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18. 赤い服、青い服
しおりを挟む実家に着くなりカナちゃんの泣き声が聞こえてきた。ただの泣き声というよりは、必死で何かを訴えているようだ。
「やだ! 赤いのやだ!」
「もう、カナちゃん! カナちゃんは女の子なんだから赤でいいのよ。どうして無理ばっかり言うのかしらねぇ」
「わたしは青がいいの! 赤はやだ!」
声が聞こえてくる方へと足を進めると、肌着とパンツだけで座り込むカナちゃんがいた。
母を前にくしゃくしゃの泣き顔で小さく可愛らしい握り拳を作るカナちゃんは、私に気付くと潤んだ瞳をぶわりと大きくさせる。
「カナちゃん、一体どうしたの?」
「いっちゃん! わたし青がいい!」
言いつつ駆け寄ってくる姪っ子は、肩下まで伸びた髪の毛を二つに結んで、それをまるで馬の尻尾のように跳ねさせ揺らす。
「お疲れ様、伊織。何とかしてくれない? カナちゃんったらこの赤いワンピースを着ないって言うのよ。女の子は赤が可愛らしいわよねぇ?」
どうやら今日着る服の色で言い合いをしていたらしい。
少し前からカナちゃんはイヤイヤ期というやつらしくて、ちょっとした事を嫌がったり言う事を聞かずに母を困らせているようだった。
「やだ! おひめさまは青の服着てた!」
「あれは服じゃなくてドレスでしょう。カナちゃんは青の服なんて持ってないじゃない」
「やだぁ! わたし、おひめさまと同じ青がいいよぉ」
確かに母はカナちゃんに赤やピンクの服ばかり着せていた。たまには違う色の服を着せたらいいのに、と言っても頑なに女の子らしい服にこだわっている。
そろそろ自我が発達し、自分の意見を懸命に言葉にして伝えようとする時期。母のように頭ごなしに否定してばかりでは到底上手くいく気がしなかった。
「カナちゃん、それじゃあ私と買い物に行って青い服を買おう」
「えー! 青い服? やったぁ!」
カナちゃんの小さな両手を握ると、フニフニと柔らかくて気持ちがいい。
手のひらにかなり汗をかいて湿っぽいのも、子ども独特の体温の高さからだろうか。けれど、これまで一度だってそれを不快に思った事はない。
「そんな風に甘やかして大丈夫かしら。詩織みたいになったら……」
不安そうに眉を顰める母は、本心から良かれと思ってこのような子育てをしているのだ。
情報と知識が偏っているお陰で、はたから見ればひどく極端ではあるけれど、この人なりには懸命に子育てをしている。
「母さんも毎日大変だと思うけど、あと少しの期間だから」
自然と寄り添うような言葉が口をついて出た。
「職場に退職届も出したよ。あと十日くらいは勤務表通りに仕事に行かないといけないんだけど。その間はカナちゃんの面倒を見てもらえないかな?」
「いいわよ。それにしても、案外早く辞められる事になったのね。私から頼んでおいてなんだけれど、伊織には悪い事をしたわ。せっかく新卒から勤めていたのに」
母なりに、ストレスと疲労が溜まって限界だったのだろう。先日よりは雰囲気が柔らかくなった気がしてホッとした。
私がカナちゃんを預かる事になって、少し気が楽になったのかも知れない。
「いいよ。今までの貯金もあるし、しばらくはリフレッシュの為にゆっくりする事にしたから」
「リフレッシュ……。いいわねぇ、お母さんも少しはお父さんと離れて一人旅でもしたいわ」
母は短大を卒業後、祖父母の決めた見合いですぐに父と結婚してからというもの、ずっと専業主婦をやってきた。
社会の常識や家族以外の多くの人と関わる機会もなく、父の扶養と実家からの援助のもと、そのまま年を重ねてしまったのだ。
考えてみればこれまでの母の人生には自由がなく、まるで籠の中の鳥のようだと思う。それでも、経済的には全く苦労していないという事は、人様から見れば幸せな人生なのかも知れない。
「カナちゃんがもう少し大きくなったら、一緒に旅行でも行こう。さすがに母さんの一人旅は心配だから」
再び、自然とそんな言葉が口をつく。
俯いた母が何だか急に年老いて見え、自分がこれまで見てきた入院患者の様子と重なった。
「あら、ありがとう。楽しみにしているわね」
そう言って笑った母の顔は、久しぶりに見る心からの笑顔だった気がする。
「じゃあ、カナちゃん。とりあえず赤いお洋服を着て、それから私とお買い物に行こう」
「お買い物、青い服ね! わたし、赤い服着るよぉ」
ぴょこぴょこと髪の毛を揺らしながら、そっと私の手を離したカナちゃんは、母の方へと駆けていく。
赤色花柄のワンピースを着せてもらって、足首のところにウサギの絵柄の入った白色のタイツを履いた。
確かに赤色の服を着たカナちゃんも可愛らしい。
「出掛けてる間、母さんはゆっくりしておいて」
「ありがとう」
お出かけ用のトートバッグには着替えやストロー付きの水筒などが入っている。ちょっとしたオヤツはカナちゃんの持つウサギの形をしたリュックに入れた。
「さぁ、カナちゃん頑張って」
張り切って靴を自分で履こうとするカナちゃんを見つめながら、自分も少し楽しみになって心が浮き足立っているのを感じた。
玄関のコートクロークの中に置いてあったジュニアシートを母が持ち、車の所まで送ってくれる。カナちゃんはあまり両親とは外出しないから、これを出すのは久しぶりのようだ。
「バァバ、いってきまーす!」
「気をつけてね、いってらっしゃい」
嬉しそうに足を揺らすカナちゃんを乗せて、ショッピングモールに向け車をゆっくりと走らせる。
「いっちゃん、楽しいねー!」
「そう? 良かった。もっと楽しいところへ行こうね」
「やったー!」
カナちゃんは鼻歌を歌いながら、ショッピングモールに着くまでずっとブラブラと足を揺らしていた。
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