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第一章 逆行したレティシア(幼少期)

40. リュシアンと、レティシアは語る

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 翌日、レティシアはリュシアンの為に刺繍を施したハンカチを包むと、宮殿へと出仕する父親と共に馬車に乗り込んだ。

 以前ならば重苦しく苦痛であっただろう馬車の中での時間が、父親との語らいの場になるなどという事は、以前のレティシアならば想像もつかなかった事である。

「お前の話によって婚約破棄の事に関してはまだ教皇庁に受理されていないという事が分かったが、まだ信じられんな。皇后陛下と教皇聖下が知り人であるなどと、初耳だが」
「私も驚きました。ですがなんだかソフィー様の話ぶりからすると、遠い母国の関係かと」
「ソフィー皇后の母国は遥か遠くのセフィーロ王国で、先々帝が彼の国の国王と親しかったのだという事以外は、高官である私でも詳しくは知らんのだ」

 セフィーロ王国はこの帝国フォレスティエと距離的に離れているという事もあって今ではほとんど行き来が無く、現在の王国の内情などは謎に包まれている。
 ソフィー皇后も帝国に輿入れしてからというもの、どういった事情かは不明だが一度も母国に帰った事が無いのだった。

「とにかく、私はリュシアン様と話し合ってみます。せっかくソフィー様が時間を稼いでくださっているのですから」
「万が一、本当にどうしようもなく婚約破棄する事になったとしても、お前が気にする事は無い。元々は皇帝陛下の決めた政略結婚だったのだから」

 このような言葉をベリル侯爵が口にするなど、過去のレティシアが聞けば驚いただろう。それどころか、あまりの驚愕で腰を抜かしてしまったかも知れない。
 しかし今のレティシアには、目の前の座席に腰掛け口をへの字にして厳しい顔をする父の心が、すぐ近くにあるように感じられている。
 
 もう過去とは色々な事柄が全く違うのだ。

 それだけでレティシアは、この世界に逆行して来た意味を感じ取り、その幸せを噛み締めた。

 馬車どめで侯爵と別れたレティシアは、まずは皇太子宮へと向かった。
 今はまだ午前中の早い時間、リュシアンはきっと皇太子宮で日々の公務をこなしていると思ったからだ。

 そして目の前に皇太子の居室が見えて来ると、レティシアの心は不安にざわついた。
 いくら決心を固めてきたのだとしても、やはり緊張は隠せずに手足はカタカタと震えた。

 ふと、皇太子宮のすぐ近くに咲くヒソップが視界に入る。紫色の花弁をつけたその花は、風に揺られレティシアに向かって優しく手を振っているように見えた。

「大丈夫、全ては変わったのだから。きっとリュシアン様とも話せば分かり合えるわ」

 そう言って少しだけ足取りが軽くなったレティシアは、皇太子の執務室の前へとぐんぐん進んで行った。
 そして部屋を守る者にリュシアンへの取り次ぎを頼む。今会ってくれなかったとしても、待ち伏せしてでも必ず今日は話し合いをするのだと、レティシアはそこまで考えていた。

「レティシア嬢、お入りください」

 意外な事で、リュシアンはレティシアに会ってくれるようだ。レティシアはとても久しぶりに皇太子執務室へと足を踏み入れる事となった。

「リュシアン様、ごきげんよう。本日は私にお会いしてくださり光栄です」
「……今日は一体、何の用だ」
「あの……人払いをお願いいたします」

 緊張で震える声をしたレティシアの頼みに、リュシアンは素直に侍従達を部屋の外へと出した。
 昨日はもっと不機嫌そうな雰囲気であったが、今日のリュシアンは少しだけ表情が穏やかであるような、レティシアにはそんな気がしたのである。

 やがてリュシアンは執務机の前から立ち上がり、レティシアのいる方へとゆっくり歩み寄った。
 以前ならば当たり前に見ていたその何気ない姿に、レティシアはじんわり瞳を潤ませる。そして今にも眦から大粒の涙が零れようするのを、気付かれまいと瞬きをする事で誤魔化したのだった。

「願いを聞き入れてくださって、ありがとうございます」
「いや、構わない。それと……その、昨日はきつい物言いをしてしまってすまなかった」

 リュシアンからの意外な言葉に、レティシアは驚きを隠せずにいた。まさか謝罪を受けるとは思わなかったし、昨日のリュシアンの言葉はレティシアに当てたものというよりも、自分自身に苛立っているような、そんな気がしていたからだ。
 
「え……、いえ。そのような事、全く気にしておりません」

 リュシアンの久しぶりに聞く穏やかな言葉遣いに、レティシアは懐かしくて不思議な感情を覚えた。
 二人は一人掛け用のソファーへそれぞれ腰掛けると、まず口火を切ったのはレティシアであった。

「リュシアン様、私……実はイリナ嬢に自分が討たれた事を存じあげております。あの革命の日、愚かな傀儡であった私がお父様を庇って刺された、あの時の事です」

 リュシアンはその深い青色をした目を大きく見開いて、今日初めて真っ直ぐにレティシアの方を見た。
 レティシアの告げた言葉の後に、ひゅっと息を呑むような音がしたのは、決して空耳では無かったのだろう。その証拠に、唇が色を失ってしまっている。

「まさか……」
「そのまさかです。私自身も何故このような事になったのか分かりません。けれど確かに私はあの時イリナ嬢に討たれ、命を落としたのです。そして、此処へ回帰した。リュシアン様は……あの時私の命を……助けようと……してくださったのですね」
「レティシア……俺は」

 途中からレティシアの声は途切れ途切れとなり、嗚咽混じりのものに変わった。
 リュシアンはまだ呆然としているような、そんな気配でレティシアの様子をじっと見つめる。ただ先ほどよりも感情が乱れているのか、呼吸は荒く浅くなっているようだ。

「私の事を、助けてくださろうとした。それなのに何故……何故……突然婚約破棄をしようとなさったのです?」
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