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14. 思いやりの朝

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 早速翌日から美桜は麺処あやかし屋の手伝いをする事になった。
 
 弥兵衛は朝の支度さえ済ませれば、日中は用事があれば手元の鈴を鳴らして美桜を呼ぶと言う。今ではほとんどの事を片手で出来るようになったので、以前ほど助けは必要無いらしい。

 着替えに身体の拭き取り、朝食など、弥兵衛の世話を終えた美桜は、手鏡を覗いて簡単に身なりを整えた。
 美桜は弥兵衛の過ごす部屋の、襖一枚隔てた続きの部屋を貸して貰える事になったのだ。
 
「それじゃあ行って来ます」
「ああ、無理せずな。発作が出たら休ませて貰うんだぞ」
「平気よ。おととさんも無理せずにね」

 弥兵衛と交わす朝のやり取りは久々で、その喜びを噛み締めつつ美桜はつぎはぎの障子を静かに閉める。
 まだ鳥の囀りも聞こえない、静かで冷たい廊下をゆっくりと進んだ。
 
 田畑の真ん中にある庄屋の家と違い、山の中にあるこの母屋は、常に爽やかな山の香りで満たされていた。心なしか空気が新鮮で、美味い気がする。

「コホッ……コホッ」

 ふとした時に冷たい空気が喉に入り込むと、やはり続けて咳が出てしまう。
 昨夜も込み上げてくる咳がひどく辛かった。

 仕方なく手拭いを丸めて口元に押さえ付け、美桜は襖一枚隔てた所に居る弥兵衛に心配をかけまいとしたが、もしかすると知られているかも知れない。
 これでもまともに食事が与えられていなかった頃と比べればましになったのだ。

「食べ物屋さんだもの。仕事中、咳は我慢しないと……」
 
 美桜はそう独りごちてから二、三度胸をさする。これは美桜にとって咳止めのまじないのようなものだった。

 そうして店との境目にある引き戸をそろそろと開くと、ぼんやりとした行灯の灯りが店内を照らしている。それでもまだ室内は影や暗闇の方が多かった。

「あ……」

 まだ夜明け前だと言うのに、既に厨房からはトントントントンという小気味良い包丁の音が響いている。音のする方へと目を凝らして見ると、遠夜がいた。

 真剣にまな板に向かう背中に声を掛けても良いものかと迷ったが、初日という事で美桜は自分が何をすれば良いのか分からない。
 一度大きく深呼吸してから腹に手をやり、たすき掛けした男の背中に挨拶をしたのだった。

「おはようございます」

 するとトントンという音がプッツリと途切れ、行灯のゆらめきに照らされた遠夜が包丁を置き、ゆっくりと振り向く。
 開店前ならもしかしたら……と期待したけれど、美桜の方へと近付く遠夜は今日も牛の頭蓋骨の面をしっかりと被り、顔を隠していた。

「おはようございます。昨夜は慣れない寝床だったでしょうが、よく眠れましたか?」
「はい。おかげさまで。あの……本当に私の為におととさんの隣の一部屋を空けていただいて良かったのでしょうか?」

 昨日美桜は遠夜から寝泊まりする部屋について話をされた時に、弥兵衛と同じ部屋で構わないと伝えた。

 けれども遠夜は、弥兵衛の部屋にはこれからも様々な者達が出入りするだろうから、美桜の部屋は弥兵衛の部屋とは別にすると言ったのだ。
 それで襖一枚隔てた続き間を借りる事になったのだが、美桜はそれが何だか申し訳ないと感じている。
 
「構いません。一人暮らしにしては広過ぎる家でしたから、どうせ部屋は余っているのです。年頃の娘さんの部屋ともなれば、弥兵衛さんの手伝いに訪れた皆も入り辛いでしょう」

 そういうものなのだろうか、と美桜は納得するしかなかった。自分は気にしなくとも、他の誰かが気にすると言うのならば無理を願うのは本望では無い。
 
「朝食まで支度してもらって……私達は居候の身にも関わらず、細やかなお心遣いに感謝します」
「いえいえ! お気になさらず。私も物心ついた頃からたった一人でこの家に暮らして来ましたから、誰かが居てくれるというのは新鮮で、なかなか楽しいのです」
「ありがとうございます」

 この家の主である遠夜がそう言うのだから、美桜は素直に礼を述べ、従う事にした。
 けれどもこれからは是非とも朝食作りを手伝わせてくれと申し出る。

「それはありがたいですが、私の朝は随分と早いもので……」
「構いません。教えていただければ、その時間にお手伝いいたします」
「美桜さんがそうしたいなら……」

 はじめは朝が早いからと遠慮がちだった遠夜も、結局は美桜の訴えを聞き入れてくれた。
 
 その上これまでそうして来たように、美桜が店の手伝いに忙しい時には、あやかし達が弥兵衛の様子を見てくれると言うのだから尚更有難い。
 今では弥兵衛も彼らとは随分仲良くなったらしく、人間とあやかしの垣根を越えた固い友情のようなものさえ芽生えているというのだ。

「それにしても、弥兵衛さんというのは話してみればとても面白い人ですね。生粋の人間なのに、あやかしや物怪とすぐに仲良くなってしまいました。人付き合いの苦手な私とは大違いです」
「おととさんが……」
「はい。だからこそ、はじめはこの店に迷い込んで来た人間という物珍しさから近付いていた者達も、いつの間にやら率先して身体が不自由な弥兵衛さんの世話をしてくれていたのですよ」

 姉百合の義父であるやり手の庄屋とは違って、弥兵衛という男は元々楽天家で、素直で、いっその事子どものような所さえある。
 それに少し間が抜けているような一面もあるものの、人情味溢れる人物で義理堅い。美桜はそんな弥兵衛が父として誇らしかったし、好きだった。

「そう言って貰えて、私も嬉しいです。改めて、皆さんに恩返し出来るよう頑張りますので、よろしくお願いします」

 面の奥に隠された遠夜の表情は見えないが、美桜の言葉にしっかりと頷いて、「無理はなさらず」と口にした。
 その声は非常に穏やかで、ほんの少しの喜びのような良い感情も混じっているように美桜には感じ取れたのだった。

 
 
 

 

 
 
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