かわいい猛毒の子

蓮恭

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49. 毒薬

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 あれから二日間、カナちゃんの送迎と仕事以外は外出せずに警戒していた。新一も杏奈からの連絡が無いと言うし、日を追うごとにじわじわと焦燥感や不安感募ってきている。
 
 今日は雨が降っているせいか外来患者が極端に少ない。私は診察室に隣接する処置室で、院長と患者のやり取りに耳を傾けながら物品の補充作業をしていた。

 前の患者が帰ってから十五分ほど経った頃、診察室を担当していた浅野師長が次の患者の名前を呼んだ。
 
「佐藤杏奈さーん、診察室へお入りください」
 
 思わず薬液のアンプルを持った手が止まる。『杏奈』という名前はそう珍しいものではない。
 けれど、杏奈の苗字を私は知らない。まさか職場に現れるとは思ってもみなかったから、完全なる不意打ちで胸が激しく鼓動し始めた。

 いや、まだ佐藤杏奈があの杏奈だとは限らない。とにかく診察の様子を窺って、処置室に入ってくるようならばトイレにでも行ってやり過ごそうか。
 そんな風に頭の中でシミュレーションしていると、事態は思いがけない方向へと急展開する。

 診察室には浅野師長、処置室には私しかいない状況で、聞こえてきたのは耳を疑うような言葉だった。

「院長さん、私と取引しませんか? 私、この病院の秘密を知ってるんですよ」
 
 その声は確かにあの女……杏奈のもので、私は無意識にブルリと背筋が震える心地がした。
 
「佐藤さん、何を……」
「この病院、看護師が患者を殺してるんですよねぇ?」

 いつかと同じ杏奈のまとわりつくような声色は、どこか得意げでもあった。
 
「院長! 佐藤さんとは別室で話をした方が良いと思います!」
 
 慌てた様子の浅野師長は、やはりその事実を知っていて隠そうとしているのだ。
 院長も杏奈に対して「詳しくは院長室で話しましょう」と提案し、浅野師長共々診察室を出て行ってしまった。

 思いもよらない状況に、頭の理解がついていかず、空になった診察室をそっと覗いた。
 同じタイミングで診察室の向こう側にある事務室からも、事務長がひょっこり顔を覗かせていた。
 
「神崎さん、何かあった? すごい浅野師長の声が聞こえたけど……」
「いや……私も分かりません」
「そう」
 
 それだけ言ってまた向こうに引っ込んだ事務長は、事態にまだ気づいていないようだ。そのうち医療廃棄物を倉庫に運んでいた川西が戻ってくる。
 
「あれ? 院長いないの?」
「あの……何かおかしな事を言う患者さんが来て。院長と浅野師長さんが院長室へ……」
「なに? またヤクザ?」
 
 辟易とした様子の川西は、またガラの悪い患者が来て何だかんだとイチャモンをつけているのではと思ったらしい。

 川西は全てを知っているのだろうか。この際直接ぶつけてみようと、先程聞いた事をそのまま口にした。
 
「いや、なんか看護師が患者を殺してるとか何とか……。それで浅野師長が別室に誘導したみたいで……」
 
 私の言葉に一瞬フリーズした川西は、一度天井を仰ぎ見る。やがて顔を床に向けて口を尖らせたと思えば、そこから大きく息を吐いた。
 何か大きな事を決心したようなその姿に、こちらも思わず唾を飲み込んだ。
 
「神崎さん、もう私は今日でここを辞めるから。あなたもさっさと辞めた方がいいわよ。巻き込まれないうちにね」
「川西さん、何か知ってるんですか?」
「あなたこそ、何か知ってるの?」
 
 もう二度とこんな機会は無いかも知れない。どうせ自分も姉の事が分かればここを辞めるつもりだった。
 思えば川西は他の看護師と違って、どこか一線を引いているような気がしていた。もしかしたらずっと他の看護師の悪事に悩んでいたのかも知れない。
 
「多分……、ほとんどの事は知っていると思います。実は、以前ここで働いていた高井詩織は知人なんです。その高井から聞きました」
 
 流石に姉だとは言えず、知人だと話した。私も秘密の共有者だと分かった途端、川西はどこか吹っ切れた様子で肩の力を抜く。
 
「そう。私も……もうこんなところ、さっさと辞めれば良かった。口止め料代わりに給料だけは桁違いに良かったから。ついつい辞めどきを誤っちゃったわ」
「外来も……関係してるんですか?」
「病棟と外来、両方の在庫管理は浅野師長がしてるでしょう。薬液も、ね」
 
 川西は辞めるついでに全部を誰かに吐き出して、楽になりたいのかも知れない。
 諦めたような、脱力したその表情は、生気がまるで感じられなくなっていた。

「これ、頭が痛くて嫌いだったの。男のあなたは着けなくてもいいから羨ましかったわ」

 そう言っておもむろにピンを抜き、ナースキャップを外す。川西は心底忌々しいとばかりにポイッと床に放り投げた。
 
「こんな時代遅れの事を当然に思ってるような場所で長年働いていると、他には行けないのよ。古い人ばかりで仕事してるから、そのうち何もかも慣れちゃうのかしらね」
 
 川西の言葉が何を指しているのか、はっきりは分からない。
 だからといって口を挟める雰囲気でもなく、黙って川西の動向を見守っていた。

 床の上に転げ落ちたナースキャップはそのままに、スタスタと私の横を通り過ぎた川西は、普段の業務で使わない場所にある引き出しを開ける。
 
「ほら、こんなものが外来にある事がまずおかしいでしょう。それなのに見て、こんなに沢山あるの」
「KCL……」
 
 病棟に勤務していた頃、絶対に扱いを間違えないように何度も高橋主任に注意された、塩化カリウム製剤だった。

 この薬液を急速又は過量投与する事により、高カリウム血症という状態になる。そうするとやがて心停止が起こり、患者は死亡するのだった。
 
「何故、こんな事が出来るんでしょう……」

 そこにあるKCLだって、普通は人を救う為の薬剤として使われる物だ。
 しかしここでは恐ろしい毒薬として使われている。
 
「神崎さん、来たばかりのあなたには理解出来ないと思う。私も分かりたくない。でも、長くこんな場所で働いているとね、麻痺してくるの。面倒な作業は省けばいい、どうせここに来る患者達は誰も文句なんて言わないって」
 
 今その引き出しの中にあるKCLは、罪もない患者の命を奪う為にそこで出番を待っていた。
 前の職場でも見慣れた薬液のはずなのに、外来に隠されるようにして保管されていたそれらは、ひどい禍々しさを帯びて存在している。
 
「最初は夜勤の仕事を日勤が少し手伝うところから始まった。そのうち、夜勤がするはずの夜中の巡回が面倒だからという理由でしなくなった。当然、朝までオムツ交換もしないの」
「それはひどい……」

 信じられない事だった。しかし反面納得出来たところもある。
 オムツを着けなければならない寝たきり患者のケアも放置していたとなると、異常にひどい床ずれの患者が多い事も頷ける。汚れたままで体の向きも変えずに朝まで放置されたら、状態が悪化するのは当然だ。

「酷いわよね。それでもここに入院するような患者は訳ありの人が多いから、誰も文句を言わない。そういえば……」

 川西は古い記憶を辿るように視線を遠くに向けた。

「前に朝の検温に回ったら、冷たくなって死んでたって患者もいたわね。夜中の巡回をしないんだから、その間に死ぬ事だってあり得る話よ」

 言葉を失った。

「それがきっかけになって、『夜勤で急変したら面倒だから、危なそうな患者の死期を調整しよう』と誰かが言い出した」

 瞼がカァーッと熱を帯びる。川西の言葉の終わりの方が、ひどく遠くの方で聞こえた気がした。
 
「まさか……本当にそんな理由で?」
「そう。一人で勤務する夜勤で死なれると面倒だからって。『それなら昼間の内にエンゼルケアを済ませておけば、夜勤さんが助かるよね』って誰かが始めたの」

 これは本当に現実の話なのだろうか。今の日本で、行われている事とはどうしても信じられないほどの衝撃を受けた。

「最初はね、本当にいつ亡くなるか分からないような衰弱した患者だった。そのうち、寝たきりで手間のかかる患者の中から定期的に選ばれるようになった」
 
 それはつまり、急変する様子もない患者でも寝たきりで手がかかるというだけで、本人の意思とは関係なく生命を奪われていたという事だ。
 
「そんな……」
「段々と麻痺してくるのよ。あなたがここのガラス製の注射器の扱いに慣れたように」

 今時ガラス製の注射器を繰り返し使っているなんて、と思っていたけれど、言われてみれば今ではその扱いにも慣れて割ることも無くなった。

「そのうち日勤と夜勤の申し送りで『あの人、日勤でおきましたから』なんて事も言っていたらしいから。悪気なんて一切無いの。ただの業務の一環としてやるようになったみたい」
「川西さんは……関係した事があるんですか?」

 驚くほど声が掠れていた。口の中が渇き、舌が張り付く。
 
「いいえ、私はいつも傍観者だった。助ける事も出来ずに、口止め料代わりに破格の給料を貰って。でも、それだって罪と言われれば罪よね」

 川西は呆れ笑うような表情を浮かべた。

「川西さん……」
「今すぐここを辞めて、私は知らないふりをするわ。だって直接手を下したりはしていないもの」
 
 今日の川西はこれまでとは別人のようによく喋る。投げ捨てたナースキャップと一緒にタガが外れたように、置き土産でもするかのように、このめぐみ医院の暗部をつらつらと語った。
 
「私は事務長と話してくるわ。あなたももう帰りなさい。二度とここへ来ては駄目よ」
「でも……」
「誰もあなたや私を責めたりしない。そんな事出来ないわ。いい? 今すぐにここを去るのよ」
 
 そう言って川西は診察室へと向かう。その背中を視線だけで追うと、悠然と診察室を横切り事務室へと入って行った。

 私はしばらくその場から動けないでいた。

「行かないと……」

 ここに居たらダメだ。

 床の上に置き去りにされた川西のナースキャップはそのままに、のろのろとした足取りで動き始める。
 真実を目の当たりにして驚いた心臓が、さっきから身体をブルブルと揺するような気さえしていた。

 処置室を進み、廊下まであと二、三歩というところまで進んだ時、事務室の方から上がったざわめきが耳に届く。

 思い至って待合室の方へと静かに足を進め、素早く目視で確認する。
 幸いにも朝から降り続く大雨のせいか、診察を待つ患者は一人もいなかった。


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