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10. 反旗を翻す
しおりを挟むその日もいつも通り日勤の仕事を終え、マンションに帰ろうと車に乗り込んだ。
すると待ち構えていたように、スマホが姉からの着信を知らせる。姉からの連絡は大概碌な事が無いので一瞬躊躇ったが、出ない訳にもいかず通話ボタンを押す。
「はい」
「お疲れ! ねぇ、悪いけど今から香苗を預かってよ。どうせ伊織は明日夜勤だからいいでしょ」
「え? 何で?」
日勤の日はカナちゃんの面倒を見ない日と何となく決まっていたのに、こんな風に姉が言う事は珍しい。
「久しぶりに新一と外食したいから。香苗が居ると落ち着いて食べられないじゃ無い」
「でも……」
「じゃあこのままアパートに置いて行けって言うの? とにかくすぐにアパートまで来てよ」
それだけ言うと一方的に通話を終了した姉に、怒りとやるせ無さを感じつつ、本当に我が子をアパートに放置して外出し兼ねないと心配になった。
結局私は勇太に事情を説明し、姉のアパートへと向かう。
途中で再び姉からの着信があり、やはり外出するのを考え直したのかとも思ったが、「待ってる時間が勿体無いから近くのコンビニまで出てる。そこに来て」との事だった。
姉のアパート近くのコンビニに到着すると、見慣れた姉の軽自動車が停まっていて、中には姉と新一、そして暗がりの後部座席にはカナちゃんがいるようだった。
「ちょっと、遅いよ」
「ごめん、これでも急いだんだけど」
姉と共にカナちゃんを抱っこした新一が車から出て来た。
新一は何を考えているのかよく分からないヘラヘラとした笑顔で、こちらへ挨拶がわりに右手を上げる。カナちゃんは既に眠っているのか、新一にくっついてピクリとも動かない。
「あら? その腕時計どうしたの? それってめちゃくちゃ高いやつじゃない? ねぇ、新一!」
新一はそんな姉の声に反応して近づいて来る。先日勇太と購入したスクエアフェイスのペアウォッチに、姉と新一の視線が集まった。
確かに値段は高かったけど、時計に詳しくない私にはブランドや仕組みなんかはよく分からない。
「うわ! 本当だ!」
「アンタ、やっぱり独身だから稼いでるわねぇ。いいなぁ。こっちは貧乏で大変だって言うのに。ちょっと試しに着けたいから貸してよ」
そう言って姉が私の腕時計を嵌めた腕にグイッと手を伸ばす。その瞬間、思わず手を引いて反対側の手で腕時計を覆う。
自分でも無意識のうちにとった行動だった。
「やだよ。これは大切な物だから」
「いいじゃない、試しに着けるだけよ! ちょっとだけだから! いいでしょ?」
あんまりしつこくするものだから、姉が我が子のカナちゃんよりも、この少し値が張った腕時計に強く執着しているようで、ひどく浅ましく思えた。
「……ちょっとだけだからね。すぐ返してよ」
これ以上やり取りしても決して姉が折れる事がないという事は知っていた。ちょっと着けるだけならと腕時計を外し、後ろ髪を引かれる思いでそっと手渡した。
「やっぱり良いブランドはパッと見で高級感があるよね。ちょっとSNS用に写真を撮るから待ってて。伊織、私のバッグ持っててよ」
そう言ってスマホを取り出した姉は、自らのバッグを私に押し付け、自分の腕に嵌めた腕時計の写真を何枚か撮る。
姉が満足する写りの写真が撮れるまでの間、先程までただの傍観者だった新一も、「いいなー」と独り言を零しながら恨めしそうに妻を見ていた。
しばらくの間私から物を取り上げたら満足してすんなりと返してくるのがいつもの事だったから、大概こういう時には逆らわずに渡す事にしている。
そうしないと余計にややこしい事になるからだ。
けれど今回ばかりは、私と勇太の繋がりに無理やり割り込まれた感じがして、この夫婦には嫌悪の情を強く抱いた。
「もういいでしょ。返して」
「せっかちねぇ。ほら、返すわよ」
SNSに投稿する写真を撮ったら急に興味を失せたようにポイッと返してくるのは日常茶飯事だったが、今回ばかりは思わず言葉に尖りが出た。
姉は私の不機嫌に気付いているのかいないのか、特に気にした様子は見せない。
「カナちゃん、預かります。お迎えはいつになりますか?」
眠ってしまってぐったりと脱力するカナちゃんを新一から受け取りながら、精々柊の葉っぱ程度の小さな棘を含ませた声色で尋ねる。
夫の新一は妻である姉に何故か強く出られないらしく、いつも姉の言いなりになっているような印象だ。チラチラと姉の方を窺いながら、慎重に返事の言葉を選んでいる。
「そうだなぁ、二時間後くらいかな。それくらいにまたここで」
「分かりました」
「悪いな、頼むよ」
眠るカナちゃんを連れてマンションに帰る元気が無く、結局その辺をドライブしたり駐車場や空き地で車を停めて時間を潰した。
その間何気なくSNSを見ていたら、友人達の物に混じって姉のタイムラインが表示される。姉とは直接フォローし合っている訳ではなく、共通の知人の反応がたまたま流れてきたようだ。
「何これ……」
姉のタイムラインには『買ってもらった新しい時計! 腕が細く見えるデザインがお気に入り。優しい旦那様に感謝』という文章と共に、勇太とのペアウォッチを着けた姉の腕の写真が載せられている。
それはまさに先程撮影していた物だと思われる写真だった。姉のタイムラインなど覗いた事など無かったが、何となく気になって見てみると愕然とする。
勇太がプレゼントしてくれたブランド物の財布、私が姉に頼まれて送った勇太との旅行画像、以前に見せてと言われた私の給料明細、住んでいるマンションの外観の写真など、数多くの物が『姉の物』として紹介されていた。
百歩譲って財布や風景なんかはまだ許せるとしても、給料明細やマンションの写真などプライベートな物に関して、私に無断で勝手に晒されているという事に動揺を隠せない。
元々プライドが高く自分勝手な姉だったが、自分だけでなく勇太に関係する物を無断使用されたのがどうにも我慢ならなかった。
二時間半後、姉と新一の車がコンビニに戻って来る。カナちゃんは疲れていたのか相変わらずぐっすりと眠っていて、まずは自分だけが車から降りた。
新一は運転席から降りる気配が無く、姉だけが機嫌が良さそうな笑顔で降りて来る。
「姉さん、これってどういう事?」
努めて低く冷静な声で尋ねる。普段からあまり怒る事も取り乱す事も少ない私だったが、今は特にそうするよう徹していないと、怒りの余りにひどい言葉で姉を罵ってしまいそうだった。
「何? あぁ、バレちゃった? ちょっと借りてるだけよ。いいじゃない、減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃなく、勝手に人のプライベートを晒すのはやめてよ」
「だってママ友も同僚も皆良い物持ってるのに、私は新一の稼ぎが少ないからそんな物買えないんだよ。可哀想だと思わない? 香苗にも金がかかって困ってるのに」
目の前の人間が、本当に血の通った人間なのかどうか自信が無くなってくる。
日勤で疲れていた事もあって、普段なら姉に強く楯突く事も言い返す事もしなかった私が、痛みを感じる程にギリっと歯を鳴らす。
「消して! 今すぐ消せ!」
「な! 何よぉ!」
「消せよ! 今すぐ消さないならそれなりの手段を取るから!」
別に本気で弁護士に何か頼もうと思った訳じゃない。でも、姉はあまり頭の回転が速い方ではないから、こちらが強気に出ればきっと消すだろうという確信はあった。
「それなりって……! アンタ、姉を売る気⁉︎」
「売るって何? いいから、アカウント削除してよ。勝手な写真が多すぎて、一個一個消すにも時間かかるでしょ」
「そんなの嫌よ!」
「じゃあ勝手にして。もう二度と姉さんを助ける事はしない。カナちゃんの事も知らない。然るべきところに相談するから」
運転席の新一は、なかなか車に戻らない姉の方を窓越しに見て、怪訝そうな顔をしていた。
プライドが高い姉は、いつも新一にさえあまり不恰好な姿を見せたがらないので、とどめの言葉をぶつける。
「じゃあ新一さんに聞いてみるよ。姉さんがこれから大変になるけど、よろしくお願いしますって」
「アンタねぇ! 私を脅す気⁉︎ 分かったわよ! 消せばいいんでしょ!」
普段ならここまで怒ったりしない私が強気に出た事で、姉もかなりうろたえている様子だ。
けれど、どうしても今回ばかりは許せなかった。
普段なら何とか堪えられるかも知れない。だけど私の大切な場所、勇太という私の安全地帯さえ土足で踏み躙られた気がして、怒りと同時に恐怖のようなものさえ感じた。
姉のアカウントが削除された事を確認して、眠るカナちゃんを抱っこして渡す。
自分の子どもを抱いている事さえ忘れているのか、姉は憎悪に満ちた視線をこちらへ向けながら、私の事を口汚く罵っている。
「なんて自分勝手な奴! 人を思いやる気持ちは無いの⁉︎ 可哀想だと思わないの⁉︎」
鬼の形相で叫ぶ姉の罵りを、そっくりそのまま返してやりたい。
未だ怒りが収まらない姉が乱暴にカナちゃんを扱わないかだけが心配だったが、私はさっさと自分の車に乗り込んでコンビニをあとにした。
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