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29. 仮初の家族
しおりを挟む家事と買い物を済ませ、夕方にはカナちゃんを保育園に迎えに行く。
迎えの際には帰りの会をする教室の前に多くの母親や父親がいて、中には祖父母のような年配の人も見える。
私は特に親しく話すような間柄の人はいない。けれど周囲はといえば、カフェやファミレスでよく見かけるように、母親同士固まって楽しそうに話をしていた。
それとは対照的に、我が子を迎えに来た父親や祖父母などは黙って会が終わるのを待っている。私もそこに混じってカナちゃんが飛び出してくるのを待った。
「いっちゃーん!」
勇太が選んだ花柄のスモックを着て、小さな通園リュックを背負ったカナちゃんが教室から飛び出してきた。
担任の先生は順番に園児たちにさよならの挨拶をしているようだ。
「カナちゃん、先生にさようならした?」
「したよー! ねぇねぇ、今日はお買い物行く?」
「うん、行くよ」
「やったー!」
近頃カナちゃんはスーパーへお買い物に行くのがとても楽しいらしい。
買い物へ行ってお菓子や玩具を買う訳ではなく、魚売り場にある生け簀を見るのが一番の目的だった。
それさえ見られれば買い物中も無理を言ったりせずに、じっと私から離れる事なく歩くカナちゃん。あんまり聞き分けがいいものだからつい「お菓子、一つだけ買ってもいいよ」と言ってしまう。
私が夕飯を作っている間に大概はリビングで一人遊びをするカナちゃんは、勇太が帰宅して玄関の鍵が開く音を聞きつけて、突然ダダダッと走ったかと思うと飛び跳ねるようにして出迎えるようになった。
「ゆうちゃ! おかえりー!」
「わぁ、お迎え嬉しいなぁ。ただいま、カナちゃん」
「抱っこー!」
そんな声が聞こえたら、しばらくしてカナちゃんを抱っこした勇太が嬉しそうに会話をしながらダイニングへ姿を現すのが日課になっている。
「ただいま、伊織」
「おかえり。もうすぐご飯出来るよ」
まるで本物の家族のような生活に私は居心地の良さを感じていて、それは勇太も同じ気持ちのようだった。
カナちゃんも、実家で母親によって厳密なスケジュール管理をされていた頃よりも、すこぶる機嫌が良い。
少し前までは俗に言う魔の三歳児というやつで随分と母親は大変そうだったのに。
幸いにも保育園の生活にはすぐに慣れたし、この頃のカナちゃんには毎日どこかしらの成長が感じられた。
「それで、面接どうだった?」
保育園でたくさん遊んで疲れ過ぎたのか、珍しくぐずるカナちゃんを寝かしつけた後にリビングへ行くと、勇太がテーブルの上のノートパソコンを閉じて尋ねてくる。
「うん、急だけど人手が足りないみたいで明日から行く事になった。ただ、前の病院とはだいぶ勝手が違いそう」
「大丈夫? 俺は伊織が変な事に巻き込まれたりしないか心配だよ。だってもし本当にお姉さんが何か犯罪のような事をしていたんだとしたら……。自殺した同僚っていうのも気になるし」
「平気。カナちゃんの為にも、姉さんが何であんな風になったのかを調べないと。いつまでもあんなところに入院していて、姉さんにとってもいいわけがない」
勇太は少し困ったような顔をしてからソファーをポンポンと叩いて、隣へ座るように促した。
「あのさ、俺カナちゃんがここに来てから毎日が楽しくて。幼い頃の妹とカナちゃんを重ねて見ちゃってるといえばそうかも知れないけど、とにかくあの子がめちゃくちゃ可愛いんだよ」
「うん、勇太は子ども好きだもんね。カナちゃんだって勇太の事を大好きで、保育園に行きはじめて実家でいた時よりも機嫌が良いし。何よりのびのびしてる」
「俺さ、このまま三人でずっと暮らせたらいいのにって思っちゃって……」
「勇太……」
実は私もカナちゃんと三人で暮らすこの生活が楽しくて、毎日が新しくて幸せだった。
元々姉は母親らしくない人だったし、方法はどうあれこのままカナちゃんを引き取ってもいいんじゃないかと思ったりもした。
でも同時に考えるのは、実の母親と離れて私達と暮らす事で、カナちゃんが周りからどう思われるのかという事。
一時的ならまだしも、ずっととなると成長するにつれ本人の気持ちだって大事だろうし。そう簡単に決められる事では無かった。
「ごめん、伊織の心配してる事は分かるよ。今は幼いから分からなくても、これから大きくなったカナちゃんが俺達の事をどう思うかも分からないし。ただ……俺は本当に心からそう思ったんだ」
「ありがとう。カナちゃんをそんな風に大切に思ってくれて」
ガッチリと逞しい勇太の身体にそっと頭を預けると、勇太は優しく肩を抱いてくれた。
温かく包み込むようなこの人の優しさを、姉が本当に罪を犯していた時には、迷わず手放す事なんて出来るのだろうか。
いつも支えてくれる勇太という存在は、既に私の心の深いところまでズブズブと突き刺さってしまっているのに。それを無理に抜けばきっと、私はとても無事ではいられないだろう。
「カナちゃんも大事だけど、俺にとっては伊織は一番大事な人だから。新しい職場でお姉さんの事を探るにしても、くれぐれも無理しないで。何かあったら絶対相談してよ」
「うん、いつもありがとう」
明日から私はめぐみ医院に勤務する。不安が無いわけがない。不安だらけだ。
初対面でハラスメントの宝庫のような印象を与える院長と、どこか陰鬱な雰囲気の医院、あの窓から外を見下ろす井川という看護師の姿が思い出された。
けれど何があっても、カナちゃんの事は守りたい。その為なら、辛い事があったとしてもきっと頑張れるから。
勇太の肩にこめかみを預け、少しの間目を閉じた。
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