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52. 因果応報
しおりを挟む面会に訪れた閉鎖病棟の雰囲気にも慣れたらしい。最初はあれほど異様に感じていた空気感も、今は気にならなくなっていた。
流石に同業の連続殺人事件についての番組が流れ続けるのは良くないと判断してか、談話室にあるテレビは子ども番組のチャンネルが映されていた。
「姉さん」
いつもと同じ、分厚い殻に閉じ籠るように閉め切られたベッドの周囲のカーテンを引く。
そこに居た姉は頬がこけて目が落ち窪み、げっそりと痩せ細っていた。
前回面会に来てから少し間は開いていたものの、人相が変わってしまうほどの変化に驚く。
「姉さん、一体どうしたの? ご飯、食べられてないの?」
「ねぇ伊織。退院させてくれない? ここ怖いの。隔離室に閉じ込められて、いつか殺される。ねぇ、私を連れて帰って」
落ち窪んだ目を限界まで見開き、抑揚のない声で訴える姉。
痩せ細った手を震わせながら、こちらへと差し伸べて来る。
「何言ってるの? あれから新一さんとは話した?」
「話したわ。皆逮捕されてるんでしょ。警察も来たし。そのうち私の事も逮捕するの? それでもいいから、家に帰らせて! ここは怖いの!」
あれほど退院したくないと訴えていた姉が、突然考えを変えたのは何故なのだろう。
髪の毛はパサついて、頬にも影が出来ている。痩せ細った腕や手はまるで枯れ枝のようだった。
そう、あそこに入院していた寝たきり患者達のように。
「姉さん落ち着いて。どうしたの? 何が怖いの?」
「あのね、殺されるの。看護師達に殺されるのよ。アイツら、隔離室で私を殺そうとしてるの。鬱憤を晴らす為に利用してるのよ。怖い、怖いの」
ブツブツと訳が分からない事を訴える姉の目は、落ち窪んだ空間にガラスのビー玉が埋め込まれているかのようで、全く生気が感じられない。
「けど姉さん、きっとめぐみ医院で死んでいった患者さん達だって怖かったと思うよ」
こんな事、本当は言うつもり無かった。けれども変わり果てた姉の姿が、あのめぐみ医院で理不尽に殺された寝たきり患者の姿と重なって、つい嫌味を言わずにはいられなかった。
「アンタに何が分かるんだ! 殺されそうな私の気持ちなんてどうせ分からないくせに! 私を連れて帰れ!」
そう言って姉は手元にあった枕を投げつけてくる。細い腕では狙いが定まらなかったのか、それは私から少し離れた所に飛んで行った。鈍い音を立てて床に落ちる。
「くそっ! くそっ! くそっ! くそっ! くそっ! 逃げるな! 逃げるな! 逃げるなぁぁぁ!」
気が触れたように叫び始めた姉は、腹立ちまぎれとばかりにガチャガチャとベッド柵を激しく揺らした。
「姉さん、姉さん! 落ち着いて!」
そして、止めようと近づいた私に勢いよく掴みかかって来る。私の胸ぐらを掴むその力は痩せ細った身体のどこに隠されているのかと思うほどで、ぎりぎりときつく締め上げてきた。
「伊織! 伊織! いおりぃぃぃ! 連れて帰って! すぐに連れて帰ってよぉぉ!」
「ねえ……さん……」
いかにも苦しげにしか出せない私の声に一瞬ハッとした表情を見せた姉は、今度は力強く髪の毛を引っ張ってくる。
「助けろ! 助けろ! たすけろぉぉぉ!」
痛みに堪えながらもどうやって対応しようかと考えあぐねていたところに、あの若い女の看護師が飛び込んで来た。
たちまちベッドサイドに駆け寄って姉の腕を掴むと、金切り声に近い大声を出す。
「神崎さん! 何をしているんですか⁉︎」
「うるさい! うるさい! 離せ! 離せ!」
姉は獣のように血走った目をしていた。唾を飛ばしながら大声で訴える。
「離しなさい! 神崎さん! 弟さんを離して!」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
本当に気が狂ってしまったのかと思うほど、姉は同じ言葉を繰り返す。
すると看護師は素早い動きでナースコールを押した。何とかして私に絡みつく姉を引き剥がそうとするが、理性を失った姉の力は思いの外強かった。
「はーい、神崎さーん」
のんびりとした口調で病室の入り口に現れた初見の男性看護師は、異変にギョッとして短い悲鳴のような声を上げる。
しかし流石は精神科病棟勤務の看護師と言うべきか、一瞬の間の後にはただちに応援を呼んだ。
そしてあっという間に現れた男女の看護師達の手により、布地がビリリと引き裂かれるかのようにして、半狂乱の姉は私から離されたのだった。
「伊織! 伊織! コイツらに殺される! 助けてー!」
「ご家族さん、申し訳ありませんが今日はお帰りください!」
姉の声をかき消さんとばかりに声を張り上げる男性看護師は、ペタリと写真を貼り付けたような笑顔でこちらを見た。
いつの間にか姉は複数の男性看護師によってベッド上に拘束されている。
「姉さん……」
「神崎さん、申し訳ありませんがお姉さんはお薬で落ち着きを取り戻すまでの間、こちらで拘束させていただきます」
「でも……」
姉は恐らく鎮静剤を打たれたのだろう。すっかり静かになってベッドの上で拘束されながら、時折抵抗するように手足を動かすだけになっていた。
「お姉さんが怪我をしない為です。病気が良くなる為の治療ですから」
精神科専門の看護師にそう言われてしまえば、専門外の私は何も言えなかった。異様な雰囲気に追い立てられるようにして姉の病室を後にする。
いつの間にか居なくなっていたあの若い女性看護師が、もう一人の男性看護師を連れてナースステーションの方から小走りでやって来るのが見えた。
何かの入ったトレーを手に持った男性看護師は、小さく会釈してから姉の病室へと入って行く。
そして女性看護師の方はというと、病室に入らずに私の前で足を止めた。いつもの間伸びした、井川に似た媚びるような声で話し掛けてくる。
「ちょっと今日はお姉さんの体調が悪いようですので休んでもらいますねぇ。弟さんも襲われて大変でしたよね。怪我とか大丈夫でしたかぁ?」
「はい、私は……大丈夫です」
「それは良かったです。最近のお姉さんは錯乱を起こす事が多くて。ご本人を守る為にも隔離させて頂くこともあるんです」
姉の拘束や隔離については、両親が同意書にサインしているのだろう。私は何と答えていいか分からずに曖昧に頷いた。
「あ、弟さんは看護師をなさっていらっしゃったからご存知だと思いますが、それも治療の一環ですから」
「はい……ご迷惑をおかけします……」
「いいえー。では、出口までご一緒しますねぇ」
閉鎖病棟の出口へ向かって歩く途中、看護師は隣を歩きながら聞いてもいないのに姉の近況をよく喋った。
「最近のお姉さんは『看護師に殺される』って被害妄想が酷くて。きっとあのめぐみ医院の事件が大々的に報道されたから、現実とテレビの世界がごちゃごちゃになってるんですよぉ」
笑いながら語る看護師を相手に、当事者に近いところに居た私は全く笑えなかった。
「あ、念の為にお知らせしますが、この病院ではあんな事してないですからね。ふふっ」
「……確かに、姉はさっきもそんなような事を言ってましたね」
看護師に殺される、と。
「あれ、間に受けないでくださいね。精神科に入院する患者さんには割とよくある訴えなんですよぉ。皆何としても帰りたいって方が多いですから」
ほどなくして閉鎖病棟と外の廊下を隔てる堅牢な自動ドアの前に到着する。看護師が暗証番号を押して扉を開く。
あと数歩前に足を踏み出すと病棟の外。ほんの少しの距離を隔てて、全く違う世界のように思える。
ここから姉の病室が見えるような角度では無かったけれど、看護師に礼を言う体でそっと後ろを振り返った。
長い廊下の突き当たりまで誰も居ない。遠くに見える談話室にも誰一人おらず、テレビだけが忙しなく画面を変化させているのが見えた。
「……姉を、よろしくお願いします」
ニコニコと愛想よく笑う看護師に丁寧に頭を下げ、くるりと体を反転させる。
「お気をつけてぇ」
最後まで語尾を引き摺るような声を背に、冷たい印象の扉をくぐる。
廊下に一歩踏み出ると、吹き抜けになった天井からの眩しい光を一身に浴びた。
「はぁ……」
ため息を一つ吐いた後、チカッと痛む首筋に手をやる。姉に引っ掻かれたらしく、細い傷がいくつか走っていた。
出口に向け、ゆっくりと廊下を歩く。吹き抜けの高い天井からは、重く静かな気配が舞い降りてくる気がした。
開かれた空間には誰も居ない。多くの気配がする病棟から一歩外に出ただけで静か過ぎて、耳が痛くなるような気がした。
姉ははじめ精神科で働いていた頃の知識と経験を利用して病気のふりをしていた。症状さえ合致していれば医師は入院させるだろう。
けれど今では本当の病人になってしまったかのように病的で狂気じみている。
罪に問われるのが嫌であれほど退院したくないと訴えていたのに、逮捕されてもいいから急に連れて帰れと言い出して滅茶苦茶だ。
姉は本当に心を病んでしまったのかも知れない。
「でも、姉さん……。それは……因果応報だよ」
誰も居ないだだっ広い廊下。一人呻くように呟く。その声も高い天井に吸い込まれ、やがてフッと消えてゆくようだった。
――その日から六日後、姉が死んだ。
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