かわいい猛毒の子

蓮恭

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32. モンスターペイシェント

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 めぐみ医院に勤めて一ヶ月、そうは言ってもパートの私は毎日出勤する訳ではない。
 それでも戦前のような注射器を扱うのにもだいぶ慣れてきた。慣れないのは使い終わって血液の付着したガラスの注射器を、ブラシで簡単に洗って汚れを取るだけで、何十年も前から使っている古い滅菌の機械へ入れる事。
 そしてそれをきちんと滅菌出来ているかどうか分からないまま、次の患者に使わなければならないという事への葛藤だ。

「神崎さん、悪いんだけど今日は病棟の手伝いに行ってくれる? 急に日勤さんが一人お休みになっちゃったのよ。外来は私と川西さんで何とかするから。よろしくね」
 
 出勤するなり浅野師長にそう言われて、二階の病棟へと上がる。これはチャンスだ。
 
 病床は十九あるが今は十五床が埋まっていた。後の四床が例の病棟看護師用の昼寝ベッドとなっている。
 多い時には満床になることもあるそうだが、そんな時には皆自分の車で過ごしたり休憩室で過ごすという。
 それなら普段から病室のベッドなんて使わなくてもいいんじゃないかと思ったが、昔からそんな風にしていると言っていたから変わることは無いのだろう。

「あー! 神崎さん、ヘルプですか? ありがとうございますぅ」
「お疲れ様です。まだ慣れてないので、お手数ですが指示をお願いします」
 
 今日の日勤は井川と大山、それと欠勤になった吉村だった。大山は相変わらず無口で、私が挨拶をしても会釈を返すだけだった。
 表情はそう嫌な感じでも無いので、恐らくそういう性質なのだろうといちいち気にしない事にした。
 
「じゃあ点滴の準備を……」
 
 そう井川が言った時、黙々と仕事をこなしていたはずの大山が厳しい声を上げた。しかも割と大きめの声で。
 
「井川さんっ! 今日は……っ!」
「え? あっ! そうだった!」
 
 大山の声でハッとした様子の井川も、「しまった」というように顔を顰める。
 
「神崎さんにはバイタルチェックに行ってもらいましょう」

 先程の声とは打って変わって、落ち着いたトーンに戻った大山の提案に、井川も大きく頷く。
 
「そうそう! やっぱり点滴は私が準備するから、神崎さんはバイタルチェック回っててください」
「……分かりました」
 
 前に病棟の手伝いに上がって来た時もバイタルチェックをしたので手順は分かる。二人の様子に違和感を感じながらも、個室から順番に回る事にした。
 
「おはようございます。小林さん」
「あぁ、神崎さん……だったかしら? おはようございます」
「神崎です。覚えて貰えて嬉しいです。お熱と血圧を測りますね」
 
 三床ある個室のうち三号室に入院中しているのは、ニコニコと可愛らしいおばあちゃん。誤嚥性肺炎の治療で入院中の患者だった。
 看護師の名前をすぐに覚えて挨拶の時に呼んでくれたり、清拭や洗髪を手伝うと何度もお礼を言ってくれるのが印象的な人だ。
 
 めぐみ医院には交通事故で入院している患者も多いが、そういう患者は比較的短期で退院し他の患者に入れ替わる。
 前回手伝いに上がって来た時と比べると三分の一くらい患者が入れ替わっていた。

 交通事故で入院する患者の中には広範囲に刺青があったり、入院する前から腕に注射の痕が大量にあるような人も多かった。
 そういえば外来に来るのもそういう類の患者が多い。地域性なのか、それとも院長の方針なのかは分からないが、何らかのトラブルもあり得そうだ。

 そう思った矢先、早速私は信じられないものを目にする事になる。
 
「すみません! 院内で喫煙は禁止です」

 大部屋へ入ってすぐに強いタバコの匂いがした。

 慌てて近寄った窓際のベッドの患者は、二階の窓から腕を出して外に向けて灰を捨てている。
 
「あぁ? お前新人か? よく見ろよ。院内じゃなくてコレは窓の外だ。外なんだからいいだろ、別に」
 
 確かその下は医院の裏手で、普段の人通りなどは無いものの、庭木もあるし万が一の事があると大変だ。
 そう思って角刈りで強面の中年男に食い下がる。
 
「いや、困ります。敷地内禁煙ですから窓の外も禁煙です。火事にでもなったら大変な事ですし、すぐに火を消してください」
「はぁ? 今吸い始めたばかりなのに、お前何言ってんだ? そもそも、俺が誰か知らねぇのか?」

 男は典型的なセリフを吐き、顎を突き出しながら威嚇してくる。
 
「牛尾道夫さんですよね。知ってます」
 
 交通事故による頸椎捻挫むち打ちで入院中の患者だった。
 カルテによると、今までに何度も交通事故で入院していた記録がある。

 病棟の助っ人でしか無い私にとって、入院患者のカルテ内容を全て覚えるのは難しいにしても、せめて病名くらいは知っていないときちんと接する事が出来ないと考えた。
 だから巡回前に、全ての患者の病名や簡単な病歴などはチェックしていたのだった。
 
「俺が誰か知ってるのにそんな口を叩くのか? こっちは院長の許可を貰ってるんだよ! 『たまにならいいですよ』ってちゃあんと言ってもらってんだからな!」
「そんな……」
 
 思わぬ牛尾の返答に返す言葉を失った私は、騒ぎを聞きつけて病室に駆け込んで来た井川と大山が、牛尾にペコペコと頭を下げているのを見て悟る。

 あぁ、なるほど。此処はこういうところなんだ。
 
「おい、そこのガキに土下座で謝らせろよ。ちゃんと教育出来てねぇぞって院長にチクってやろうか?」
 
 絵に描いたようなモンスターペイシェントが本当に存在するなんて。

 前の職場でも全身に刺青の入ったような患者はいたけれど、彼らは総合病院という場所で治療を受ける為に、より一層行動に気をつけていた。
 勤めていた病院では反社会的勢力に対する基本方針が定められており、それはきちんと明示されていたからかも知れない。

 けれど、この医院ではこれが当たり前なんだろう。これじゃあまともな神経の看護師では務まらない。
 ここでは常識とか、良心というものを捨てなければならない。そうじゃないと心が壊れてしまうのだ。
 
「……事情を知らず、申し訳ありませんでした」
 
 なるべく平坦な声を心掛けた。だがそれが相手を逆上させるなんて思ってもみなかった。

「おい、不満そうだな?」

 牛尾はタバコを窓の横にある共用の洗面台に投げ捨てて、顔を真っ赤にする。そして唾を飛ばしながらこちらへグイッと迫って来た。
 
「マジで気に入らねぇ! そのツラ、まるで俺のことを馬鹿にしてるみてぇだな!」
 
 その瞬間、乾いた音が響く。

 気づけば頬が物凄く熱くて、病室のくすんだ床に平伏していた。
 殴られたのだと気づいたのは、井川と大山が悲鳴を上げながら「さすがに暴力はやめてください!」と叫んでいたから。

 信じられない。開業医というのはこんな場所だったのか? 姉さんはこんな場所で働いていたのか?

 もしかすると自殺した同僚も、こんな目に遭っていたのだろうか。
 
「クソガキが! お前は二度と顔見せんな」
 
 さすがに手を出した事はマズイと思ったのか、牛尾はカーテンをシャッと引いて、その中で悪態を吐いている。
 
 井川と大山は私を引きずるようにして病室から飛び出す。

 その間、同室の患者はカーテン引いたまま息を潜めているようで、これまで誰一人も声を上げなかった。
 整形外科の病室で交通事故の患者ばかりだったから、また早々に退院するかも知れない。

「お騒がせしてすみません……」

 去り際、同室の患者に向けた言葉は届いただろうか。後に感じた自分の未熟さと、どこにもぶつけられない怒りで頭がいっぱいになった。
 




 

 
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