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50. 間引き
しおりを挟む川西に言われたのだろう。事務室から飛び出した事務長は、急いで玄関を閉めに走って行った。
閉ざされた玄関の自動ドアに休診の札が掛けられているのを尻目に、私は足音を忍ばせて病棟へ繋がる階段を登る。
最後にどうしても、詫間千蔵に会っておきたかった。
ナースステーションでは階下の変事を知らない井川と大山が、談笑しながらカルテを書いている姿が見えた。
もうしばらくは出てきそうに無い事を確認してから、詫間の病室へと向かう。
目的の病室に辿り着くまで、いやに胸がざわついて不快だった。
つい先日訪れた時と比べ、病室の入り口に貼られた名札が一つ減っている。詫間の向かい側にあるベッドの患者が退院したようだった。
「詫間さん、詫間さん」
焦りを隠し、カーテン越しに小さく声を掛けると、詫間の驚いたような声が返ってくる。
「え? 誰だ?」
「神崎です」
淡い黄色のカーテンをそっと開ければ、詫間はテレビを観ていたようで、私の姿を確認するなり目を大きく見開いた。
「あれ? 今日はどうした?」
「実は……、今日で退職する事になったんです。それと、もしかしたらこの病院は……これから騒がしくなるかも知れません」
私の言葉の意味を正確に理解したのだろう。詫間は骨ばった喉を上下させた。
「それは……アンタが?」
訝しげな表情をこちらに向ける詫間は、以前私には深入りして欲しく無いと言っていた。
だからこそ、どうしても最後に挨拶をしておきたかった。もう二度と、会う事はないだろうから。
「違います。でも、これから何かが起こるかも知れません」
私も今はそれだけしか言える事は無い。
ふと、向かい側のベッドに目をやる。患者がいないその空間には、ガランとしたベッドや床頭台があるだけだった。
「あそこの奴も、二日前に死んだよ。あの日井川がゴゾゴゾやってたから、いつもみたいに間引きされたんだろうよ。可哀想になぁ」
そう言う詫間も、もうこの状況に慣れた様子だった。
その表情には悲しみというよりも、諦めのような色が強く見える。今後もし詫間が今よりも手がかかるようになれば、『間引き』されるのは詫間自身かも知れないというのに。
どうしてか、そんな事は夢にも思っていない様子だ。
詫間もこの異常な状況に晒され続ける事で、正常な判断を失い、感覚が麻痺しているのだろうか。
「詫間さん、どうかお大事に。お世話になりました」
「ああ、寂しいけど。きっとその方がいい」
このまま詫間を置き去りにする事に罪悪感を感じたけれど、当の詫間は私の考えを読んだのか、それとももう諦めているのか……じっと目を見て一つ頷いてみせた。
病室を出た私は急いで休憩室へ向かう。幸運な事に、誰にも会う事は無かった。
私物をほとんど置いてなかったロッカーを閉め、職員玄関から駐車場へと駆ける。
早くこんな場所から離れたかった。ここに杏奈がいる事を考えるだけで嫌な気分になる。
とにかく、この場所に渦巻く狂気が怖かった。
「はぁ……はぁ……」
車に乗り込んで素早くエンジンをかける。同時に、思わず二階のナースステーションにある窓を見上げてしまった。
初日に、井川らしき人物がこちらを見下ろしていたあの窓だ。
「う……っ」
同じ窓から、井川がこちらを見下ろしている。
金髪、見慣れたシルエット。今度こそ見間違える事はない。
表情までは見えないが、確かにこちらをじっと凝視しているように感じて、急いで車を発進させる。
医院から離れてしばらく経っても自分の息遣いが耳障りなほどに乱れ、なかなか落ち着く事が出来なかった。
何度も運転し慣れた道のりのはずが、今日は随分遠くに感じる。
まだ昼前ではあったが、保育園にカナちゃんを迎えに来たのだった。
今のうちならば、杏奈はまだめぐみ医院にいるはずだ。
いつもと違う時間に迎えに来た事にカナちゃんは驚いていたが、すぐに嬉しそうな顔をして飛びついて来る。
連絡も無く迎えに来たので、せっかくの給食を無駄にする事になってしまった。驚いた様子の先生には適当な理由を告げて謝って、とにかく自宅マンションへと急いだ。
玄関の鍵をしっかりと閉め、リビングに入るなりすぐに新一に電話をする。
まだ正午は来ていない。恐らく仕事中のようで繋がらなかったが、また昼休みにでも掛け直してくるだろう。
「いっちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
帰るなりソファーに座る事もせず、立ったままだった。その足元で不安そうな表情をしたカナちゃんに言われ、初めて自分が涙を流している事に気づく。
これは度が過ぎた恐怖のせいか、それとも安堵からか……自分でもよく分からないまま、制御不能となった涙腺から次々と涙が溢れてきた。
「大丈夫……大丈夫だよ。カナちゃん」
しゃがみ込み、カナちゃんの頭を優しく撫でながら、澄んだ瞳を覗き込む。
「いっちゃんの、いたいのいたいのとんでいけー」
カナちゃんの小さな手が、掛け声と共にふわっと頬に触れる。それをきっかけにして、私は小さく温かな身体をぎゅっと抱きしめた。
私よりも体温が高いカナちゃんの身体は、突然の抱擁に驚いたのか、固く強張っている。
「ごめんね。少しだけぎゅってさせてね」
「うん、いいよ」
そうしてしばらくの間カナちゃんの体温に安らぎを分け与えてもらい、やっと気持ちが落ち着いた。
給食を食べ損ねたカナちゃんに手早く作った食事を食べさせていた頃、新一から折り返しの電話が鳴った。
杏奈がめぐみ医院に来て、院長を脅迫していたという事実を伝える。
新一によれば、杏奈は大した現金も持たずに家を飛び出したきりで、金に困って手っ取り早く院長を脅迫する事にしたのだろうと。
以前にもそのような計画を口にしていた事があったと言う。
そういえば結城を傷つけた事で、被害届が出ているはず。杏奈がめぐみ医院に来た事を警察に通報すれば、もしかして逮捕されるのではないか。
あの時は川西の話に衝撃を受けて狼狽してしまったから、そんな簡単な事でさえ思いつかなかった。
「俺が……通報するよ」
「いいんですか?」
「元はと言えば俺にも責任があるから」
結局新一は暗い声のまま、私との通話を終了した。
私はすぐにめぐみ医院の看護師達を着信拒否し、勇太が帰るまでの時間をカナちゃんと過ごす事で気を紛らわせた。
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