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第三章 新しい未来

80. 愚か故に、大罪を犯す

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「なるほどのぅ、それは頭が痛いじゃろうな。ほれ、出来た。気持ちを落ち着ける効果のあるお茶じゃ。飲んで心を落ち着けるが良い」

 その日、アヌビスはスッキリとした香りのするお茶をカップに注ぎ入れ、レティシアに差し出した。
 近頃はパトリックが医務室に通いアヌビスの業務を手伝っていたから、レティシアは久方ぶりにアヌビスの元を訪れていたのである。
 レティシアは両手でカップを持ち、湯気が立ち上る様子をぼんやりと眺めてから、一口だけゆっくりと口に含んだ。

「美味しい……」

 隣の部屋ではパトリックをはじめ、他の薬師達が忙しそうに作業をしている中、アヌビスはのんびりと奥の部屋にある椅子に腰掛けてレティシアと向かい合っていた。

「そうじゃろ? それはパトリックが作ったオリジナルブレンドのお茶でのぅ。近頃ますます多忙な姉が疲れているようだと言って、張り切って調合しておったわ」
「パトリックが……? そうですか。この爽やかな香りはホッとするし、とても美味しいです」
「そりゃあ良かった。パトリックに直接そう伝えてやってくれ。喜ぶ」

 アヌビスはパトリックとその中に存在するファブリスと、何とか上手くやっているらしい。
 ファブリスは元々優れた魔術を使える人物であったから、薬師の業務だってスムーズにこなし、他の薬師達からも一目置かれているという。

「皇后陛下に盛った毒を調合した犯人については既に目星が付いておる。今のところはこちらの動きを気取られないよう、好きにさせておるが」
「ええ。決行日まであと三日ですから。くれぐれも、よろしくお願いいたします」

 三日後、イリナは父親とカタリーナの罪を告発する。
 すっかりイリナをその気にさせて聞き出したエドガーのいう事には、イリナが告発するつもりの内容はソフィー皇后への度重なる毒殺未遂をはじめ、ジェラン侯爵の脱税と横領、侍女マリアンと衛兵の殺人。
 カタリーナについては同じく二人の殺人と、息子ニコラを皇太子にする為にこれまで犯してきた数々の罪。それについては数えきれないほどだったとの事。

「それにしても、皇帝陛下に内緒で薬を盛ってまでお子を授かろうとするなんて……。女の執念というものは、恐ろしいですね。同じ女でもそう感じますもの」
「陛下に催淫効果のある薬を飲ませ、精力剤を飲ませ、挙句毒性の強いマチンの種子を使った興奮剤まで飲ませるなど……。あの女は愚かが故に、その罪の意識が無かったのであろうな」
「恐れ多くも、皇帝陛下の意思を無視して薬を盛るだなんて、暗殺を試みたとされても仕方ありませんものね」

 今まさに有頂天となっているイリナはエドガーに対し、自分の罪を棚に上げ、堰を切ったように二人への不満を吐き出したという。苦笑いを浮かべたエドガーからそれを聞いたレティシアだったが、やはり胸に突っかかるものがあった。
 
「何じゃ? まだ何か引っ掛かるものがあるのか?」

 アヌビスは鋭い。レティシアの憂いを帯びた表情を見逃さなかった。

「いえ、過去でもそうですが……イリナ嬢はリュシアン様の事を強く恋焦がれてらっしゃるのだとばかり思っておりました。それが随分とあっさりエドガー殿下のお妃になる事を選ばれたなと思って……」

 過去では誰よりもリュシアンのそばにいて、婚約者であるレティシアを蔑んでいた。
 イリナからリュシアンへの強い恋慕の情が彼女の態度をそうさせたのだとばかり思っていたが、此度の人生ではどうだろう。
 リュシアン自身のレティシアへの気持ちが変わったからなのか、それとも何か他のきっかけがあったのかは分からないが、イリナは早々にリュシアンから手を引きエドガーを選んだ。

「あの女子おなごはのぅ、元々権力者が好きなんじゃ。ああ見えて強い男に支配されたがる従順なところがあるのか、または強い男の力を自らのものとして利用したいのか。どちらにせよ、どちらの殿下の事も愛してはおらん」
「あの……リュシアン様は、どう思ってらしたのでしょうか。過去で、イリナ嬢の事を……」
「フォッ、フォッ、フォッ……! あの女子に関心があったかどうか、心配かの?」

 あの日、レティシアの事を殺すつもりは無かったとはいえ、ずっとそばに控えていたイリナに心を奪われた時間があったのでは無いかと、レティシアは不安に思っていた。
 レティシアから見ても、二人はとても似合いの恋仲に見えた事もあるのだから。

「ええ、少し……」

 俯き加減に小さな声で答えたレティシアの嘘は、アヌビスにはすっかりお見通しで。
 しかしレティシアの複雑な心境……過去のレティシアの行動やどうにもならなかった二人の関係を鑑みれば、遠慮がちに答える気持ちも分からない訳ではない。

「そうさのぉ、此処に来る前の事については、今のワシには分からん。ワシはあくまで、この世界でのワシでしか無いからのぅ」
「そうですよね……。ごめんなさい」
「謝ることはない。しかしのぅ、少なくともワシは殿下の事を誰よりもよく知っている。だからこれはワシの想像じゃ。限りなく真実に近いだろうがの」

 小さく頷いたレティシアは、アヌビスの言葉の続きを黙って待った。
 
「確かに過去での殿下は、傀儡となってしまったレティシアにショックを受けていなさっただろう。だからと言って他の女子にうつつを抜かすような事は無かったと思うのぅ。殿下とはそういう男じゃ」
「……そうですか」

 一瞬、明らかにホッとしたレティシアだったが、やはり過去の事を思い出せば胸はチクリと痛んだようで、ぎゅっと苦しげな表情も見せた。
 そんなレティシアを無数の皺に囲まれた目を細めて見つめるアヌビスは、髭を触りながら優しく穏やかな声色で語り始めた。

「大切に想っていたからこそ、ある時ひどく憎くなる。人の感情というものは複雑怪奇。それらは紙一重で存在する不思議なものよのぅ。しかし殿下のお心はいつも、ただ一人レティシアにしか向いておらなんだ。恐らくそれだけは間違いない事じゃよ」

 アヌビスの言葉に涙ぐみながら耳を傾けていたレティシアは、とうとう堪えきれずに嗚咽を漏らしはじめる。喜び、後悔、感謝、悲しみ……、様々な感情がごちゃ混ぜになった事でどんどん外に溢れ出ていく。
 柔らかな頬を流れる涙はキラキラと煌めき、レティシアの心の片隅に残っていた淀みを洗い流す。
 やがてアヌビスに礼を言い、部屋を出たレティシアは、皇后宮へ帰る前に医務室で働く弟パトリックに会いに行った。
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