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43. 神崎伊織の秘密
しおりを挟む「伊織、『ゆうちゃん』って誰なの? あなた、一人暮らししてたんじゃなかったの? 全く……恋人がいるならどうしてお母さん達に紹介しないの」
カナちゃんが勇太の事を口にした時に不在だった父は、母の言葉を黙って聞いている。
父の眉間の皺がじわりじわりと深くなっている気がして、思わずため息が出そうになった。
「言えないよ……きっと否定されるから。それでも、いつかは話そうと思ってたんだけど。でもカナちゃんの事や姉さんの事で、なかなか話せる機会が無かったし」
いかにも生真面目な教頭先生らしく腕を組み、こ難しい顔をしている父は、意外にもまだ口を開くつもりが無いようだ。
母は一度父の方へと振り返る。未だ父が口を開く素振りを見せない事を確認すると、二、三度咳払いをして自ら質問を投げかけた。
「いつからのお付き合いなの? 結婚は? いつの予定?」
矢継ぎ早に質問をしてくる母とは対照的に、父は黙って私と母の話に耳を傾けている。
父がこういった状況で沈黙するのは、非常に珍しい事だと思った。
それにしても、予期せずこの日が来てしまった。いつかは来るだろうと思っていたけれど、あまりに突然過ぎて、まだ心の準備が出来ていない。
姉の事を『失敗作』と言う母。今から話す事を聞いたなら、私の事も『失敗作』だと言うのだろうか。
「カナちゃんが生まれるより前からだよ。でも、その人と結婚は出来ない」
そう、いくらお互いを想っていても、私と勇太は結婚出来ない。
「まぁ、どうして? まさかお相手は既婚者だとか言うんじゃないでしょうね⁉︎ だめよ、そんな非常識な! 不倫なんて最低な行為で、それこそ訴えられたりしたらどうするの⁉︎」
ほら、こんな風に何でも決めつける母にとって、私が既婚者と不倫するのと、決して夫婦になれない恋人関係を死ぬまで続けるのならば、どちらが非常識なのだろう。
「非常識……ね」
そうかも知れない。
ずっと言えなくて勇太との事は隠していた。親だけでなく、周囲にさえ大っぴらに話せなかった。
だけど今、目の前で顔を真っ赤にして何やら私に向かって講釈を垂れている母に、私の『秘密』を話したらどんな顔をするのだろうか。
「伊織、あなたちゃんと聞いてるの? そんな笑ったりして」
言われて自分でも驚いたが、どうやら私は笑っていたらしい。
物心がついた頃から私は人より劣等感が強い。そのせいで他人の事はおろか、自分の事すら好きにはなれなかった。
自由奔放な姉と比較され、母は姉の時の失敗を取り戻そうと躍起になって私を抑圧した。『大人になって困らないように』と、度々言われて育ってきた。
その私が今、母の期待を大きく裏切ろうとしている。
「不倫なんかしてない」
武者震いというのはこれか。
身体や手が自分の意志に反してブルブルと震えている。
今まさに両親に向かって『秘密』を暴露しようとしている私は、大量のアドレナリンが放出されている状態だ。
怒りのような、緊張のような、こんな風に気持ちが昂った事など無かったように思う。
「私と勇太は日本の現行法では夫婦になれないだけ。相手は宮部勇太っていう男性だから」
とうとう両親に私の真情を吐露した。
ハッと息を呑んだ母は、口を卵のような形にして凍りついている。父はというと、驚愕に目をギョロリと剥き出して固まった。
「嘘でしょう……。どういう事なの……」
「嘘でもなんでも無いよ。この国じゃ男同士で結婚出来ないでしょ。母さんは姉さんの事『失敗作だ』ってよく言ってたけど、こんな私の事も『失敗作だ』って言うの?」
「そんな……まさか」
母はずっと口元に手を当てて、その手も身体も小刻みに震えていた。
先程私が感じた武者震い、恐らく母もその状態なのだ。向き合った二人が、別々の感情で同じ武者震いをするなんて不思議だった。
徐々に頭が冷えてきた。この場で自分だけ冷静なのが、何だか滑稽だった。
「伊織……お前、ゲイというやつなのか?」
父がやっとその口を開いた。掠れた声で尋ねられた言葉に思わず顔を顰めた。
「いや、別に元々男が好きな訳じゃないよ。勇太だから好きになっただけ」
両親が面食らった表情をすればするほど、私は余計に可笑しくなってくる。
あぁ、どうしてこんな簡単な事をもっと早く言わなかったんだろう。
もう社会で自立する年齢にとっくに達している今、両親に嫌われようが縁を切られようが構わないのに。
「ごめんね、姉さんみたいに孫は与えてあげられない。だからもしこんな『失敗作』は要らないっていうなら、二度とここには来ない。でも、一つだけ頼みがあって。姉さんの事なんだけど……」
「詩織の事? なに? 詩織に何かあったの?」
流石に『失敗作』とはいえ、娘の事は心配らしい。母は正直なだけまだ分かりやすい、そこに悪意は無く本当に世間知らずなだけなのだ。
「姉さんはあそこを退院する気は無いって。病状もまだ良くないみたいだし」
「まぁ! 本当に? それは困ったわね」
「だからカナちゃんを父さんと母さんの娘として、特別養子縁組をして欲しい。あとは私がカナちゃんの面倒を見るから。お願い、戸籍上だけ、カナちゃんの両親になって。姉さんの許可は貰ってる」
両親もある程度は姉の病状に関して想像していただろう。
姉からも両親が面会に来たという話は聞いていないが、こんなに長く入院しているのだから簡単に良くなるとは思っていないはずだ。
けれどまさかカナちゃんと特別養子縁組をしろと言われるとは予想だにしなかったと思う。
現に母は父の方を見て、その結ばれた口元が動くのを待っている。父の方は突然の事に戸惑っているのか、じっと私の方を見つめて微動だにしない。
やがて痺れを切らした母が父の肩を揺すると、父はやっとの事で口を開いた。
「……お前に言われなくとも、近々そうするつもりだった」
「え?」
「詩織の病状は病院で聞いた。新一くんと離婚してからは、病院からこの家に何度も呼び出しの電話が掛かってきたからな。いつまでも独身のお前に、姪っ子の面倒を押し付けるわけにはいかんだろう」
父の言った言葉が未だにきちんと飲み込めず、今度は私が言葉を無くしていた。
そんな私を置き去りにして、父はどんどんと話を進めていく。
母は居心地が悪そうに視線を下げて、ただただ小さくなっていた。
「今まで、教育者として……仕事には命を削る気持ちで打ち込んできた。その代わり家の事は母さんに任せっきりで、それでも上手くやっていけると思っていたんだ」
そこで父は言葉を切った。
「しかしそうじゃなかった。だから今になってそのツケが回ってきた。それだけだ」
続けた父の言葉は、決して優しいものではない。
ツケが回るという表現に、私の突きつけた事実が俄には受け入れ難い事だという本心が見え隠れしている。
だけど、カナちゃんの事さえ何とかなるならば、あの子にさえ安全な居場所が出来るのならば、自分は両親から見捨てられたとしても構わない。
「じゃあカナちゃんの事、特別養子縁組してくれるって思っていいの?」
「ああ、手続きが出来次第な」
いつの間にかガチガチに固く強張っていた肩の力が、一気にスッと抜ける。
「良かった……」
吐く息と一緒に漏れ出た言葉。
幼少期から存在を感じていた重い錘が、ガチャリと外されたような気がした。
これから自分は、何処へでも行けるのだという全能感に満たされる。
「ありがとう、父さん。母さんも」
長らく見せていなかった心からの笑顔を添えて、両親に感謝を伝えた。素直な気持ちで自然と口に出来た事に、自分でも驚いた。
けれど父は複雑な表情を浮かべただけで返事をしない。
母に至っては、今から飼い主に怒られる事が分かっている犬さながらに、分かりやすくシュンとしている。
当然だ。この秘密を暴露する事ですっきりしたのは私だけなのだから。
「親不孝者でごめんね。でも今私は……確かに幸せなんだ」
それだけ伝えると、沈黙を貫く両親を残して席を立つ。
私はきっと姉と同じで、ひどい親不孝者なんだろう。
だけどこれまでに感じた事がないほど、憑き物が落ちたみたいに明るく穏やかな気持ちになった事は確かだった。
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