近くに現れれば、必ずや大騒ぎになるだろう。
「遠夜さんは心の優しい方なのですね」
美桜はごく自然とそう口にしていた。
育ての親の産土神をはじめ、常連客のあやかし達皆で守って来た店なのだと話していた、遠夜の穏やかな声を思い出す。
「そう、遠夜は優しい子なんじゃ。しかし他人に優し過ぎて、いや……優し過ぎるからこそ、自分にだけは優しく出来んのじゃがな」
「え? それはどういう……」
思いがけない産土神の言葉に、美桜は理解が追いつかずつい聞き返してしまった。
けれども産土神は気にする様子を見せずに言葉を続ける。
「遠夜は生まれや過去の出来事が原因で、常に自らを責め、貶め、挙句に自信を無くす。そういう面倒臭い男になってしもうたんじゃ。困った事にのぅ。あんまり遠夜が卑屈な事ばかり言えば、美桜だって困ってしまうというのにのぅ」
産土神はそう言うと手にした湯呑みに口を付け、ズズズと熱い茶を啜りながら美桜の方をじっと見据えた。
この世の全てを見透かしてしまいそうな産土神の真っ直ぐな眼差しに、美桜は居心地の悪さを感じて思わず目を逸らしてしまう。
確かに今朝方遠夜が自分を卑下する言葉を言った時、どうやって声を掛ければ良いか分からなかったからだ。
「でも……っ、それは私だって遠夜さんと同じですから。いいえ、私の場合は本当に出来が悪いのです」
本心だった。
しかし美桜は産土神の顔を真正面から見られない。
姉妹の中で一番出来が悪い娘がこの店にやって来た事を知られれば、どんな風に思われるかと不安だったからだ。
「私は……私は……姉さん達のように美しい訳でもなく、庄屋さんの所では幽霊だとか骸骨だとか呼ばれる、お目汚しの存在感で……。それに、仕事をすれば愚図で役立たずだと……いつも怒られておりました」
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