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第二章 美しく成長したレティシア
63. パトリックの部屋で、二人が見たもの
しおりを挟むレティシアは屋敷に戻るなり、パトリックの居室を訪れた。
姉弟とはいえ、パトリックは幼い頃からレティシアに懐かなかった。ゆえに、お互いの居室へ気軽に出入りするような仲では無かったのだった。
先日、ベリル侯爵から大金を使った事を叱られたパトリックと、そのパトリックを庇った夫人は未だアレル子爵家に戻ったままで、屋敷を留守にしている。
レティシアは、そっと弟の部屋のドアノブを回した。掃除をする為の使用人すら入る事を禁じられているというパトリックの居室は、まるでレティシアを中へ中へと誘うように、簡単に入り口の扉を開いた。
勝手に私室に入る事がはしたないと重々承知の上で、レティシアはそうせずにはいられなかった。
初めて足を踏み入れるカーテンが閉め切られた薄暗いパトリックの部屋に、レティシアは異様な空気を感じ取る。
室内に強く漂っていたのは、嗅ぎ慣れた様々な薬草の香りで。レティシアは室内いっぱいに広げられた書物と何かの道具の間を縫うように少しずつ進む。
どうしてだか居室の奥にある一角が、気になって仕方がなかったのだ。
真っ白な花が花瓶に飾られた、こぢんまりとした祭壇のようなものが作られた場所。そこには古い肖像画が飾られている。
優しくこちらに微笑みかけるような表情の女性の肖像画を、あのパトリックが描いたのだろうかと、レティシアは不思議に思った。
何故ならばその女性は、レティシアが見た事が無い人物だったからである。ベリル侯爵夫人とも、もちろんレティシアとも違う。
まだ九歳のパトリックが、レティシアよりも年上らしいこの女性と出会う機会など、いつあったのだろうか。
「この女性、どなたかしら……」
ハンカチのような物を刺繍している様子の女性が微笑む肖像画に、そっと触れてみる。すると、随分と古い物だと分かった。とてもパトリックが描いたとは思えないほど、歴史を感じる代物である。
よく見れば、ちょうど膝の上に置かれたハンカチの角に当たるところへ、目立たぬようにサインのようなものが入っている。
「ファブリス……」
どうしてその名がここに……と、レティシアは背筋に冷たいものが駆け上がる心地がした。
「きゃ……っ!」
思わず後退りしたレティシアの足元では、幾つもの古びた本が積み重なっている。危うく躓いて転びそうになったところを机に手をついて難を逃れた。
「この本……」
朽ちかけている本もある中で、レティシアがいくつか読み取れた文字は「時の魔術」「逆行」「死者の再生」「禁断」など。
まだ九歳のパトリックが読むような本には思えず、レティシアは困惑する。
「とにかく、アヌビス様に相談を……」
魔術に関してはアヌビスが詳しいだろうと、すぐに宮殿へ使いを出した。
アヌビスを待つ間、パトリックの居室をゆっくりと見渡してみると、貴重な薬草や材料になる品が並べられ、道具だけでも相当な金額がかかっているだろうと思えた。
「お父様があれほど怒ってらしたのは、こういった物をパトリックが大金を使って街で手に入れたからかも知れないわ」
まだ九歳の子どもが、怪しげな道具や材料を大金を使って買ったとなれば、侯爵が怒るのも無理はない。
やがてアヌビスがベリル侯爵家に到着すると、レティシアは事情を説明しながら屋敷を進み、パトリックの居室へと案内した。
いつも遅くまで出仕しているベリル侯爵が未だ不在だったのが幸いであった。
「これは……」
パトリックの居室にその身を滑り込ませたアヌビスは、いつものように悪ふざけする事も無く、ただ驚きと疑念をその皺だらけの顔に浮かべた。
「この部屋が、九歳の子どもの部屋だと? これはまるで……」
「アヌビス様、こちらへ」
レティシアはアヌビスを、あの肖像画の前へと案内する。それを見るなりアヌビスは言葉を失い、そしてその場に崩れ落ちた。
「アヌビス様! 大丈夫ですか⁉︎」
「……まさか……まさかこんな事が……」
「アヌビス様、どうなさったのですか?」
「ファブリスじゃよ。ファブリスが……蘇ったというのか? まさか……」
レティシアの言葉が耳に届いているのかどうか分からないほど、アヌビスはブツブツと呟き続ける。まるで自分自身の気持ちを整理し、落ち着かせるように。
「レティシア、弟君はどこに?」
「お母様の実家であるアレル子爵家に……」
「アレル子爵家……か。ワシも未だ信じられんのじゃが、この弟君の部屋はまるでファブリスの部屋とそっくりで、この肖像画はアリーナに違いない。ファブリスはよく姉の絵を描いていたからの。それに……」
「それに?」
「この……白い花は……アリーナの一番好きじゃった花でのぅ」
祭壇の上に飾られている真っ白な花をそっと触りながら、アヌビスは肖像画の女性を見つめる。
「一体どういう事ですか? パトリックは……」
「ワシにも分からん。とにかく、弟君に会いたい。ワシはこの目で確かめねばならぬ」
「では、明日にでもアレル子爵家に共に参りましょう。ソフィー様には事情を伝えて、しばらく暇をいただくことにいたしますから」
レティシアはパトリックの色味は隔世遺伝の可能性が高い事を伝える為、どちらにせよ今晩にでもベリル侯爵に話をして、明日にはアレル子爵家にいる母親とパトリックを迎えに行くつもりだったのである。
「ああ、そうしよう。もう少し、部屋を見ても?」
「ええ、どうぞ。私も……パトリック不在の中で足を踏み入れるのはやはり後ろめたいと思っていましたが、思いがけない事になりました」
アヌビスは室内にある数多くの本に目を向ける。皺だらけの目元には、どのような感情が含まれているのかレティシアには分からなかった。
「……やはり、ここにある本はそのほとんどが昔ワシがファブリスに勧めた物だ。あの時……確かに処分したはずの本が、こんなに揃っているとはのぅ」
「パトリックが、また買い集めたのでしょうか」
「恐らく。こういった類の本を取り扱う店はこの帝国には少ないからのぅ。道具も然り……じゃ」
何に使うのか、レティシアには想像もつかないガラス製の道具を、アヌビスは優しく撫でながら眺めている。
「アヌビス様……」
「とにかく、明日はアレル子爵家に向かおう。会って直接聞いたほうが早いであろうからの」
アヌビスは皺だらけの手で、不安げな表情のレティシアの頭を優しく撫でた。
実際のところはアヌビス自身もかなり動揺していたのだが、そのような事は微塵も感じさせないような振る舞いに、レティシアはすっかり落ち着きを取り戻したのだった。
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