かわいい猛毒の子

蓮恭

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11. 姉の病気

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 それからしばらくの間私は姉との連絡を断ち、実家にも寄り付かなかった。

 すると先に音を上げたのは母親で、「頼むからカナちゃんの面倒を見るのを手伝ってくれ」と言う。
 私を頼れなくなった姉は結局、母親一人に子守りを押しつけていたようだ。
 
「『いっちゃんは?』ってカナちゃんが泣くのよ。詩織が言うには、伊織が詩織に何か嫌がらせをしたって言ってたけど……そんな事無いのよね?」

 たった二ヶ月で私の束の間の自由は幕を下ろしてしまった。
 母親は実家に足を踏み入れた私の顔を見るなり、やつれた表情で縋るようにして尋ねてくる。
 
 姉から届いた形だけのDMによる謝罪と、母親からの切実なSOSを無視する事は未だ家族の呪縛に囚われている私には出来ない。
 お陰で久しぶりに実家を訪れる羽目になったのだった。
 
「嫌がらせねぇ……。姉さんが私の私物とかマンション、それに給料明細まで勝手に写真を撮って世間に晒していたから怒っただけだよ」

 以前は真っ直ぐに見る事が出来なかった母親の視線を、真っ向から受け止める。少しずつ私自身の心が変化している気がしていた。

 そんな我が子の変化に微塵も気付く様子は無く、眉をハの字にして言葉を探す母親の隣で、父親がみるみるうちに顔色を変えた。
 今日は珍しく父親も在宅していたのだ。

「なんだ、そんな事してたのか⁉︎」
 
 父親は腹の底から「けしからん」という感情が込み上げるような声で、ここにいない姉に激怒した。
 カナちゃんがお昼寝している間に三人でお茶を飲むというのも随分としばらくぶりの事だというのに、決して和やかでない団欒だ。
 
「そう、だから姉さんに『削除して』って言っただけだよ」

 いつもと同じ感情を持たない平坦な自分の声が、耳を素っ気なく通り過ぎる。
 
「全く! 本当にアイツはくだらん奴だ。そんな事をして何になるっていうんだ?」
「まぁまぁ、お父さん。詩織だって可哀想よ。新一さんはお給料も多くはないようだし。好きな物も買えないんでしょう。独身で好きな事をしている伊織の事が羨ましいのよ」
 
 どんどん膨れる怒りを露わにして唇を震わせる父親とは対照的に、母親は務めてのんびりとした口調で姉を庇う。

「それは詩織が勝手に新一くんと結婚したからだろう! 出来ちゃった婚だなんて、こっちの立場も世間体も考えずに勝手な事をして……」
「そうよねぇ、それは詩織が悪いわよねぇ」

 そしてほら、いつもの通り。母親は到底庇いきれないと分かるなり、父親の怒りの矛先が自分に向かないようにとさっさと姉を切り離すのだった。
 
「今更勝手な事ばかりしている娘など、知らん!」
「困ったわねぇ。でも伊織、今日は来てくれてありがとう。お母さんもこの二ヶ月辛かったのよぉ。一人でカナちゃんの面倒を見るのは流石に難しいわ」
 
 母親は最近カナちゃんを抱っこした時に腰を痛めたらしく、以降は病院に通って注射と内服、リハビリで治療しているという。
 
「自分勝手なアイツに子育てなど到底無理なんだろう。それなら何故……」
 
 そこまで言って父親はハッとして口を噤んだ。お昼寝から目を覚ましたカナちゃんがダイニングの扉のところに立っていたからだ。
 まだ寝足りないのか、小さな手で目を擦りながらぼんやりとした視線が私の方で止まる。
 
「あ……いっちゃん!」
「カナちゃん、起きた?」
「うん、ねぇねぇ! 遊ぼうよー!」
「おやつ食べてからね」
 
 父親が言おうとした言葉の続きはきっと、「何故子どもなんて産んだのか」というものだろう。

 けれど父親も姉に対する文句を言いつつも、孫であるカナちゃんの事は可愛いし、その存在を今更否定するのは踏み留まった。
 父親だって理解している。あくまでも姉とカナちゃんは別の人間なのだという事は。

 
 ◆◆◆
 

 結局あれ以降、会えば姉は何事も無かったかのように接してくるが、虚構で固められたSNSだけは辞めたらしい。
 母親を通して姉の近況を聞く事はあっても、基本的に会う事は少なくなっていた。姉の方が私を避けているのかも知れない。
 あの時身勝手な姉に対して遠慮なく楯突いた事が、少しは功を奏したようだ。
 
 日勤の仕事終わり、この時間にしては珍しく実家に呼び出された。

「詩織ったらね、どうやら精神病らしいの」
 
 いつものように積み木でカナちゃんと遊んでいた時、母が唐突にそう口にしたのだった。
 カナちゃんにはまだ難しい事は分からないから、母の言葉に反応する事なく、懸命に積み木を高く積み上げる事に集中している。
 
 どうやら姉は最近、不眠と目眩、食欲不振や頭痛を頻回に訴えていたらしい。
 そうかと思えば急に元気になって、取り留めのない事をひっきりなしに話しかけてきたり、突然思い立ったように出掛けて行ってはそのまま帰って来ない事もあったという。
 勿論娘のカナちゃんを置いて。
 
「ここのところカナちゃんも預けっぱなしで電話も出ないし。それにね、『カードでたくさん買い物しちゃったけど払えない。助けて』って言うものだからお母さんが立て替えたのよ」
「えっ? いくら?」
「三十万弱くらいだけど」
 
 実家が裕福な母と、その母に甘えるのが上手い姉は昔から金銭感覚がズレているところがあったけれど、まさかクレジットカードの支払いまで管理出来なくなるなんて。
 
「まさかそれってひと月で?」
「そう、だから詩織も困ってたのよ。新一さんに知られる訳にはいかないから、お母さんお願いって言ってね」
「母さん……」
 
 母が何度も口にする両親の名前を聞いておかしく思うのではないかと、カナちゃんの様子をチラリと横目で確認する。
 カナちゃんはまだ積み木に夢中で大人の会話は聞こえていなかったようだ。いや、もしかしたらあまり時間を共に過ごしていない両親に対して、そこまで執着していないのかも知れない。
 
 どちらにせよ、カナちゃんが気にしていない事を確認してから安堵と呆れの混じったため息を吐く。
 母が姉を甘やかすほど、姉とカナちゃんの親子関係がだんだんと希薄になっているという事に、母は気づいているのだろうか。
 
「でもね、さすが看護師よねぇ。今の状態は病気だと思うからって自分で病院へ行ったらしいの。そしたらね、ええと、何だったかしら……」

 目線を斜め上に向け、顎に手をやって小首を傾げる母は、全く危機感のないのんびりとした口調で話す。
 姉を心の底から心配しているという風には聞こえず、まるで単なる世間話をしているかのような軽い口調だった。
 
「双極性障害……躁うつ病?」
「ああ! そうよ、それそれ! 躁うつ病って言われたんですって。過度なストレスが原因だと言われたって話してたわ。可哀想に」
 
 やっぱり。

 どうやら姉が双極性障害らしいという事は母の話で何となく想像がついたけれど、それにしてもあの姉がそんな風になる原因が分からない。

 カナちゃんの子育ては私と母も十二分に協力しているし、新一さんとの仲はそう悪くないと母から聞いている。
 あと考えられるのは正社員として勤めている職場くらい。
 
「姉さんはどうしてそうなったとか、原因を話してた?」
「やっぱり仕事が大変だったんですって。もう今の職場は近々辞めるつもりだと話してたわ。ほら、前にも話したけれど……やっぱりいじめられているんじゃないかしら?」
 
 あの姉がいじめに遭っているなんて想像もつかない。でも、勤務は楽だし給料も良いとあれほど自慢していた職場の退職を考えるなんてよほどの理由があるのだろうか。
 
「そういえば、前に姉さんの職場の同僚が亡くなったよね? 自殺で」
「そう、それから詩織がおかしくなったのよ。だから母さん余計に心配で。いじめのターゲットが自殺したその人から新人の詩織に変わったんじゃないかしら? ねぇ伊織、詩織に事情を聞いてみてちょうだい」
「どうして私が?」
「だって伊織は看護師なんだから。病気の詩織の様子を見ながら、上手く聞き出してみて欲しいの」
 
 姉さんはどちらかというといじめの加害者だったのではないか、それで被害者が自殺した事で罪の意識に苛まれているとか……と想像したが、母に話したところで面倒な事になるだけなのでやめておいた。
 
「分かった」
「頼むわね。それにしても、お母さんもさすがに泊まりでカナちゃんと過ごすのは疲れちゃうわ。近頃はお父さんもあまりいい顔をしないし」
 
 姉がカナちゃんを実家に預ける時間が以前より断然増え、最初は初孫を可愛がっていた父も近頃は大体機嫌が悪い。
 あの人は非常に分かりやすいのだ。父にとって子どもというのは所詮その程度。時々ならば可愛いけれど、あまり長く居て自分の生活に支障をきたす事は許せない。
 流石に姉がここまで子育てを放棄するとは思っていなかったのだろうが。
 
「まぁ、とにかく姉さんと話してみるよ」
「あ、どうせなら今からアパートの方へ行ってみてくれない? 家の中もきっとめちゃくちゃじゃないかしら。新一さんはきっと家事なんてまともに出来ないだろうし。伊織が行って少しでも片付けてあげてくれると助かるわ」
「新一さんの家でもあるのに、人の家を片付けるなんてできないよ」
 
 母はこういうところも世間とズレている。新一のことは見下しているから、はなから相手の都合なんて考えてもいないのかも知れない。
 
「詩織は本当だらしないから。伊織ならきちんと出来るのにねぇ」
「母さん……」
「いくらあの頃お父さんが『ゆとり教育』を学校で推進していたからって、初めての子の育て方をそうしたのは間違いだったわ。その点伊織はちゃんと躾をしたから今があるのよ。『大人になって困らないように』って気をつけたんだから。詩織はとんだ失敗作ね」
 
 日頃の過労とストレスからか、とうとう母がそう口にした。ちょっと料理に失敗したような本当に軽々しい口調で、私の心を鋭い刃で抉るような言葉を吐き捨てる。

 まさか「自分は夫が職場で行っていた教育方法に倣って子育てしただけだ。すなわち私は悪くない」とでも言いたいのだろうか。
 急に迫り上がってくる吐き気を堪えながら、私は短く「分かった。行ってくる」と答えて立ち上がる。

 帰り際、何も知らないカナちゃんは「いっちゃん、またね」と言って小さな手を懸命に振った。

 
 
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