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29. 静の元カレ、カズトヨ
しおりを挟む出張一日目、会社に社長の姿が見えなかった事以外は特に変わった事は無く、夕方にホテルに戻った静からメッセージが届いた。
どうやら同行している梶谷さんがこの物件についての知識がかなり豊富らしく、順調に打ち合わせが進んでいるとの事だ。
「やっぱり梶谷さん、すげぇな」
某パンマンのような外見で、普段からのんびりした雰囲気なのに、梶谷さんはやっぱり仕事ができる人だ。
出張二日目も、夕方までは特に静から変わった連絡は受けていない。
頑張ってる二人に俺も負けてられないと、出張で梶谷さんが抜けた分の仕事をする為に残業をしていた。
オフィスには青木さんの他に三人くらいが残っていて、それぞれパソコンに向かって図面を描いている。
もうすぐ納期の物件があるので、それぞれ忙しそうだ。
「才谷さん、ちょっといいですか?」
無心になってパソコンに向かっていると、背後から声を掛けられた。
いつもの会社用のふんわりした表情では無く、真剣な面持ちをしたプライベートの青木さんだ。どことなく、声も硬い。
「どうしたんですか?」
「何も、連絡ないですか? 静から……」
「ないです。社長からは?」
「やっぱり九州に行ってるみたいで、『ちょっと僕も現場が気になるから静達のところへ行ってくるよ』って言ったっきり。それが昨日の事で、今日は連絡がつかないの」
社長が九州に居るからって、別に大きな問題が起こりそうもないけど。現場には梶谷さんも居るわけだし。
そう思った時、机の上に置いた俺のスマホが不規則に震えた。
「社長から……?」
どうやら着信は社長からで、俺は青木さんに目配せするとスマホを持ってオフィスを出る。
その間に切れてしまったら、何かとんでも無いことが起こりやしないかと、いつかのように胸がざわついて落ち着かなかった。
「はい、才谷です」
定時を過ぎると暗くなるリフレッシュスペースは、自動販売機の明かりと非常口の緑色の光に照らされていた。
スマホを耳に当て、社長の応答を待つ。幸い着信は切れずにいた。社長は俺が出るのをじっと待っていたようだ。
「あ、才谷くん? ごめんね、今残業してたんでしょ」
「……はい。どうかしたんですか?」
何となく、防犯カメラの方へ視線が向いた。あれで社長が社内を監視しているなんて事は無いだろうけど、もしかしたらやり兼ねないなという気持ちが僅かにあった。
「静ね、やっぱり君だけじゃ満足出来ないって。恋人となれば束縛されるし、今までみたいに自由でいられないのは窮屈らしいよ」
突然何を言い出すかと思えば、俺を翻弄しようとしているのか。
それに社長の言葉は真実だとはとても思えなかった。だって静と俺はちゃんと話して、これからは二人でいるって約束したんだから。
「社長、静はそんな事言いませんよ。俺は静の事を信じてます」
「……やっぱり君を静に紹介したのは間違いだったなぁ。まさか静が、僕より君を取るなんて思わなかった」
「静は社長の事を大切に思ってますよ。ただ、俺に対する気持ちとは種類が違うだけで。俺なんかより、ずっと強固な絆で結ばれてるじゃないですか。家族なんだから」
「そう、家族なのに。もうたった二人だけの家族なのに、静は僕に『距離を置こう、お互いちゃんと大人になったんだ』って言うんだ。僕は静を守らないといけないのに。ばあちゃんと約束したのに。家族なのに」
最後は喉の奥から引き絞るような掠れ声で。
もしかしたら、社長と静は九州で何か話したのか? 今の時間、静はホテルに戻っているだろうから、社長と揉めたのかも知れない。
それで社長はこんなに感情的になって……。
いつもシャキッとして、イケメンで、できる男って評判の社長が、悲しげに泣き崩れる様子が目に浮かんだ。
「社長……あの……」
なんて声を掛ければいいのか分からないまま、意図せず口を開いてしまった。
その時、スマホの向こう側から静の声が聞こえた。
「やだ! やめてよ、カズトヨ! や、やぁ……っ、そんなとこ……ッ、ひゃ……、舐めないで……っ」
カズトヨ? 聞いた事がない男の名前を口にしながら喘ぐ静の声に、俺は頭のてっぺんから全身に水を浴びたようにサァーッと冷えていくような気がした。
「聞こえた? 僕が連れて来たんだ。静も出張中は君に会えなくて、色々寂しいだろうからね。慰めてあげる存在が必要だろう?」
「誰ですか? カズトヨって……」
「静の元カレ、とでも言うのかな? 君とはタイプが違うけど、とても屈強な男だ。静も最初は一豊が九州まで来て戸惑ってたみたいだけど、結局ベッドに組み伏せられて……あぁ、今、静のシャツが破られちゃったな。でも、明日には帰るからいいか」
社長の声の向こうでは、確かに静が「破らないで!」とか「痛っ!」とか叫んでいる。
静が誰かに無理矢理組み伏せられて、強引に身体を開かれているのだと想像したら、頭が痛くなるほど血液が上って、全身がカァーッと熱くなった。
「社長! 静の事、大事じゃないんですか⁉︎ こんな事して、何になるんです⁉︎」
「静が他の男に襲われたとなれば、少なくとも、君と静はうまくいかないだろう」
恐らく静なら俺に罪悪感を感じて、離れようとするだろう。もう一緒には居られないと言い出すかも知れない。社長はそれが目的なのか。
この人は、何でそこまでするんだ?
「社長、次に会った時には思いっきり社長をぶん殴りますから」
それだけ言って通話を終了した。俺はオフィスに戻ると、急いで帰り支度をする。
青木さんがそれに気付いて席を立ったのが目の端に映ったが、こちらへ来る彼女を待って、説明をする時間すら惜しかった。
「こんなの……おかしいだろ……っ!」
会社を飛び出した俺はそのまま空港へと向かおうとしたものの、よく考えたらこんな時間に飛行機が飛ぶわけが無い。結局は明日帰って来るのを待つしかないんだ。
気が動転して思わず会社を飛び出したが、結局今の俺に出来る事なんて、静に連絡を取ることくらいしか無い。
ひどい事をされていないのか、静が傷付いていないのかがとにかく心配だった。
「静……出てくれ」
俺のスマホからは静を呼び出すコール音が長い時間鳴り響いた。
ずっと続く機械的な呼び出し音に苛立ちながら、歩道の端に立ち尽くす。
「才谷さん!」
会社を出てすぐの歩道で立ちすくんでいた俺に、青木さんが駆け寄って来た。
「社長が九州の静のところへ静の元カレを連れて行ってて、たった今静がホテルでソイツに襲われてるみたいなんです。俺、どうしたら……」
「はぁ⁉︎ 彰人ってば何やってんの⁉︎」
「何で社長はこんな事するんですかね。俺、意味が分かんないです。静の事、治療したり色々手を尽くしたのは社長なのに、何でこんな……」
青木さんに言ったところで仕方ない。それに、青木さんは社長の事が好きなんだから、あまりいい気はしないだろう。
だけど、言わずにはいられなかった。
「才谷さん……。静に彰人が相手をあてがってたの、あれは静にとっては、病気を完治させるのを遅らせるような事にしかならなかった。だって、静は懸命に病気を治そうとして、そういう事から一切離れようとしてたのに」
「え……」
「それでも、彰人は静の為だって言ってやめなかった。本当は静が彰人を頼るように、離れられないようにする為でしかなかったのに。おかしいですよね、彰人は確かに静の事を大切に思っているけど、今は歪んだ形で執着してしまっているんです」
青木さんはいつの間にか泣いていた。通りでは目立つから、少し入った路地へと移動する。
カバンからハンカチを取って渡そうとしたけど、その前に青木さんは自分のハンカチを取り出して目元を拭った。
「あの二人は、離れないといけないんです。いくら大切に思っていても、いつの間にかそれが歪になって、相手を傷つける事だってある。私はずっと、あの二人の関係に結局のところは遠慮してきたけど、今のままじゃ絶対良くないですよね」
俺に話しながらも、その実青木さんは自分に言い聞かせるような、そんな雰囲気で語った。
何か覚悟を秘めたような視線を空に向けた青木さんは、「じゃあ、ごめんなさい。さよなら」とだけ言って俺の返事を待たずに帰って行った。
結局、その後も静からの連絡は無かった。
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