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15. 恩人の言葉
しおりを挟むその日の夜勤は、偶然にも高橋主任とペアだった。新卒から五年勤めてきたこの病院を、近く退職するつもりだと一番に伝えたかった相手だ。
高橋主任は私の母と変わらないくらいの年齢だけれど、当然だが全くタイプが違う。
私にとっては頼りになる快活な上司で、新人の頃にプリセプターとして指導してくれた思い出深い先輩でもあった。
基本的に家族の話はあまり職場でしないよう努めていたが、高橋主任にだけは以前少しだけ相談をした事がある。
だからこそこの病院を去る前に、きちんと話をしておきたかった。
「主任、夜勤明けに申し訳ありませんが、少しお時間いただけませんか?」
無事に朝を迎えた夜勤の申し送り終了後、並んで更衣室に向かう高橋主任に、私はそう話を切り出して頭を下げた。
「あらぁ、珍しいわね。最近はあまり神崎が相談をしてくれなくなって寂しかったんだけど、とうとう古株先輩の出番かしら?」
冗談めかしてそう言う高橋主任は、夜勤明けにも関わらず昨日の夕方と一切変わらない完璧なメイクをした顔で笑った。
いつも身だしなみに気を配り、テキパキと仕事に取り組むこの先輩は、母よりも十は若く見える。
それぞれ着替えを終えた私と高橋主任は、病院から徒歩で行ける距離のカフェで話をする事にした。
平日の朝九時半という事もあってか、コーヒーがとても美味しいと評判のこのカフェも、客は高齢者が数組と仕事の打ち合わせのような雰囲気の一組が居るだけ。
どこか懐かしい雰囲気のする内装は、以前勇太と来た時と全く変わっていない。落ち着いて話が出来そうでホッとする。
一番奥のボックス席に案内され、二人ともこの店おすすめのブレンドを注文した。いつの間にか強張って緊張していた心も、コーヒーの香ばしくて落ち着いた香りがほぐしてくれる気がする。
「それで? 神崎がそんな顔をして私に相談って、あまり良い予感はしないんだけど。まさか辞めたいとか言うんじゃないでしょうね?」
店員がいなくなってすぐ、高橋主任はテーブルの上で肘をつき、身を乗り出すようにして尋ねてくる。
この人は他人の感情に鋭いところがあって、それは仕事でも十二分に活かされていた。そういうところに私は尊敬の念を抱いているのだけれど、今から退職について話そうとした身としては、出鼻を挫かれた感が否めない。
「あの、そのまさかなんですけど。実は近々退職したいと思っています」
「どうして? 神崎の事だから……家族が理由とか?」
高橋主任の鋭さは、今日は特に絶好調のようだ。目を眇めつつ、こちらの反応を窺う先輩にはもう何もかも話してしまった方が早い。
意味のない隠し事をしても、無駄な気がした。それにもうすぐ退職するのだと思うと、お世話になった主任には誠実でいたかった。
「全部話します。だけど、高橋主任は私の事を軽蔑するかも知れません。私の家族の非常識さに呆れると思います。でも、主任には全て話しておきたいです」
「うん、それは良い考えよ。神崎は昔から一人で抱え込んで、我慢ばっかりする後輩だったからね。『もっと周りに自分から助けを求めたらいいのに』ってずっと言ってきたでしょう。全部話してみて。ちゃんと聞くから」
それでなくともこの看護師という仕事は、神経をすり減らすような業務が多いと思う。
そんな中、カナちゃんの子守りをしながら勤務をする事はとても負担が大きかった。この三年無事にやってこれたのは、高橋主任を含め職場の雰囲気が良かったからだと思っている。
私は高橋主任に、家族とカナちゃんに関する一連の事情を説明した。
流石に新一の不貞行為については話さなかったが、姉が双極性障害で精神科に入院している事については話した。高橋主任は時折頷きながら、静かに耳を傾けてくれる。
やっと一通りの話が終わると、主任は眉毛を下げて困ったような顔で笑う。
「なるほどねぇ。引きとめられそうにない理由ってワケね。残念だわぁ。それにしても、聞けば聞くほど神崎の恋人はよく出来た人ねぇ。前にあのお店で会った人でしょう?」
「あ、そうです。あの時はヒヤッとしましたけど、高橋主任が笑って挨拶してくれて安心しました」
「神崎はずっと『恋人はいません』で通してたのに、あれは意外だったわ。皆『神崎さんの容姿で恋人がいないだなんて、それはないでしょ』って騒いでたけどね。でも、いいじゃない。神崎をちゃんと支えてくれる人が一人でも身近にいるのなら」
勇太の事は家族にも職場の同僚にも、そう多くはない友人にさえ秘密にしている。
元々そういう話を誰かとする事があまり好きではないのと、恋愛の話は揉め事の元だと身をもって知っているからだ。
特に看護師というのは女性の多い職場だからか、他人のそういった話を積極的に聞きたがる。
けれど私は毎回「恋人はいません」で通してきた。同僚を信頼していない訳では無いけれど、それが一番面倒事に巻き込まれないと思っていたから。
「でも、あの時はただ勇太と並んで買い物してただけだったのに。よく恋人だって分かりましたね。普通は分からないでしょう。親戚とか、友達だとかの可能性だって……」
「あはは! 神崎、それは無いわ! ふふふ……」
眦に涙を溜めながら主任が笑う。そんなに私の言動は可笑しかっただろうか。
「分かるわよ、雰囲気でね。相手を見る神崎の表情は、すごく穏やかで優しかったから。ほら、私って結構鋭いじゃない? そういうの」
「まぁ、確かに……そうですね」
「あー、それにしても神崎が退職かぁ」
既に冷たくなってしまったであろうブレンドコーヒーを一気に飲み干した高橋主任は、大きくため息を吐いて頭を抱えるとテーブルに突っ伏した。
夜勤明けなのに崩れる事なくピシッとまとめられたシニヨンは、たとえ冗談好きでも仕事には至極真面目に取り組む高橋主任の姿勢を表していると思う。
丸いシニヨンの部分を見つめながら、そろそろと口を開いた。寂しい気持ちが喉元まで迫り上がってくる。
「すみません。カナちゃんの事もあるので、出来るだけ早く退職届を出さないと、と思って」
正社員の自分が抜ける事で、他の職員に負担をかけてしまう事は分かっていた。今までお世話になった皆に対して申し訳なく思うが、それも踏まえた上でもう決めた事だ。
「そうよね、分かるわ。有給休暇、あと二十日くらいはあったわよねぇ?」
ガバッと顔を上げて尋ねてくる主任の目は、いつも通り少し垂れたような形だったけれど、ほんの少し潤んでいるように見えた。
「はい。確か……それくらいあったと思います」
うちの病棟では勤務表を作成するのは師長では無く主任の業務だったから、高橋主任は職員の有給休暇の残りをある程度把握しているのだろう。
それにしても、母と同じくらいの年齢とは思えない程にすごい記憶力だと思う。
「いいわ、昨日退職届を受け取った事にしといてあげる。一応一ヶ月前には退職届を出す決まりだから、あと十日足らずは勤務表通りに仕事してもらうけど。あとは有給休暇で休んじゃいなさい」
「え……、でも流石にそれは……」
「いいの、いいの。今日これから病棟に戻って書いちゃいましょう。少しでも早い方がいいわよ。師長にはちゃんと言っておくから」
実はこの高橋主任、師長になるよう何度も上から言われているにも関わらず、ずっと固辞している。
師長になれば夜勤には入れない。主任のままの方が夜勤で稼ぐ事が出来るからとの理由だ。
だからうちの病棟の師長だって実は高橋主任の後輩にあたる看護師で、主任の人柄と能力の高さもあって二人はとても仲が良い。
「すみません。高橋主任には新人の時からずっとお世話になりっぱなしで」
「いいの! 神崎みたいな看護師は私の癒しだから! また落ち着いたら戻ってきたっていいのよ。もういい歳だから、私が残っているかどうかは分かんないけどね」
そう言ってケラケラと笑う高橋主任に、私はいつだって本当に救われている。
もう主任の目はいつも通りの優しい垂れ目で、先程見えたような気がした涙の膜は消えていた。
手元のカップに残る冷め切ってしまったコーヒーは、私の舌に酸味と苦味を与える。けれども高橋主任の言葉は甘くて優しい。
それは暗い闇の中、踊るような火の粉を巻き上げる焚き火の熱のように、じんわりと私の胸を温かくしてくれたのだった。
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