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第三章 新しい未来

78. 新しい妻、レティシアの不安

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 ノックが鳴りやんでもイリナは動こうともせず黙って返事をしなかった。
 その様子に、レティシアはツカツカと扉の方へと歩み寄り、制止する事もなく腕組みをしたままのイリナのすぐ隣をすり抜けて、ドアノブに手を掛けた。

「やぁ、ここにいたのかい?」
「エドガー様……」

 現れた人物が余程意外だったのか、イリナはすぐに振り向いて黒色の瞳を丸くした。
 
 エドガーはそんなイリナの事は気にせず扉を閉め、部屋に足を踏み入れる。
 レティシアはとにかくエドガーを立たせておくわけにはいくまいと、休憩室に置かれたソファーへ腰掛けるよう勧め、再び口を開いた。

「どうしてここが?」
「はは! 親切な人がレティシア嬢の居場所を教えてくれたんだ。それにしても、扉の外まで声が聞こえていたよ。あれはこんな扉のすぐ近くでする話じゃないねぇ」
「まぁ、そんなに?」

 先程まで二人が話していた内容が廊下にまで丸聞こえだったとは、サッとレティシアは顔を青褪めさせたが、イリナは驚きの声を上げるような事はしなかった。

「聞き耳を立てていたわけじゃ無いんだけどね、心配だったからさ。扉のすぐ前でレティシア嬢が出てくるのを待っていたんだけど、そうしたら所々聞こえてきただけだ」
「……そうですか」

 そこで初めて、エドガーは黙ってソファーに腰掛けていたイリナへと視線を送った。
 イリナは計画が失敗した事に落胆しているのか、目を伏せるようにして視線を落としたままでいた。唇は真一文字に閉じられ、エドガーの視線に気付いているのかいないのかは分からない。

「ジェラン侯爵令嬢、君は僕の妻になりたいんだってね」

 レティシアと話した後、笑みを消さないままにイリナの方を見たエドガー。やがて真正面からずばり問うエドガーは、どうやら怒っている訳ではないようだ。
 レティシアは思わず息を詰め、二人の動向を見守る。
 するとイリナはここで初めて視線を上げ、漆黒色の強い眼差しをエドガーへと向けた。
 
「……はい」
「君は本当に実のお父上と、主人であるカタリーナを裏切る事が出来るのかな?」
「勿論です、殿下。もう全てご存知でしょうから隠しても仕方ありませんわね。単刀直入に申し上げますと、私はソフィー皇后陛下にとって、そしてリュシアン殿下にとって有益な情報を持っています。それがあれば、リュシアン殿下がすぐにでも皇帝になる事すら可能でしょう」

 これまでレティシアが知るイリナは、こんな人間であっただろうか。
 過去でのイリナでさえ、今思えばかなり打算的なところはあったが、こうも必死に自分を守る為になりふり構わないところなど無かったように思えた。
 口調こそ未だ去勢を張り強がってはいるが、イリナの声色と表情からは死に物狂いで救いを求める気配が漂っていた。
 
 じっと口を噤んで耳を傾けていたレティシアには、到底想像もつかないほどに悲惨な思いをしてきたのだということが、気持ちの昂りから僅かに声を震わせるイリナの様子からは窺えた。
 
「そうだなぁ、僕が君を妻にすれば君は裏切り者となるが、それを知るのはごく一部の人間のみ。君はこの帝国を離れて他国の王子妃となり、何も知らない者達はその事をさぞ羨むだろうねぇ」
「ええ、恐らくそうでしょう。私にとって、お父様とカタリーナ様を裏切ってでも手に入れたい羨望と称賛ですわ」
「まぁ僕にとってもたかが妻一人増えるだけだ。今更騒ぐほどの事でもないしねぇ。ここで姉上と可愛い甥っ子に恩を売っておくのも悪くない」

 軽い調子のエドガーの言葉に、レティシアは驚きを隠せなかった。と、ともにエドガーの言葉と様子に違和感を感じたのである。

「いいよ。ジェラン侯爵令嬢、君を僕の妻にしよう」
「本当ですか⁉︎」
「どうしてここで嘘を吐く必要があるんだい? その代わり、本当にあのボンクラ皇帝と愛人を失脚させてくれるんだろうね?」
「勿論ですわ! お任せください!」

 思わぬ喜びを隠す事ができないというように、満面の笑みで答えるイリナは今にも飛び跳ねるような声で返答する。
 対してエドガーは、そんなイリナの様子を面白そうに眺めていた。

 やがて黙ったままのレティシアの方へと視線を向けると、エドガーは一度微笑みを深めてから口を開く。

「これで姉上があのボンクラに傷つけられる事ももう無いだろう。レティシア嬢も、リュシアンが皇帝になったら今よりもっと忙しくなるよ。どうか、姉上と可愛い甥っ子を助けてやっておくれ」
「は、はい……」

 返事をしたものの、二人の様子を一番近くで見ていたレティシアは、何故かとても不安になった。何か、何かがおかしいような、胸騒ぎがするような、奇妙な感覚。
 イリナはもう自分の未来が生涯安泰で、多くの人々の羨望の的となる事を信じて疑ってはいなかった。

「レティシア嬢、私がこの帝国フォレスティエなどよりも遥かに豊かな大国であるフィジオ王国の王子妃になった暁には、婚姻の儀にリュシアン殿下共々参列なさってね」

 去り際にレティシアの耳元でそう囁いたイリナの表情は、まるであの時……レティシアがこの世界に逆行する前、死の直前に見せたあの形相と同じであった。
 せめて最期に愛するリュシアンへ触れたいと、レティシアが手を伸ばそうとしたあの瞬間ときの事である。

 ――「安心して死になさい。愚かな傀儡令嬢レティシア。これから殿下の事は私がお支えするから心配いらなくてよ」

 歪んだ嘲笑を浮かべたイリナは、そのような言葉を言い放つとレティシアの手を叩き落としたのだ。

 勝ち誇った態度を隠そうともせず、さっさと地獄へ落ちろと言わんばかりに。

「イリナ嬢……」

 レティシアは思わず既に部屋から出て行ったイリナの名を呼んだ。あの時とは場所も時間も状況も違うのに、何故か不吉な匂いがして。

「さぁ、レティシア嬢も会場へ戻ろうか。君をここに連れ出した使用人もきっと心配しているよ」

 やはりレティシアを嘘の理由でここへ呼び出したあの使用人が、良心の呵責に苛まれてエドガーを案内したのだ。
 その事実を遠回しに伝えてくるエドガーは、変わらず柔らかな笑みを浮かべていて。
 先程この国の行末を揺るがすような取引を条件に、イリナという新しい妻を得る決断をしたとは到底思えないその落ち着きに、レティシアはエドガーという人物がますます分からなくなった。
 



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